セ葉を截ち切って、法水は鋭く旗太郎を見据えた。「しかし、この襟布《カラー》には、勿論誰の顔も現われてはいません。けれども、いずれこの事件の恐竜《ドラゴン》は、鎖の輪から爪を引き抜くことが、できなくなってしまうでしょう」
 汗まみれになった旗太郎には、このわずかな間に、胆汁が全身に溢《あふ》れ出たのではないかと思われた。すでに、怒号する気力も尽き果てて、ぼんやりあらぬ方を瞶《みつ》めている。が、やがて、フラフラ揺れている身体が棒のように硬くなったかと思うと、喪心した旗太郎は、顔を水平に打衝《うちつ》けて卓上に倒れた。それを法水が室外に連れ去らせると、セレナ夫人も軽く目礼して、その後に続いた。そうして、伸子一人が残された室内には、しばらく弛《ゆる》みきった、気懶《けだる》い沈黙が漂っていた――ああ、あの異常な早熟児が犯人だったとは。そのうち、歩き廻っていた法水が座に着くと、組んだままの腕をズシンと卓上に置き、意味ありげな言葉を伸子に投げた。
「ところで、あの黄から紅に[#「黄から紅に」に傍点]――ですか、僕はあくまでその真実を知りたいのですよ」
 すると、そのとたん彼女の顔が神経的に痙攣《けいれん》して、恐らく侮蔑と屈辱を覚えたとしか思われぬような、潔癖さが口をついて出た。
「それでは、私に聯想語をお求めになりますの。黄から紅《くれない》に――そうすると、それが黄橙色《オレンジ》になるではございませんか。黄橙色《オレンジ》――ああ、あのブラッド洋橙《オレンジ》のことを仰言《おっしゃ》るのでしょう。それで、きっと貴方は、私が嚥《の》んだ檸檬水《レモナーデ》の麦藁《ストロー》から、石鹸《シャボン》玉が飛び出したとでも……。いいえ私は、麦藁《ストロー》を束にして吸うのが習慣なのでございますわ。でもそうなったら、その束が一度に弦《つる》へは、番《つが》らないではございませんか」と伸子の皮肉が、猛烈な勢いで倍加されていった。「それから、あのダン――丁抹国旗《ダーネブローグ》が悲しい半旗となったということが、あのダンネベルグが私に何の関係がございますの。そして、青酸加里がいったいどんな……」
「いや、けっしてそんな……。むしろその事は、僕が津多子夫人に対して云うべきでしょう」と法水は微かに紅を泛《うか》べたが、静かに云った。
「実は、その黄から紅[#「黄から紅」に傍点]に――と云うのが、アレキサンドライトと紅玉《ルビー》との関係なんですよ。ねえ伸子さん、たしかあの時貴女は、拒絶の表象《シムボル》――紅玉《ルビー》をつけたのではありませんか」
「いいえ、けっして……」と伸子は法水を凝《じ》っと見詰め、声に力を罩《こ》めた。「その証拠には、演奏が始まる直前でしたけども、旗太郎様が私の髪飾りを御覧になって、いったいレヴェズ様のアレキサンドライトをどうして――とお訊ねになったのを憶えておりますわ」
 その伸子の一言は、依然レヴェズの自殺の謎を解き得なかったばかりではなく、さらに法水へ呵責《かしゃく》と慚愧《ざんき》を加え、彼の心の一隅に巣喰っている、永世《とこよ》の重荷をますます重からしめた。しかし法水は、ついにこの惨劇の神秘の帳《とばり》を開き、あれほど不可能視されていた、帝王切開術《カイゼル・シュニット》に成功した。すでに、その時は夜の刻みが尽きていて、胸の釦《ボタン》に角燈を吊した小男が、門衛小屋から出掛けてきた。一つ二つ鶫《つぐみ》が鳴きはじめ、やがて堡楼の彼方から、美しい歌心の湧き出ずにはいられない、曙《あけぼの》がせり上ってくるのであった。法水は伸子と窓際に立って、パノラマのような眺望を、恍惚《うっとり》と味わっているうちに、彼女の肩に手を置き、無量の意味と愛着とを罩《こ》めて云った。
「伸子さん、既《とう》に嵐と急迫の時代は去りましたよ。この館も再び旧《もと》のとおりに、絢爛《けんらん》たるラテン詩と恋歌《マドリガーレ》の世界に帰ることでしょう。ところで、ああして響尾《ガラガラ》蛇の牙《きば》は、すっかり抜いてしまったのですから、貴女は懼《おそ》れず僕に、例の約束を実行して下さるでしょうね。もう、何も終って、新しい世界が始まるのですよ。この神秘的な事件の閉幕を、僕はこういうケルネルの詩で飾りたいのですがね。色は黄なる秋、夜の灯《ともしび》を過ぎれば紅《あか》き春の花とならん――」
