ナもないのですが、昨年算哲が遺言書を発表した席上から、いったい誰が先に出たのでしょうね」
すでに一年近くも経過しているので、勿論伸子は、一も二もなく頸《くび》を振るものと思われていた。ところが、そのいかにも意味ありげな一言が、伸子に何事かを覚らせたと見えた。いきなり、彼女の全身に異様な動揺が起った。
「それは……あの……あの方なのでございますが」と伸子は苦しげに顔を歪めて、云うまい云わせようの葛藤と凄烈に闘っている様子であったが、やがて、決意を定めたかのように毅然《きっ》と法水を見て、
「いま私の口からは、とうてい申し上げることは出来ません。けれども、のちほど――紙片でお伝えいたしますわ」
法水は満足そうに頷《うなず》いて、伸子の訊問を打ち切った。熊城は、今日の事件において、最も不利な証言に包まれている伸子に対して、いささかも法水が、その点に触れようとしなかったのが不満らしかったが……しかし、乾板に隠れている深奥の秘密を探る最後の手段として、いよいよ神意審問会の光景を再現することになった。勿論それ以前に法水は、鎮子に私服を向けて、当時七人が占めていた位置について知ることが出来た。ところでその配置を云うと、ダンネベルグ夫人一人のみを向う側にして、その間に|栄光の手《ハンド・オブ・グローリー》([#ここから割り注]絞死体の手を酢漬けにして、それをさらに乾燥したもの[#ここで割り注終わり])を挾み、その前方には、左から数えて、伸子・鎮子・セレナ夫人・クリヴォフ夫人・旗太郎――と以上残りの五人が、相当離れて半円形を作っていたが、独りレヴェズのみは、半円形の頂点に当るセレナ夫人の前面で、やや跼《かが》み加減に座を占めていたのである。そして、六人の位置は、入口の扉《ドア》を背面にしていたのだった。
以前行われた時と同じ室に入って、鉄筐《てつばこ》の中から、熊城が|栄光の手《ハンド・オブ・グローリー》を取り出したとき、その指の顫《ふる》えに、無量の恐怖を感じさせるものがあった。それは、かつて人体の一部であったのを、嘲笑《あざわら》うかのように、それらしい線や塊《マッス》はどこにも見られなかった。ただただ、雑色と雑形の一種異様な混淆《こんこう》であって、あるいは、盆景的に矯絶な形をした木の根細工のようでもあり、その――一面に細かい亀裂の入った羊皮紙色の皮膚を見ると、和本の剥がれた表紙を、見るような気もするのだった。すでに、肉体的な類似を求めるのが、困難なしろものだったのである。また、その指頭に立てる屍体|蝋燭《ろうそく》には、一々向きと印しがついていて、それはやや光沢の鈍いような感じはするけれども、外見はいっこうに、通常の白蝋と変りはなかった。そして、端から火を移してゆくと、ジイジイっと、まるで耳馴れた囁《ささや》きを聴くような音色を立てて点《とも》りはじめ、赭《あか》ばんだ――ちょうど血を薄めたような光線が、室《へや》の隅々に拡がっていった。そうしているうちに、ダンネベルグ夫人の位置にいた法水の視野を、異様に朦朧《もうろう》としたものが覆いはじめてきた。それは、一種特別な臭気を持った、霧のようなもので、しだいに根元からかけて五本の蝋身を包みはじめ、やがて、焔が揺れはじめて瞬《またた》き出すと、室内は、スウッと一段下降したように薄暗くなった。そのとたん、法水の手が差し伸べられて、屍体蝋燭を一つ一つに調べはじめた。すると、五本ともその根元に――すなわち、中央の三本は両側に一つ一つ、両端の二本は、内側に一つ――不可解な微孔があるのが、発見されたのだった。それを見て、熊城が点滅器を捻《ひね》ると、その異様な霧が、今度は法水の、病的な探究の雲に変っていった。やがて、彼はニタリとほくそ笑んで、二人を顧《かえり》みた。
