オ、もう一つ、側面から刺戟してきたものがあって、奇妙なことに、その一つのサントニンが犯人にも影響を与え、その両面を合わせてみると、まるで陰画と陽画のように符合してしまうのだよ。と云うのは、ほかでもない、あの園芸靴の靴跡なんだ。あれは既《とう》に、僕の解析から偽造足跡であることが、判明したけれども、その復路の中途で何の意味もなく、当然踏めばよいとしか思われない、枯芝を大きく跨《また》ぎ越えている。ところが、その危く見逃すところだった微細な点――云わば|毛ほど《ラナ・カプリナ》のものとも云うものに、実を云うと、犯人の死命を制した一つの盲点があったのだよ。そこに僕は、|因果応報の神《ネメシス》の魔力を、しっかと捉えることが出来た。この運命悲劇では、犯人がボルジアの助毒として用いた、サントニンによって、終局には自らが斃《たお》されなければならなかったのだ。何故なら支倉君、犯人はダンネベルグ夫人と同じに、自分もサントニンを嚥《の》まなければならなかったのだから、当然そう判ると、あの枯芝を何故|跨《また》がねばならなかったか――という意味が、判然《はっきり》とするだろう。つまり、それは一種脳髄上の盲点で、自分にはさほどの黄視症状も起っていないにかかわらず、当然黄視症が発していると信じてしまったのだ。そして、あの――夜目に黄色く光って見える枯芝を、水溜りが、黄視症のために黄色く見えた――と錯誤を起したからなんだよ。しかし、サントニンが腎臓に及ぼした影響が、一方あの屍光の生因を、体内から皮膚の表面へ担ぎ上げてしまったのだ」
それから、法水は帷幕《とばり》の中に入って、寝台の塗料《ニス》の下にグイと洋刀《ナイフ》の刃を入れた。すると、下にはまた瀝青様《チャンよう》の層があって、それに鉛筆の尻環《しりかん》を近づけると、微かながらさだかに見える螢光が発せられた。
「今までは、寝台の附近に、屍体のような精密な注視を要求するものがなかったので、それで、自然気がつかれなかったに違いないがね。勿論この瀝青《チャン》様のものが、ウラニウムを含むピッチブレンドであることは云うまでもあるまい。そして、僕がいつぞや指摘した四つの聖僧屍光、それがことごとくボヘミア領を取り囲んでいるのだ。勿論それは、新旧両教徒の葛藤が生んだ、示威的な奸策にすぎないだろう。けれども、それが地理的に接近しているのは、ちょうどその中心に、主産地であるエルツ山塊があるためにほかならないのだ。しかし、要するに、あの千古の神秘は、一場の理化学的|瑣戯《さぎ》にすぎないのだよ。ところで支倉君、君は砒食人《アーセニック・イーター》という言葉の意味を知っているだろうね。ことに、中世の修道僧が多く制慾剤として砒石を用いていたことは、ローレル媚薬([#ここから割り注]ローレル油に極微の青酸を加えたもの。痙攣を発して一種異様な幻覚を起す自涜剤[#ここで割り注終わり])などとともに著名な話なんだ。ところが、ロダンの『接吻《キッス》』の中から、僕がいま発見した内容にも記されているとおりで、ダンネベルグ夫人もやはり砒食人《アーセニック・イーター》――常日頃神経病の治療剤として、夫人は微量の砒石を常用していたのだ。そうすると、永い間には、組織の中にまでも、砒石の無機成分が浸透してしまう。したがって、サントニンによって浮腫や発汗が皮膚面に起ると、当然、そこに凝集している砒石の成分層が、ピッチブレンドのウラニウム放射能をうけなければならないだろう」
「勿論現象的には、それで十分説明がつくだろうがね。また、どんなに表現の朦朧《もうろう》たるものでも、たしか新しい魅力には違いない。だがしかしだ。君の説明は、故意に具体的な叙述を避けているように思われる。いったい犯人は誰なんだ?」と検事は、指を神経的に絡《から》ませて、グビッと唾《つば》を嚥《の》み込んだ。
「たしか、あの時伸子は、ダンネベルグ夫人と同じ檸檬水《レモナーデ》を嚥《の》んだはずだったがね。しかし、あの女は既《とう》に、ファウスト博士の手で、旧《もと》の元素に還されてしまってるんだ」
