したが……しかし久我さん、この図の原理には、けっしてそんなスウェーデンボルグ神学([#ここから割り注]「黙示録解釈」および「アルカナ・コイレスチア」において、スウェーデンボルグは出埃及記およびヨハネ黙示録の字義解釈に、牽強附会もはなはだしい数読法を用いて、その二つの経典が、後世における歴史的大事変の数々を預言せるものとなせり。[#ここで割り注終わり])はないのですよ。狂ったようなところが、むしろ整然たる論理形式なんです。また、あらゆる現象に通ずるという空間構造の幾何学理論が、やはりこの中でも、絶対不変の単位となっているのです。ですから、この図を宇宙自然界の法則と対称することが出来るとすれば、当然、そこに抽象されるものがなけりゃならん訳でしょう」と法水が、突如前人未踏とでも云いたいところの、超経験的な推理領域に踏み込んでしまったのには、さすがの検事も唖然《あぜん》となってしまった。数学的論理はあらゆる法則の指導原理であると云うけれども、かの「僧正殺人事件《ビショップ・マーダーケース》」においてさえ、リーマン・クリストフェルのテンソルは、単なる犯罪概念を表わすものにすぎなかったではないか。それだのに法水は、それを犯罪分析の実際に応用して、空漠たる思惟抽象の世界に踏み入って行こうとする……。
「ああ私は……」と鎮子は露《む》き出して嘲《わら》った。「それで、ロレンツ収縮の講義を聴いて直線を歪めて書いたと云う、莫迦《ばか》な理学生の話を憶い出しましたわ。それでは、ミンコフスキーの四次元世界に第四容積《フォースディメンション》([#ここから割り注]立体積の中で、霊質のみが滲透的に存在し得るという空隙。[#ここで割り注終わり])を加えたものを、一つ解析的に表わして頂きましょうか」
 その嗤《わら》いを法水は眦《めじり》で弾き、まず鎮子を嗜《たしな》めてから、「ところで、宇宙構造推論史の中で一番華やかな頁《ページ》と云えば、さしずめあの仮説決闘《セオリー・デュエル》――空間曲率に関して、アインシュタインとド・ジッターとの間に交された論争でしょうかな。その時ジッターは、空間固有の幾何学的性質によると主張したのでしたが、同時に、アインシュタインの反太陽説も反駁《はんばく》しているのです。ところが久我さん、その二つを対比してみると、そこへ、黙示図の本流が現われてくるのですよ」とさながら狂ったのではないかと思われるような言葉を吐きながら、次図を描いて説明を始めた。
[#仮説決闘の図(fig1317_03.png)入る]
「では、最初反太陽説の方から云うと、アインシュタインは、太陽から出た光線が球形宇宙の縁《へり》を廻って、再び旧《もと》の点に帰って来ると云うのです。そして、そのために、最初宇宙の極限に達した時、そこで第一の像を作り、それから、数百万年の旅を続けて球の外圏を廻ってから、今度は背後に当る対向点まで来ると、そこで第二の像を作ると云うのです。しかしその時には、すでに太陽は死滅していて一個の暗黒星にすぎないでしょう。つまり、その映像と対称する実体が、天体としての生存の世界にはないのです。どうでしょう久我さん、実体は死滅しているにもかかわらず過去の映像が現われる[#「実体は死滅しているにもかかわらず過去の映像が現われる」に傍点]――その因果関係が、ちょうどこの場合算哲博士と六人の死者との関係に相似してやしませんか。なるほど、一方は|Å《オングストローム》([#ここから割り注]一耗の一千万分の一[#ここで割り注終わり])であり、片方は百万兆哩《トリリオン・マイル》でしょうが、しかしその対照も、世界空間においては、たかが一微小線分の問題にすぎないのです。それからジッターは、その説をこう訂正しているのですよ。遠くなるほど、螺旋《らせん》状星雲のスペクトル線が赤の方へ移動して行くので、それにつれて、光線の振動週期が遅くなると推断しています。それがために、宇宙の極限に達する頃には光速が零《ゼロ》となり、そこで進行がピタリと止ってしまうというのですよ。ですから、宇宙の縁《へり》に映る像はただ一つで、恐らく実体とは異ならないはずです。そこで僕等は、その二つの理論の中から、黙示図の原理を択ばなければならなくなりました」
