フないガランとした礼拝堂の内部には、いかにも佗《わび》しげな陰鬱な灰色をしたものが、いっぱいに立ち罩《こ》めていて、上方に見透しもつかぬほど拡がっている闇が、天井を異様に低く見せた。その中に光と云えば、聖壇に揺れている微かな灯のみで、それが、全体の空間をなおいっそう小さく思わせた。そこから暗く生暖《なまぬる》い、まるで何かの胎内ででもあるかのような――それでいて、妙に赭《あか》みを帯びた闇が始まっていた。おまけに、その絶えずはためいている金色の輪には、見詰めていると眼を痛めるような熾烈《しれつ》な感覚があって、あたかもそれが、法水の酷烈をきわめた熱意と力――成敗をこの一挙に決し、ファウスト博士の頭上に、地獄の礎石円柱を震い動かさんばかりの刑罰――を下そうとする、それのごとくに思われるのだった。やがて、六人は円卓《テーブル》を囲んで座に着いた。その夜の旗太郎は、平常《ふだん》なら身ごなしに浮き身をやつす彼には珍しく、天鵞絨《びろうど》の短衣《チョッキ》のみを着ていて、絶えず伏眼になったまま、その薄気味悪いほどの光のある、白い手を弄《もてあそ》んでいた。その側《かたわら》に、伸子の小さい甲斐甲斐《かいがい》しい手が――その乾杏《ほしあんず》のように、健康そうな艶やかさが、いとも可愛らしげに照り映えているのである。しかし、セレナ夫人を見ると、相変らず恋の楯にでも見るような、いかにも紋章的な貴婦人だった。けれども、その箍骨《たがぼね》張りの腰衣《スカート》に美斑《いれぼくろ》とでも云いたい古典的な美しさの蔭には、やはり、脈搏の遅い饒舌《じょうぜつ》を忌《い》み嫌うような、静寂主義者《キエティスト》らしい静けさがあった。が、一座の空気は、明らかに一抹《いちまつ》の危機をはらんでいた。それはあながち、津多子を除外した法水の真意が、奈辺《なへん》にあるや疑うばかりでなく、それぞれに危懼《きぐ》と劃策《かくさく》を胸に包んでいると見えて、ちょっとの間だったけれども、妙に腹の探り合いでもしているかのような沈黙が続いた。そのうち、セレナ夫人がチラと伸子に流眄《ながしめ》をくれると、恐らく反射的に口を突いて出たものがあった。
「法水さん、証言に考慮を払うということが、だいたい捜査官の権威に関しますの。確かに先刻《さっき》の方々は、伸子さんが動いた衣摺《きぬず》れの音を聴いたのでしたわ」
「いいえ、竪琴《ハープ》の前枠に手をかけていて、私は、そのまま凝《じ》っと息を凝《こ》らしておりました」と伸子は躊《ため》らわずに、自制のある調子で云い返した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うのなら、また聞えた話ですけど……。とにかく、貴女様の寓喩《アレゴリー》は、全然実際とは反対なのでございます」
その時旗太郎が、妙に老成したような態度で、冷たい作り笑いを片頬《かたほほ》に泛《うか》べた。「さて、その妖冶《ようや》な性質を、法水さんに吟味して頂きたいですがね。――そもそも、あの時|竪琴《ハープ》の方から近づいてきた、気動というのが何を意味するか。ところが、その楽音嚠喨《クリングクランゲ》たるやです。美しい近衛胸甲騎兵《ガルド・キュイラシエール》の行進ではなくて、あの無分別者ぞろいの、短上衣《ヤッケ》をはだけて胸毛を露き出して、ぷんぷん鹿が落した血の跡を嗅ぎ廻るといった、黒色猟兵《シュワルツ・イエガー》だったのです。いやきっと、あいつは人肉《フライッシュ》が嗜《す》きなんでしょうよ」
そうして、追及される伸子の体位は、明らかに不利だった。その残忍な宣告が、永遠に彼女を縛りつけてしまったかと思われたが、法水はちょっと熱のあるような眼を向けて、
「いや、たしかそれに、人肉《フライッシュ》ではなく魚《フィッシュ》だったはずですがね。しかし、その不思議な魚が近づいて来たために、かえってクリヴォフ夫人は、貴女がたの想像とは反対の方向に退軍を開始したのでしたよ」と相変らず芝居げたっぷりな態度だったけれども、一挙にそれが、伸子と二人の地位を転倒してしまった。