その間法水は、生気のない鈍重な、生命の脱殻《ぬけがら》のようになって突っ立っていて、むしろその様子は、烈しい苦痛の極点において、勝利を得た人のごとくであった。既《とう》に整頓の楔《けい》点が近づいたせいか、その急激に訪れた疲労は、恐らく何物にもまして、魅惑的なものだったに違いないであろう。しかし、そのうち烈しい意志の力が迸《ほとばし》り出てきて、
「うん、その紙谷伸子《かみたにのぶこ》だが」とガクリと顎骨《あごぼね》が鳴り、瞬間新しい気力が生気を吹き込んできた。「それがとりもなおさず、クニットリンゲンの魔法使さ」
実に黒死館の幽鬼ファウスト博士こそ、紙谷伸子だったのだ。しかし、それを聴いた刹那《せつな》検事と熊城には、いったんは理法と真性のすべてが、蜻蛉《とんぼ》返りを打ってケシ飛んでしまったように、思われたけれども、少し落ち着いてくると、それにはむしろ、真面目《まじめ》な反論を出すのが莫迦《ばか》らしくなったくらい、不思議なほど冷静な、反響一つ戻ってゆかないという静けさだった。第一、それを否定する厳然たる事実の一つと云うのは、伸子は既《とう》に五人目の人身御供《ひとみごくう》に上っていて、その歴然たる他殺の証跡が、法水の署名を伴って検死報告書に記されているのだ。それから家族以外の彼女には、動機と目すべきものが何一つなく、しかも法水の同情と庇護《ひご》を一身に集めていた伸子が、どうして犯人だったと信ぜられようか。それゆえ熊城には、それがえてして頭を痛めているものの罹《かか》りやすい、或る病的な傾向と見て取ったのも無理ではなかった。
「まるで、気が遠くなりそうな話じゃないか。それとも、真実君が正気でいるのなら、たった一つでも、僕はそれに刑法的価値を要求するよ。まずなにより、伸子の死を自殺に移すことだ」
「ところが熊城君、今度は、|毛ほど《ラナ・カプリナ》のもの――と云うが扉《ドア》の羽目《パネル》にあって、それを君に、実際証拠として提供しよう」と法水は、相手の無反響を嘲り返すように、力を罩《こ》めて云った。
「ところで、例《ため》しに、こういう場合を考えて見給え。あらかじめ、針に竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維を結び付けて、一方の扉《ドア》に軽く突き立てておき、その一端を鍵穴の中に差し入れて、そこへ水を注ぎ込む。すると、当然あの繊維が収縮を始めて、扉の開きがしだいに狭められてゆくだろう。その時、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を射った拳銃が、手許から投げ出されて、そうした機《はず》みに、二つの扉《ドア》の間へ落ちたのだ。そうして、何分か後に扉《ドア》が鎖されると、前もって立てておいた掛金が、パッタリと落ちる。いや、それよりも扉《ドア》の動きが、拳銃を廊下へ押し出してしまうじゃないか。勿論|竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維は、針を引き抜いて、それごと鍵穴の中に没していったのだ」と言葉を切って、長く深く、慄《ふる》えがちな息を吸い込んだ。そして、真黒な秘密の重荷とともに、再び吐き出された。
「ところが熊城君、そうして他殺から自殺に移されるということになると、そこに、どんな光によっても見ることの出来ない、伸子の告白文が現われてくるのだ。それは気紛《きまぐ》れな妖精めいた、豊麗《ほうれい》な逸楽的な、しかも、ある驚くべき霊智を持った人間以外は、とうていその不思議な感性に触れることが出来ないのだ。伸子は、あの陳腐《ちんぷ》きわまる手法に、一つの新しい生命を吹き込んだ……」
「なに、告白文※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は、脳天まで痺《しび》れきったような顔をして、莨《たばこ》を口から放し、ぼんやりと法水の顔を見詰めている。
