紅毛傾城
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黄金郷《エルドラドー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海賊|砦《とりで》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]
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  序 ベーリング黄金郷《エルドラドー》の所在を知ること
     ならびに千島ラショワ島の海賊|砦《とりで》のこと

 四月このかた、薬餌《やくじ》から離れられず、そうでなくてさえも、夏には人一倍弱いのであるが、この夏私は、暑気が募るにしたがって、折りふし奇怪な感覚に悩まされることが多くなった。
 ちょうどそれは、私の心臓のなかで、脈打ちの律動が絶えず変化していくように、波打つ暑気の峰と谷とだ。はっきりと、しかも不気味にも知覚されるのであった。
 しかし、そうした折りには、家人に命じて庭先に火を焚《た》かせ、それに不用な雑書類などを投げ入れるのである。それは、影像の楯《たて》をつくって、ひたすら病苦から逃がれんがためであった。
 そのようにして私は、真夏の白昼舌のような火炎を作り、揺らぎのぼる陽炎《かげろう》に打ち震える、夏菊の長い茎などを見やっては、とくりともなく、海の幻想に浸るのが常であった。
 ところが、ある一日のこと、ふとその炎のなかで、のたうち回る、一匹の鯨を眼に止めたのである。
 そこで私は、まったく慌《あわ》てふためいて、手早く※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》を蹴散《けち》らしながら、取りだした二冊の書物があった。ああ、すんでのことに私は、貴重な資料を焼き捨ててしまうところだった。
 表紙のないその二冊には、ただピーボディ博物館という、検印が押してあるのみなので、軽率にも私は、取るに足らぬ目録のたぐいかと誤信して、そのまま書き屑《くず》のなかへ突っ込んでしまったらしいのである。
 しかし、そうして事新しく、その二冊を手にしたとき、これこそ、泥沼に埋もれつつある石碑《いしぶみ》の一つだと思った。
 それは以前、合衆国マサチュセッツ州サレムにあった、ピーボディ博物館の蔵書であって、著名な鯨画の収集家、アラン・フォーブス氏の寄贈になるものであった。
 で、そのうちの一冊は
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