「ところで、装飾灯《シャンデリヤ》が消えるほんの直前でしたが、その時たしか伸子さんは、全絃にわたってグリッサンドを弾いておられましたね。すると、その直後灯が消された瞬間に、思わず機《はず》みを喰って、全部のペダルを踏みしめてしまったのです。実は、その際に起った唸《うな》りが、ちょうど踏んでいったペダルの順序どおりに起ったものですから、それが、迫って来る気動のように聞えたのですよ。つまり、韻のまだ残っているうちにペダルを踏むと、竪琴《ハープ》には唸りが起る。――貴方がたは、あの悪ゴシップのおかげで、そんな自明の理を、僕から講釈されなければならんのですよ」と瓢逸《ひょういつ》な態度が消えてしまって、法水は俄然厳粛な調子に変った。
「ところが、そうなると、クリヴォフ事件の局面が全然逆転してしまうのです。もし、夫人がその音を聴いたとすれば、当然貴方がた二人の方に後退《あとずさ》りしてゆくでしょうからね。そこで旗太郎さん、その時、弓《キュー》に代って貴方の手に握られたものがあったはずです。いや、むしろ直截《ちょくせつ》に云いましょう。だいたい装飾灯《シャンデリヤ》が再び点いた時に、左|利《きき》であるべき貴方が何故、弓《キュー》を右に提琴《ヴァイオリン》を左に持っていたのですか」
と法水の凄愴な気力から、迸《ほとばし》り落ちてきたものに圧せられて、旗太郎はまったく化石したように硬くなってしまった。それは、恐らく彼にとって、それまでは想像もつかぬほど、意外なものであったに相違ない。法水は、相手を弄《もてあそ》ぶような態度で、ゆったり口を開いた。
「ところで、旗太郎さん、波蘭《ポーランド》の諺《ことわざ》に、提琴奏者《ヴァイオリニスト》は引いて殺す――と云うのがあるのを御存じですか。事実、ロムブローゾが称讃したというライブマイルの『能才及び天才の発達』を見ると、その中に、指が痳痺[#「痳痺」はママ]してきたシューマンやショパン、それから改訂版では、提琴家《ヴァイオリニスト》のイザイエの苦悩などが挙げられていて、なおかつ音楽家の全生命たる、骨間筋([#ここから割り注]指の筋肉[#ここで割り注終わり])にも言及しているのです。それによるとライブマイルは、急激な力働がその筋に痙攣《けいれん》を起させる――と説いています。しかし、勿論それは、この場合結論として確実なものではありません。けれども、貴方が演奏家である限りは、とうていその慣性を無視することは出来まいと思われるのです。たぶんあの後には、左手の二つの指で、弓《キュー》を持つのが不可能だったのではありませんか」
「す、すると、もうそれだけですか――貴方の降霊術《ティシュリュッケン》と云うのは? 机の脚をがたつかせて、厭《いや》に耳ざわりな……」とあの不気味な早熟児は、満面に引っ痙《つ》れたような憎悪を燃やせて、やっと嗄《か》すれ出たような声を出した。しかし、法水はさらに急追を休めず、「いやどうして、それこそ|正確な中庸な体系《ジャスト・ミリュウ・システム》――なんですよ。それから、貴方は人形の名を、いつぞやダンネベルグ夫人に書かせましたっけね」と驚くべき言葉を放って、その大見得が、一座を昂奮の絶頂にせり上げてしまった。
「実は、先刻《さっき》神意審問会の情景を再現してみたのですが、その場ではしなく、ダンネベルグ夫人が、驚くべき第二視力者《セカンド・サイター》であり、彼女に比斯呈利《ヒステリー》性幻視力が具わっていたのを知ることが出来ました。そうなると、当然発作が起った場合、あの方の痳痺[#「痳痺」はママ]した方の手には、自働手記([#ここから割り注]心理学者ジャネーの実験に端を発したもので、知らぬ間に筆を持たせた者の痺れた手を、気付かぬように握って、両三回文字を書かせると、その握った手を離した後でも、その通りの文字を自分の筆跡でしたためる――と云う、一種の変態心理現象。[#ここで割り注終わり])が可能になるではありませんか。いや、伸子さんの室《へや》の扉《ドア》際にあった、鉤裂《かぎざ》きの跡を見ても、夫人の右手が、あの当時痳痺[#「痳痺」はママ]していたことが判るんですよ。しかし、あの場合は、それがもう一段|蜻蛉《とんぼ》返りを打って、さらに異様な矛盾を起してしまったのでした。