「うん、焔の弁舌だよ。しかも、その焔はけっして見ることは出来ないのだ。しかも、ファウスト博士の最後の儀礼《パンチリオ》で、それは一種の秘密表示《サイファリング・エキスプレッション》なんだ。ねえ支倉君、例えば、髪・耳・唇・耳・鼻――と順々に押えてゆくと、それが Hair《ヘーア》. Ear《イーア》. Lips《リップス》. Ear《イーア》. Nose《ノーズ》 で、結局 Helen《ヘレン》 となる――そういう、秘密表示《サイファリング・エキスプレッション》の一種を、伸子は、他殺から自殺に移ってゆく転機の中に、秘めておいたのだ。ところで、その最初は、屍体で描いたKの文字だが、それは伸子が自企的に起した、比斯呈利《ヒステリー》性痳痺[#「痳痺」はママ]の産物だったのだよ。その幾多の実例が、グーリュとブローの『人格の変換』の中にも記されているとおりで、ある種の比斯呈利《ヒステリー》病者になると、鋼鉄を身体に当てて、その反対側に痳痺[#「痳痺」はママ]を起すことが出来るのだ。つまり、左手を高く挙げて、一方の扉《ドア》の角に寄り掛っていた所へ、右頬へ拳銃を当てたのだから、当然左半身に強直が起るだろう。そして、そのまま発射とともに、床の上に倒れたので、垂直をなしている左半身が、例の薄気味悪いKの字を描かせてしまったのだ。しかし、勿論それは、|地精よいそしめ《コボルト・ジッヒ・ミューヘン》――の表象《シムボル》ではない。その二つの扉《ドア》を結んで、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維が作った――その半円というのは、どう見てもU字形じゃないか。それから、扉《ドア》に押された拳銃が動いていった線が、あろうことかSの字を描いているんだ。ああ、地精《コボルト》、水精《ウンディネ》、風精《ジルフェ》……。そして、最後に、あの局状《シチュエーション》の真相 Suicide《シュイサイド》([#ここから割り注]自殺[#ここで割り注終わり])を加えると、その全体が 〔Ku:ss〕《キュッス》 となってしまう。そこに、奇矯を絶したファウスト博士の懺悔《ざんげ》文が現われてくるのだ。勿論伸子は、それ以前に或る物体を、『接吻《キッス》』の像の胴体に隠匿《いんとく》しておいた……」
それには、二つの異常な霊智が、生死を賭《と》してまで打ち合う壮観が描かれていた。検事は、腐れ溜った息で窒息しそうになったのを、危く吐き出して、
「すると、当然その竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の詭計《トリック》が、鐘鳴器《カリリヨン》室の扉《ドア》や十二宮《ゾーディアック》の円華窓《えんげまど》にも行われたのだろうがね。しかし、あの時は旗太郎が犯人に指摘され、自分自身は、勝利と平安の絶頂に上りつめた――そのところで、伸子は不思議にも自殺を遂げているのだ。法水君、そのとうてい解しきれない疑問と云うのは……」
「それが支倉君、あの夜最後に僕が伸子に云った――色は黄なる秋、夜の灯《ともしび》を過ぎれば紅き春の花とならん――というケルネルの詩にあるんだよ。まさにその瞬間、伸子は悲惨な転落を意識しなければならなかったのだ。何故なら、元来アレキサンドライトという宝石は、電燈の光で透かすと、それが真紅に見えるからだ。そこで僕は、伸子がレヴェズにあの室《へや》を指定して、自分はアレキサンドライトを髪飾りにつけ、それに電燈の光を透過《すか》させて、レヴェズを失意せしめた――と解釈するに至った。ねえ支倉君、この警句はどうだろうね。レヴェズ――あの洪牙利《ハンガリー》の恋愛詩人《ツルバズール》は、秋を春と見てこの世を去った――と」と一息深く莨《たばこ》を吸いこんでから二人が惑乱気味に嘆息するのも関《かま》わず、法水は云い続けた。
「ところが、あの黄から紅《くれない》――には、なおそれ以外にも別の意義があって、勿論僕が、サントニンの黄視症を透視したというのも、偶然の所産ではなかったのだよ。何故なら、それから、犯人の潜勢状態を剔抉《てっけつ》したからだ。それを他の言葉で云うと、兇行によってうけた犯人の精神的外傷――つまり、その際に与えられた表象や観念の、感覚的情緒的経験の再現にあ
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