「この微孔の存在理由《レーゾン・デートル》は、ある意味では隠れ衣であり、また、一種の水晶凝視《クリスタル・ゲージング》を起すにもあったのだ。それぞれ芯孔に通じているので、そこから導かれてきた蝋の蒸気が、蝋身を伝わって立ち上《のぼ》ってゆく。しかし、そうなって、ダンネベルグ夫人の顔前に蒸気の壁が出来、さらに、中央の三本に焔を瞬《またた》かせて、光を暗くするとだ。当然、円陣の中央《まんなか》にいる一人の顔は、異常のない両端の光から最も遠くなる。したがって、その顔が、ダンネベルグ夫人からは全然見えなくなってしまうのだ。また、同時に両端の二本も、両側から上ってくる蒸気に煽《あお》られて、焔が横倒しになる。そして、光の位置がさらに偏《かたよ》るので、当然両端にいる二人の顔も、この位置から見ると、光に遮られて消えてしまうのだよ。つまり、旗太郎・伸子・セレナ夫人――と、こう数えた三人というのは、仮令《たとえ》中途でこの室から出たにしても、その姿を、ダンネベルグ夫人は当然見ることが出来なかっただろう。また、それ以外の人達も、この異常な雰囲気のために、恐らく周囲の識別を失っていただろうからね。気づかない方がむしろ当然だと云いたいくらいなのだよ。そうすると、ダンネベルグ夫人が倒れるとすぐ、伸子が隣室から水を持って来た――という事が、あるいは伸子に疑惑をもたらすかもしれない。つまり、それ以前|既《とう》に、彼女は室《へや》を出ていて、あらかじめこの事を予期していたために、水を用意していた――とも云えるだろう。けれども、勿論この推測は、ある行為の可能性を指摘したまでの話で、当然証拠以上のものでないのだよ」
「たしか、この微孔は犯人の細工には違いあるまいがね」と検事は深く顎《あご》を引いたが、問い返した。「けれども、あの時ダンネベルグ夫人は、算哲と叫んで卒倒したのだったぜ。たぶんそれが、あの女の幻覚ばかりのせいじゃあるまいと思うよ」
「明察だ。けっして、単純な幻覚ではない。ダンネベルグ夫人は、たしかリボーのいわゆる第二視力者《セカンド・サイター》――つまり、錯覚からして幻覚を作り得る能力者[#「錯覚からして幻覚を作り得る能力者」に傍点]だったに違いない。それは、聖《セント》テレザにも乳香入神などと云われているんだが、薫烟《くんえん》や蒸気の幕を透《とお》して見ると、凹凸がいっそう鮮かになり、またその残像が、時折奇怪な像を作ることがあるのだ。つまり、この場合は、両端の蝋燭《ろうそく》から見て内側にいる二人――つまり、鎮子とクリヴォフ夫人との顔が、凝視のため複視的に重なり合ったのだろう。そして、恐らくその錯覚が因で、ダンネベルグ夫人は幻視を起したに相違ないのだよ。それを、リボーは人間精神最大の神秘力と云って、ことに中世紀では、最も高い人間性の特徴と見なされていたのだ。ああ、きっとダンネベルグ夫人には、かつてのジャンヌ・ダルクや聖テレザと同じに、一種の比斯呈利《ヒステリー》性幻視力が具わっていたに違いないのだよ」
こうして、法水の推理が反転躍動していって、あの夜張出縁に蠢《うごめ》いていて乾板を取り落した人物にも、既往の津多子以外に、旗太郎以下の三人を加えることが出来た。まさにその時、法水の戦闘状態は、好条件の絶頂にあった。あるいは、事件が今夜中に終結するのではないかと思われたほどに、彼の凄愴《せいそう》な神経運動《ナーヴァシズム》が――その脈打ちさえも聴き取れるような気がした。それから、暗い廊下を歩いて、旧《もと》の室《へや》に戻ると、そこには、先刻《さっき》伸子が約束した回答が待っていた。神意審問会の索輪《つなわ》の中で、濃厚な疑惑に包まれ、しかもそれが、ピッタリと現存の四人、その一群に、最後の切札が投ぜられたのだ。法水は唇が涸《かわ》き、封筒を持つ右手が怪しくも顫《ふる》え出した。そして、心の中で叫んだ。伸子よ、|運命の星は汝の胸に横たわる《イン・ダイネル・ブルスト・ルーエン・ダイネ・シックザールス・シュテルネ》!
