、慈悲太郎の肩に現われた父の手も、どうやら錯覚らしく思われてきた。
というのは、白い地に、黄色い波形のものを置いて、その上を、紗《しゃ》のようなものでかぶせると、取り去ったとき、かえって残像が、白地のほうに現われて黒く見えるのである。
また、それには、光のずれ[#「ずれ」に傍点]のことなども考えられるので、あの時、指のひしゃげつぶれた、父の掌《て》と思ったものも、蓋《ふた》を割ると、案外たわいのない錯覚なのではなかったろうか。
と、フローラは、皮質をもみ脳漿《のうしょう》を絞り尽くして、ようやく仮説を組み上げたけれども、昨夜見た父の腕だけは、どう説き解しようもないのだった。
彼女は、一夜のうちに若さを失ってしまい、罪の重荷を、ひしと身に感じた。そして何もかも紅琴に打ち明けて、彼女の裁きを受けようと決心した。
「そういうわけで奥方様、私は、基督《ハリストス》様の御名など、口には出せぬ罪人なのでございます、横蔵様のときも、慈悲太郎様のときも――アレウート号に起こった、悪疫《えやみ》の因がそもそもではございますが――実は私、蝋燭《ろうそく》の芯《しん》の中に砒石《ひせき》を混ぜておいたのです。そして、立ち上がる砒の蒸気で、数多《あまた》の人の命を削ってまいりました。たしか、お気づきのことと思われますが、時折り見える、青い炎がそれでございました。ですもの、あの下手人が、だれであろうがどうだろうが、百度千度、清い心と自分から決めて十字を切ろうが、この憂愁と不安を除くことは、どうあってもできないのです。どうか私を、御心の行くままに、奥方様、どうなりともお裁きくださいまし……」
言い終わるとフローラは、まるで、汚物を吐き尽くした後のようにガックリとなった。
しかし、紅琴には、露ほども動揺した気色《けしき》がなく、じっと石壁に映る、入り日の反射をみつめていたが、やがてフローラを促して、岩城《いわしろ》を出《い》で、裏山に上って行った。
その頂きは鉛色をした、荒涼たるツンドラ沼だった。
そこには、露をつけた、背の低い、名の知れない植物が這《は》い回っていて、遠く浜から、かすかな鹹気《しおけ》と藻の匂いが飛んでくるのだ。紅琴の顔は、折りから白夜がはじまろうとする、入り日に燃えて、生き生きと見えた。
彼女はフローラに向かって、静かに、不思議な言葉を吐いた。
「そもじの嘆
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