チたのだ。勿論僕は、神意審問会の情景を再現した際に、なんとなく伸子の匂いが強く鼻を打ってきたのだ。で、試みに、譏詞《きし》と諷刺のあらん限りを尽し、お座なりの捏造《ねつぞう》を旗太郎に向けてみた。云うまでもなく、それは伸子の緊張と警戒を取り去るためだったのだが、勿論ダンネベルグ夫人の自働手記は、伸子がテレーズの名を書かせたのだったし、レヴェズの死と拇指痕の真相以外は、何一つ真実でなかったのだよ。それで、ふと黄から紅に――という一言を、アレキサンドライトと紅玉《ルビー》の関係に、寓喩《アレゴリー》として使ってみた。ところが、意外にも、それが全然異なった形となって、伸子の心像の中に現われてしまったのだ。と云うのは、ラインハルトの『抒情詩の快不快の表出』という著述の中に、ハルピンの詩『愛蘭土星学《アイリッシュ・アストロノミー》』のことが記されてある。その中の一句――|聖パトリック云いけらく獅子座彼処にあり、二つの大熊、牡牛、そうして巨蟹が《セント・パトリック・セエッド・エ・ライオン・ライス・ゼア・ツウ・ベアス・エ・ブル・エンド・キャンサー》――とその巨蟹《キャンサー》(Cancer)という個所《ところ》に来ると、朗読者は突然、それを運河《キャナラー》(Canalar)と発音してしまったと云うのだ。つまり、その朗読者が、それまで星座の形を頭の中に描いていたからで、いわゆるフロイドの云う――言い損いの表明にこびりついている感覚的痕跡――に相違ないのだ。また、一面には聯想というものが、その一字一字には現われず、全体の形体的印象――つまり、空間的な感覚となって現われたとも云えるだろう。しかし、伸子の場合になると、それが、ダンネベルグ事件から礼拝堂の惨劇に至る――都合四つの事件を表出化してしまったのだ。何故なら伸子は、洋橙《オレンジ》と云った後で、麦藁《ストロー》を束にして檸檬水《レモナーデ》を嚥《の》む――という言葉を吐いた。当然それには、鐘鳴器《カリルロン》に並んでいる鍵盤の列が、その印象に背景をなしていると思われた。それから、続いてダンネベルグ夫人の名を、丁抹国旗《ダーネブローグ》(Danebrog)と云い損ったのだが、それには明《あか》らさまに、武具室の全貌が現われているのだ。と云うのは、あの時伸子は、前庭の樹皮亭《ボルケンハウス》の中にいて、レヴェズの作った虹の濛気が、窓から入り込んでゆくのを、眺めていた。ところが、あの樹皮亭《ボルケンハウス》の内枠には、様々な詩文が刻み込まれていて、その中にフィッツナーの|その時霧は輝きて入りぬ《ダン・ネーベル・ロー・グクテン》(Dann, Nebel−loh−guckten)――の一文があったのだ。つまり、その際の混淆《こんこう》された印象が丁抹国旗《ダーネブローグ》という、相似した失語になって現われたのだよ。そうすると支倉君、あの四句に分れていた伸子の言葉の中で、鐘鳴室《カリルロン》と武具室と――こう二つの印象だけが、奇妙にも、真中に挾まれている。となると……」と言葉を切って、その驚くべき心理分析に、法水は、最後の結論を与えた。
「すると当然、その首尾にある黄と紅――。その二つからうけた感覚が、最初のダンネベルグ事件と、終りの礼拝堂の場面でなければならないだろう。そうして、最後の紅が、絢爛《けんらん》たる宮廷楽師《カペルマイスター》の朱色の衣裳だとすれば、何故最初のダンネベルグ事件から、伸子は、黄という感覚をうけたのだろうか」そのあいだ検事と熊城は、さながら酔えるがごとき感動に包まれていた。が、ややあってから、熊城はおもむろに不明な点を訊ねた。
「しかし、礼拝堂で暗中に聞えたという二つの唸《うな》りには、伸子か旗太郎か――そのいずれかを、決定するものがあるように思われるんだが」
