、書名を『捕鯨行銅版画集《エッチングス・オヴ・ホウェーリング・クルーズ》、|付記、捕鯨略史《ウィズ・エ・ブリーフ・ヒストリー・オヴ・ゼ・ホウェール・フィッシャリー》』という、一八六六年の版、ジェー・アール・ブラウンという人の著書である。
 それには、ヨナと鯨の古版画をはじめとして、それらに入れ混じり、勝川|春亭《しゅんてい》の「品川沖之鯨|高輪《たかなわ》より見る之図」や、歌川|国芳《くによし》の「七浦捕鯨之図」「宮本武蔵巨鯨退治之図」などが挿入《そうにゅう》されてあった。
 しかし、真実の驚きというのは、もう一冊のほうにあって、私は読みゆくにしたがい、容易ならぬ掘り出し物をしたことがわかってきた。
 そのほうは、ずうっと版も古く、書名を『|捕鯨船ブリッグ号難破録《ゼ・ホウェーリング・ディザスター・オヴ・シップ・ブリッグ》』というのである。
 その船の名は、スターバックの『亜米利加《アメリカ》捕鯨史』にも記されているとおりで、一七八四年の夏ボストンに、鯨油六百|樽《バレル》を持ち帰ったのが、最初の記録だった。
 しかし同船は、その後一七八六年に、アリューシャン列島中のアマリア島で難破したのであるから、当然その一冊も、船長フロストの遭難記にほかならぬのである。
 ところが、内容の終わり近くになると、計らずも数ページの驚畏すべき記事が、私の眼を射た。
 それは、素朴《そぼく》そのままの、何ら飾り気のない文章で、七年ぶりに帰還した、土人ナガウライの談話と銘打たれてある。
 しかし、読みゆくにつれて、私の手は震え、脈が奔馬のように走り始めた。
 なぜなら、同人の見聞談として、最初まず、千島ラショワ島に築かれた、峨々《がが》たる岩城《いわしろ》のこと……、また、そこに住む海賊|蘇古根《そこね》三人姉弟のこと……、さらに、その島を望んだヴィッス・ベーリング――(注 ベーリング――。事実はそうでないが、ベーリング海峡の発見者といわれる丁抹《デンマーク》人。一七四一年「聖ピヨトル号」に乗じて、地理学者ステツレル、船長グレプニツキーとともに、ベーリング海峡を縦航したるも、十月五日コマンドルスキー群島付近において難破し、十二月八日壊血病にて斃《たお》る。その島をベーリング島という)が、兼ねて伝え聴きし、黄金郷こそこの島ならんか――と、その事実を、遺書にまで残したことなど、記されているの
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