 ところが、その翌日の午後になると、伸子の打札《うちふだ》がヒュッと風を切って飛び来ると思いのほか、意外にも検事と熊城が訪れてきて、当の本人伸子が、拳銃で狙撃され即死を遂げたという旨を告げた。それを聴くと、事件を全然|放擲《ほうてき》しかねまじい失意を、法水が現わしたばかりでなく、せっかく見出した確証を掴もうとした矢先、その希望が全然截ち切られてしまって、もはやこの事件の刑法的解決は、永遠に望むべくもないのだった。それから三十分後に、法水は暗澹《あんたん》とした顔色を黒死館に現わした。そして、今や眼《ま》のあたり伸子の遺骸を見ると、事件の当初から、ファウスト博士の波濤《はとう》のような魔手に弄《もてあそ》ばれ続けて、とどのつまり生命の断崖から、突き落されたこの今様グレートヘンが……、なんとなく死因に対する、法水の道徳的責任を求めているように思われ、はてはそれが、とめどない慚愧《ざんき》と悔恨《かいこん》の情に変ってしまうのだった。ところが、現場伸子の室《へや》に一歩踏み入れると、そこには、鮮かにも残された犯人の最後の意志――Kobold《コボルト》 sich《ジッヒ》 muhen《ミューエン》(地精《コボルト》よいそしめ)が印されていた。
 しかもそれは、いつものような紙片にではなく、今度は、伸子の身体に印されていた。と云うのは、その――投げ出した、左手から左足までが一文字に垂直の線をなしていて、右手と右足とが、くの字形にはだけ、なんとなく全体の形が、Kobold《コボルト》 のKを髣髴《ほうふつ》とするもののように思われたからである。それが、扉《ドア》口から三尺ほど前方の所を足にして、斜右《はすみぎ》に仰向けとなって横たわり、しかもレヴェズやクリヴォフ夫人と同じよう、悲痛な表情をしていて、それにはいささかも恐怖の影はなかった。屍体には、右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にひどい弾丸《たま》の跡が口を開いていて、敷物《カーペット》の上に、流れ出た血がベットリこびり付いているが、外出着を着て手袋までもつけたところを見ると、あるいは法水の許を訪れようとして、突然狙撃されたのではないかと思われた。なお、兇行に使用された拳銃は、扉《ドア》の外側――把手《ノッブ》の下に捨てられていて、その扉には、外から起倒|閂《かんぬき》が掛っていた。けれども、この局面には一つの薄気味悪い証言が伴っていて、それから陰々と蠢《うごめ》くような、ファウスト博士の衣摺《きぬず》れを聴く思いがするのだった。
 ――ちょうど二時頃銃声が轟《とどろ》いたので、館中がすくむような恐怖に鎖されてしまって、誰一人現場に馳《は》せつけようとするものはなかった。すると、それから十分ほど経つと、隣室で慄《ふる》えていたセレナ夫人の耳に、扉《ドア》を閉めて掛金を落した音が聞えたと云うのである。そうなって、ファウスト博士の暗躍が明らかにされると同時に、そのいっこう単純な局面にもかかわらず、さしも法水でさえ、傍観する以外に術《すべ》はなかった。勿論拳銃に指紋の残っていよう道理はなく、家族の動静も、当時の状況が状況だけにいっさい不明なのだった。そして、恐らく法水との約束を果そうとしたことが、事件中一貫して、不運を続け来ったこの薄倖《はっこう》の処女に、最後の悲劇をもたらせたのではないかと推測されたのである。