「それは、死点《デッドポイント》と焦点《フォーカス》の如何《いかん》――つまり、音響学の単純な問題にすぎないのさ。たぶんクリヴォフ夫人の位置が、伸子がペダルで出した唸りに対して、死点《デッドポイント》。旗太郎の弓《キュー》が擦《す》れ合って起った響には、あの微かな囁《ささや》きさえも、聴き取れるという焦点《フォーカス》だったに相違ないのだ。そして、夫人が伸子の方に寄ったところを、背後から刺し貫いたのだ。ねえ支倉君、これ以上論ずる問題はないと思うが、ただただ憐憫《れんびん》を覚えるのは、伸子に操られて鞠沓《まりぐつ》を履《は》かせられ、具足まで着せられた暗愚な易介なんだよ」そう云ってから法水は、最初から順序を追い、伸子の行動を語りはじめた。勿論それによって、ピロカルピンの服用も、一場の悪狡《わるがしこ》い絵狂言であることが判明した。それから、語り終えると法水は言葉を改めて、いよいよ、黒死館殺人事件の核心をなす疑義中の疑義――どんなに考えてもとうてい窺知《きち》[#「窺知」は底本では「窮知」]し得べくもなかった、伸子の殺人動機に触れた。それは無言の現実だった。ロダンの「接吻《キッス》」の胴体から取り出したものを、法水が衣袋《ポケット》から抜き出した時、思わず二人の眼がその一点に釘付けされてしまった――乾板。そして、幾つかの破片をつなぎ合わせて見ると、それには次の全文が現われたのである。
[#ここから1字下げ]
一、ダ□□ベ□□□□□砒石の□□□□。
一、川那部□□□□、胸腺死の危□□□□。
(特異体質の箇条は、その二つにのみ尽きていて、それ以前のものは不明だった)
一、余は、吾児□犠牲とするに忍□□□□を以て、生れた女児を男児に換えて、生長後余が秘書として手許□□□□□紙谷伸子なり。それ故、旗太郎は□□□□血系には全然触れざるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
こうして、紛糾混乱を重ねた黒死館殺人事件は、ついに最終の幕切れにおいて、紙谷伸子を算哲の遺子として露わすに至った。そうなると、勿論算哲の悶死《もんし》は、伸子の|親殺し《ファテールテーツング》であり、|父よ吾も人の子なり《パテル・ホモ・スム》――の一文は、当然その深刻をきわめた、復仇の意志にほかならないのだった。しかし、その乾板と云うのが、法水の夢想の華《はな》――屍様図の半葉であったとは云え、要するに、現存のものはその一部のみであって、他は落した際に微塵となったか、それとも、伸子が破棄してしまったものか、いずれにしても二人以外の特異体質の闡明《せんめい》は、久遠《くおん》の謎として葬られなければならなかった。やがて検事は、夢から醒めたような顔になって訊ねた。
「なるほど、当然自分が当主でありながら、今さらどうにもならない――それが因で、伸子を残忍な欲求の母たらしめた。あの嗜血癖《しけつへき》の起因は、僕にもようく判るんだ。しかし、犯行のつどに、恐らく人間の世界を超絶しているとしか思われない、怪異美と大観とを作り出したのは――。法水君、それを心理学的に説明してくれ給え」
「それは、一口に云えば遊戯的感情――一種の生理的洗滌《カタルシス》さ。人間には、抑圧された感情や乾ききった情緒を充すものとして、何か一つの生理的洗滌《カタルシス》が要求される。ねえ支倉君、ザベリクス([#ここから割り注]若きファウストと呼ばれ、十六世紀の前半、独乙国内を流浪した妖術師[#ここで割り注終わり])やディーツのファウスチヌス僧正などが精霊主義《オクルチスムス》に堕ち込んだと云うのも……。すべて、人間が力尽き反噬《はんぜい》する方法を失ってしまった際には、その激情を緩解するものが、精霊主義《オクルチスムス》だと云うじゃないか。それにあの畸狂変態の世界を作り出した種々《いろいろ》な手法には、さしずめ、書庫にあるグイド・ボナットー([#ここから割り注]十三世紀伊太利のファウストと云われた魔術師[#ここで割り注終わり])の『点火術要論《アルテ・デラ・ピロマンティ》』やヴァザリの『|祭礼師と謝肉祭装置《フェスティヴォリー・エト・カルナヴァレ・アパラティ》』などの影響が窺《うかが》われるね[#「窺われるね」は底本では「窮われるね」]。