と云うのは、利手《ききて》の異なる方の手で、刺戟を与えた場合には、時折要求した文字ではなく、それに類似したものを書くということなんです。勿論あの夜は、伸子さんが花瓶を倒し、それと入れ代りにダンネベルグ夫人が入って来て、しかも激奮に燃えた夫人は、寝室の帷幕《カーテン》の間から、右肩のみを現わしていました。ですから、時やよしと、貴方は自働手記を試みたのでしたね。しかし、結果において夫人が認《したた》めたものは、貴方が要求したそれとは異なっていたのです」と卓上の紙片に、法水は次の二字を認《したた》め、とくにその中央の三字を円で囲んだ。
[#天から2字下げ]Th 〔e're`〕[#「〔e're`〕」は破線の罫囲み] se S ere[#「ere」は破線の罫囲み] na
とたんに一同の口から、合したような呻《うめ》きの声が洩れた。ことにセレナ夫人は、憤ると云うよりも、むしろあまりに意外な事実なので、ぼんやり旗太郎を瞶《みつ》めたまま自失してしまった。旗太郎はタラタラと膏汗《あぶらあせ》を流し、全身を鞭索《むちなわ》のようにくねらせて、激怒が声を波打たせていった。
「法水さん、貴方《ヴォルゲボーレン》――いや閣下《ホウホヴォルゲボーレン》! この事件の恐竜《ドラゴン》と云うのは、とりもなおさず貴方のことだ。しかし、オットカールさんの咽喉《のど》に印されていたという父の指痕《しこん》は――あの恐竜《ドラゴン》の爪痕は、いったい貴方の分身なのですか」
「恐竜《ドラゴン》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と法水は、噛むように言葉を刻んで、「なるほど、恐竜《ドラゴン》と云えるものが、あの殯室《モーチュアリー・ルーム》にいたことは事実確かなんです。しかし、その一人二役の片割れは蘭《らん》の一種――衒学的《ペダンティック》に云うと、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》なんですがね」と云って、懐中から取り出したレヴェズの襟布《カラー》を引き裂くと、その合わせ布の間から、縮みきって褐色をした、網様の帯が現われた。さらに、その前面には、それがまた、幾重にも重ね編まれていて、ちょうど拇指《おやゆび》の形に見える楕円形をしたものが、二つ附いていた。その上にトンと指頭を落して、法水は云い続けた。「こうなれば、一見してすでに明白です。勿論水分さえ吸えば、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維は、全長の八倍も縮むと云われるのですからね。当然|殯室《モーチュアリー・ルーム》の前室に、湯滝を必要とした理由は云うまでもないでしょう。ところで、犯人は最初、その繊維を本開閉器《メイン・スイッチ》の柄にからげ、収縮を利用して電流を切ったのです。そして、柄が下向きになると、そこからスッポリと抜けて、水流の中に落ちたのですから、当然排水孔から流れ出してしまう訳でしょう。それから、次は云うまでもなく、拇指痕《ぼしこん》の形を、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》の繊維で作った襟布《カラー》に利用して、レヴェズの咽喉《のど》を絞めていったのでした。つまり、レヴェズの死は他殺ではなく、自殺なんですよ。それで、だいたいの経路を想像してみますと、最初レヴェズが奥の屍室に入ったところを見届けて、犯人は湯滝を作ったのでした。ですから、徐々に湿度が高まって、竜舌蘭《リネゾルム・オルキデエ》が収縮を始めたので、レヴェズはしだいに息苦しくなってゆきました。そこへ何か、あの男に自殺を必要とするような、異常な原因が起ったのです。したがって、当然レヴェズの死には、二つの意志が働いているという訳で、算哲に似せた拇指痕の上に、あの男の悲痛な心理が重なっていったのでしたよ」とそこで
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