「ああ、まるで狂人《きちがい》になるような話じゃないか」熊城《くましろ》はボリボリふけを落しながら呟いた。「サア、そろそろ、天国の蓮台から降りてもらおうか」
 法水は熊城の好謔にたまらなく苦笑したが、続いて結論を云った。
「勿論太陽の心霊学から離れて、ジッターの説を人体生理の上に移してみるのです。すると、宇宙の半径を横切って長年月を経過していても、実体と映像が異ならない――その理法が、人間生理のうちで何事を意味しているでしょうか。たとえば、ここに病理的な潜在物があって、それが、発生から生命の終焉《しゅうえん》に至るまで、生育もしなければ減衰もせず、常に不変な形を保っているものと云えば……」
「と云うと」
「それが特異体質なんです」と法水は昂然と云い放った。「恐らくその中には、心筋質肥大のようなものや、あるいは、硬脳膜矢状縫合癒合がないとも限りません。けれども、それが対称的に抽象出来るというのは、つまり人体生理の中にも、自然界の法則が循環しているからなんです。現に体質液《ハーネマン》学派は、生理現象を熱力学の範囲に導入しようとしています。ですから、無機物にすぎない算哲博士に不思議な力を与えたり、人形に遠感的《テレパシック》な性能を想像させるようなものは、つまるところ、犯人の狡猾《こうかつ》な擾乱策《じょうらんさく》にすぎんのですよ。たぶんこの図の死者の船などにも、時間の進行という以外の意味はないでしょう」
 特異体質――。論争の綺《きら》びやかな火華にばかり魅せられていて、その蔭に、こうした陰惨な色の燧石《ひうちいし》があろうなどとは、事実夢にも思い及ばぬことだった熊城は神経的に掌《てのひら》の汗を拭きながら、
「なるほど、それなればこそだ――。家族以外にも易介を加えているのは」
「そうなんだ熊城君」と法水は満足気に頷《うなず》いて、「だから、謎は図形の本質にはなくて、むしろ、作画者の意志の方にある。しかし、どう見てもこの医学の幻想《ファンタジイ》は、片々たる良心的な警告文じゃあるまい」
「だが、すこぶる飄逸《ユーモラス》な形じゃないか」と検事は異議を唱えて、「それで露骨な暗示もすっかりおどけてしまってるぜ。犯罪を醸成するような空気は、微塵《みじん》もないと思うよ」と抗弁したが、法水は几帳面《きちょうめん》に自分の説を述べた。
「なるほど、飄逸《ユーモア》や戯喩《ジョーク》は、一種の生理的|洗滌《せんでき》には違いないがね。しかし、感情の捌《は》け口のない人間にとると、それがまたとない危険なものになってしまうんだ。だいたい、一つの世界一つの観念――しかない人間というものは、興味を与えられると、それに向って偏執的に傾倒してしまって、ひたすら逆の形で感応を求めようとする。その倒錯心理だが――それにもしこの図の本質が映ったとしたら、それが最後となって、観察はたちどころに捻《ねじ》れてしまう。そして、様式から個人の経験の方に移ってしまうんだ。つまり、喜劇から悲劇へなんだよ。で、それからは、気違いみたいに自然淘汰の跡を追いはじめて、冷血的な怖ろしい狩猟の心理しかなくなってしまうのだ。だから支倉《はぜくら》君、僕はソーンダイクじゃないがね、マラリヤや黄熱病よりも、雷鳴や闇夜の方が怖ろしいと思うよ」
「マア、犯罪徴候学……」鎮子は相変らずの冷笑主義《シニシズム》を発揮して、
「だいたいそんなものは、ただ瞬間の直感にだけ必要なものとばかり思っていましたわ。ところで易介という話ですが、あれはほとんど家族の一員に等しいのですよ。まだ七年にしかならない私などとは違って、傭人《やといにん》とは云い条、幼い頃から四十四の今日《こんにち》まで、ずうっと算哲様の手許で育てられてまいったのですから。それに、この図は勿論索引には載っておりませず、絶対に人目に触れなかったことは断言いたします。算哲様の歿後誰一人触れたことのない、埃だらけな未整理図書の底に埋《うず》もれていて、この私でさえも、昨年の暮まではいっこうに知らなかったほどでございますものね。そうして、貴方の御説どおりに、犯人の計画がこの黙示図から出発しているものとしましたなら、犯人の算出は――いいえこの減算《ひきざん》は、大変簡単ではございませんこと」