 こうして、最後の切札伸子までも斃《たお》れてしまい、悪魔の不敵な跳躍につれて、おどろとはね狂う潮の高まりには、ついに解決の希望が没し去ったとしか思われなくなった。ところが、その夜から翌日の正午《ひる》頃までにかけて、法水は彼特有の――脳漿《のうしょう》が涸《か》れ尽すと思われるばかりの思索を続けたが、はしなくもその結果、伸子の死に一つの逆説的効果を見出した。その日、昼食が終って間もなく、法水を訪ねた検事と熊城が書室の扉《ドア》を開いた時、突然その出会いがしらに、法水の凄じい眼光に打衝《ぶつか》った。彼は、両手を荒々しく振って、室内を歩き廻りながら、物狂わしげに叫び続けている。
「ああ、この|お伽噺《メエルヘン》的建築はどうだ――。犯人の異常な才智たるや、実に驚くべきものじゃないか」と立ち止って不気味に据えた眼で、あるいは半円を描き、またそれを大きくうねくらせながら、縦の波形に変えたかと思うと、「この終局《フィナーレ》の素晴らしさ――幕切れに大向《おおむこう》を唸《うな》らせるファウスト博士の大見得――この意表を絶した総懺悔《ゲネラル・バイヒテ》の形容を見給え。ねえ支倉君、地精《コボルト》・水精《ウンディネ》・火精《サラマンダー》――とその頭文字をとって、それに、この事件の解決の表象《シムボル》を加えると、それが 〔Ku:ss〕《キュッス》([#ここから割り注]接吻[#ここで割り注終わり])になってしまうんだ。ああ、たしか広間《サロン》の煖炉棚《マントルピース》の上に、ロダンの『接吻《キッス》』の模像が置いてあったじゃないか。サア、これから黒死館に行こう。僕は自分の手で、最後の幕の緞帳《どんちょう》を下すんだ」
 三人が黒死館に着いた時は、ちょうど伸子の葬儀が始まっていた。その日は風が荒く、雪でも含んでいそうな薄墨色の雲が、低く樹林の梢間際にまで垂れ下っていて、それがいつまでも動かなかった。そういった荒涼たる風物の中で、構内は人影も疎《まば》らなほどの裏淋しさ、象徴樹《トピアリー》の籬《まがき》が揺れ、枯枝が走りざわめいて、その中から、湧然《ようぜん》と捲き起ってくるのが、礼拝堂で行われている、御憐憫《ミセリコルディア》の合唱だった。法水は館に入ると、独りで広間《サロン》の中に入って行ったが、そこで彼の結論が裏書きされたことは、再びダンネベルグ夫人の室《へや》で、二人の前に現われた時の顔色で判った。そして、いまや礼拝堂に、家族の一同に押鐘博士までも加えた――関係者の全部が集っているのを知ると、法水はなんと思ったか、葬儀の発足をしばらく延期するように命じた。それから、
「勿論、犯人が礼拝堂の中にいるのは確かなんだよ。しかも、もう絶対に動くことの出来ぬ状態にある。けれども、僕は伸子に――ことにその遺骸が、地上にある間に、犯人の名を告げなければならぬ義務があると思うのだ」と云ってしばらく口を噤《つぐ》んでいたが、やがて、錯雑した感情を顔に浮べて云い出した。
「ところで支倉君、さしもの巨人の陣営が掻《か》き消えてしまって、この館は再び白日の下に曝《さら》されることになった。そこで、まず順序どおりに、最初のダンネベルグ事件から説明してゆくことにしよう。しかし、あの時夫人が何故ブラッド洋橙《オレンジ》のみを取ったかという点に、僕は今まであの最短線《ジオデスイク・ライン》――サントニン([#ここから割り注]駆虫剤[#ここで割り注終わり])の黄視症を疎《おろそ》かにしていたのだ。あの視野一面を黄色に化してしまう中毒症状が、軽い近視のせいも手伝って、果物皿の上から、梨もそれ以外の洋橙《オレンジ》も、皿の地と同じ一色に塗り潰《つぶ》してしまったのだよ。したがって、特異な赤味を帯びているブラッド[#「ブラッド」は底本では「ブラット」]洋橙《オレンジ》のみしか、ダンネベルグ夫人の眼には映らなかったのだ。それにまた、サントニン中毒特有の幻味幻覚などが伴ったので、あれほど致死量をはるかに越えた異臭のある毒物でも、ダンネベルグ夫人は疑わず嚥下《えんか》してしまったのだよ。けれども、その思い付きというのは、けっして偶然の所産ではない。根本の端緒を云えば、やはり、犯人に課した僕の心理分析にあったのだ。しか
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