もともと伸子は、あの乾板盗みを、ふとした悪戯気《わるさげ》から演《や》ったのだろう。けれども、その内容を知った時に、恐らく伸子は、魔法のような物凄い月光を感じたに相違ない。その突如として起った、絶命――喪心――宿命感、そう云った感情が十字に群がってきて、それまでの心の平衡を保たせていた、対立の一方が叩き潰《つぶ》されたのだ。そして、それがあの破壊的な、神聖な狂気を駆り立てて世にもグロテスクな爆発を惹《ひ》き起させたのだよ。しかし、僕はけっして、伸子を悖徳症《モーラル・インサニティ》とは呼ばないだろう。あれは、ブラウニングの云う|運命の子《チャイルド・オブ・デスチニイ》、この事件は、一つの生きた人間の詩――に違いないのだ」そう云って法水は、澄みきった聰明そうな眼色で検事を顧《かえり》みた。「ねえ支倉君、せめて、最後の送りだけでも、この神聖家族の最後の一人に適《ふさ》わしいよう、伸子を飾ってやろうじゃないか」
こうして、メディチ家の血系、妖妃《ようひ》ビアンカ・カペルロの末裔《まつえい》、神聖家族|降矢木《ふりやぎ》の最後の一人紙谷伸子の柩《ひつぎ》は、フィレンツェの市旗に覆われ、四人の麻布を纏《まと》った僧侶の肩に担がれた。そして、湧き起る合唱と香煙の渦の中を、裏庭の墓※[#「穴かんむり/石」、470−10]《ぼこう》をさして運ばれて行ったのである――閉幕《カーテン・フォール》。
底本:「黒死館殺人事件」現代教養文庫、社会思想社
1977(昭和52)年4月25日初版第1刷発行
1984(昭和59)年6月15日初版第6刷発行
底本の親本:「黒死館殺人事件」新潮社
1935(昭和10)年5月
初出:「新青年」博文館
1934(昭和9)年4月号〜12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、「法定期限は二ヶ月しかない」以外は大振りにつくっています。
※底本で使用されている「〔〕」はアクセント分解を表す括弧と重複しますので「【】」に改めました。
※ヘブライ文字の認定にあたっては、「国際符号化文字集合(UCS)――第1部:大系及び基本多言語面 JIS X 0221−1:2001 (ISO/IEC 10646−1:2000)」日本規格協会を参照し、同規格の文字の名前を鍵括弧内に記載しました。
※以下の混在は、底本通りです。「カルテット」と「クワルテット」、「オブ」と「オヴ」、「甲冑」と「甲胄」、「佝僂《せむし》」と「傴僂《せむし》」、「ボーデの法則」と「ボードの法則」、「ザラマンダー」と「サラマンダー」、「鐘鳴器《カリリヨン》」と「鐘鳴器《カリルロン》、「侘《わび》」と「佗《わび》」、「四重奏団《クワルテット》」と「四重奏《クワルテット》団」と「四重奏《クワルテット》曲」、「純護謨製《ピュアー・ラバー》」と「純護謨製《ピュアラバー》」と「純護謨製《ピュアラバァ》」、「ウエイルズ」と「ウエールス」、「天馬星《ペガスス》」と「天馬座《ペガスス》」、「毘沙門天《ヴァイシュラヴァナ》」と「毘沙門天《ヴィシュラヴァナ》」、「フィート」と「フイート」、「白羊宮《アリエス》」と「白羊宮《アリース》」、「巨蟹宮《カンセル》」と「巨蟹宮《カンケル》」、「クミエルニツキー」と「クメルニツキー」、「ボルケン・ハウス」と「ボルケンハウス」、「何人《なんぴと》」と「何人《なんびと》」
入力:ロクス・ソルス
校正:小林繁雄
2006年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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