 この不思議な老婦人は、突然解し難い露出的態度に出た。法水もちょっと面喰《めんくら》ったらしかったが、すぐに洒脱《しゃだつ》な調子に戻って、
「すると、その計算には、幾つ無限記号を附けたらよいのでしょうかな」と云った後で、驚くべき言葉を吐いた。「しかし、恐らく犯人でさえ、この図のみを必要とはしなかったろうと思うのです。貴女《あなた》は、もう半分の方は御存じないのですか」
「もう半分とは……誰がそんな妄想を信ずるもんですか※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と鎮子が思わずヒステリックな声で叫ぶと、始めて法水は彼の過敏な神経を明らかにした。法水の直観的な思惟の皺《しわ》から放出されてゆくものは、黙示図の図読といいこれといい、すでに人間の感覚的限界を越えていた。
「では、御存じなければ申し上げましょう。たぶん、奇抜な想像としかお考えにならないでしょうが、実はこの図と云うのが、二つに割った半葉にすぎないんですよ。六つの図形の表現を超絶したところに、それは深遠な内意があるのです」
 熊城は驚いてしまって、種々《いろいろ》と図の四縁《しえん》を折り曲げて合わせていたが、「法水君、洒落《しゃれ》はよしにし給え。幅広い刃形《やいばがた》はしているが、非常に正確な線だよ。いったいどこに、後から截《き》った跡があるのだ?」
「いや、そんなものはないさ」法水は無雑作に云い放って、全体が※[#右肩下がりのナイフの刀身に横線が一本入っている形(fig1317_04.png)、85−5]の形をしている黙示図を指し示した。「この形が、一種の記号語《パジグラフィ》なんだよ。元来死者の秘顕なんて陰険きわまるものなんだから、方法までも実に捻《ねじ》れきっている。で、この図も見たとおりだが、全体が刀子《とうし》([#ここから割り注]石器時代の滑石武器[#ここで割り注終わり])の刃形みたいな形をしているだろう。ところが、その右肩《うけん》を斜めに截った所が、実に深遠な意味を含んでいるんだよ。無論算哲博士に、考古学の造詣《ぞうけい》がなけりゃ問題にはしないけれども、この形と符合するものが、ナルマー・メネス王朝あたりの金字塔《ピラミッド》前象形文字の中にある。第一、こんな窮屈な不自然きわまる形の中に、博士がなぜ描《か》かねばならなかったものか、考えてみ給え」
 そうして、黙示図の余白に、鉛筆で※[#右肩下がりのナイフの刀身のような形(fig1317_05.png)、85−13]の形を書いてから、
「熊城君、これが※[#2分の1、1−9−20]を表わす上古埃及《コプチック》の分数数字だとしたら、僕の想像もまんざら妄覚ばかりじゃあるまいね」と簡勁《かんけい》に結んで、それから鎮子に云った。「勿論、死語に現われた寓意的な形などというものは、いつか訂正される機会がないとも限りません。けれども、ともかくそれまでは、この図から犯人を算出することだけは、避けたいと思うのです」
 その間、鎮子は懶気《ものうげ》に宙を瞶《みつ》めていたが、彼女の眼には、真理を追求しようという激しい熱情が燃えさかっていた。そして、法水の澄みきった美しい思惟の世界とは異なって、物々しい陰影に富んだ質量的なものをぐいぐい積み重ねてゆき、実証的な深奥のものを闡明《せんめい》しようとした。
「なるほど独創は平凡じゃございませんわね」と独言《ひとりごと》のように呟《つぶや》いてから、再び旧《もと》どおり冷酷な表情に返って、法水を見た。「ですから、
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