三、|父よ、吾も人の子なり《パテル・ホモ・スム》
昨年問題の遺言書が発表された――その席上からいち早く出て、算哲がそこへ達しない以前に、金庫の中から、焼き捨てられた全文を映し取った乾板を、取り出した人物がなければならなかった。そうであるからして、その人物の名を印した伸子の封書を握りしめて、法水が、心の中でそう叫んだのも当然であると云えよう。しかし、封を切って、内容《なかみ》を一瞥《いちべつ》した瞬間に、どうしたことか彼の瞳から輝きが失せ、全身の怒張がいっせいに弛《ゆる》んでしまって、その紙片を力なげに卓上へ抛り出した。検事が吃驚《びっくり》して覗き込んでみると、それには人の名はなく、次の一句が記されているのみだった。
――昔ツーレ(一)に聴耳筒《ラウシュレーレン》(二)ありき。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
注(一)ツーレ――。ゲーテの「ファウスト」の中で、グレートヘンが唄う民謡の最初の出。その時ファウストから指環を与えられたのが開緒となって、彼女の悲運が始まるのである。
[#ここから5字下げ]
(二)聴耳筒――。西班牙《スペイン》宗教審問所に設けられたのが最初。ウファ映画「会議が踊る」の中で、メテルニッヒがウエリントンの会話などを盗み聴くあれがそうである。
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど、聴耳筒《ラウシュレーレン》か――。その恐ろしさを知っているのは、独り伸子のみならずさ」と法水は、苦笑を交えながら独り頷《うなず》きをして、「事実も事実、ファウスト博士の隠形聴耳筒《おんぎょうラウシュレーレン》たるや、時と場所とに論なく、僕等の会話を細大洩らさず聴き取ってしまうのだからね。だから、当然|迂闊《うかつ》なことでもしようものなら、伸子がグレートヘンの運命に陥るのは判りきった話なんだよ。必ず何かの形で、あの悪鬼の耳が陰険な制裁方法を採らずにおくもんか」
「まず、それはいいとしてだ……。ところで、くどいようだけど、君がいま再現した神意審問会の光景だがね」とその声に法水が見上げると、検事の顔に疑い深そうな皺《しわ》が動いていた。「君は、ダンネベルグ夫人を第二視力者《セカンド・サイター》だと云って、しかも驚くべきことには、犯人がその幻覚を予期していたと結論している。けれども、そういうような、精神の超形而上的な型式が――だ。仮りにもし、軽々と予測され得るものだと云うのなら、君の論旨はとうてい曖昧以外にはないな。けっして深奥だとは云えない」
法水はちょっと身振をして皮肉な嘆息をしたが、検事をまじまじと見詰めはじめて、「どうして、僕はヒルシュじゃあるまいし……。ダンネベルグ夫人をそれほど神秘的な英雄めいた――例えばスウェーデンボルグやオルレアンの少女《おとめ》みたいな、慢性幻覚性偏執症《パラノイア・ハルツィナトリア・クローニカ》だと云うわけじゃないのだよ。ただ、夫人のある機能が過度に発達しているので、時偶《ときたま》そういう特性が、有機的な刺戟に遇うと、感覚の上に技巧的な抽象が作られてしまう。つまり、漠然と分離散在しているものを、一つの現実として把握してしまうのだ。それに支倉君、フロイドは幻覚というものに、抑圧されたる願望の象徴的描写――という仮説を立てている。勿論夫人の場合では、それが算哲の禁断に対する恐怖――つまり云うと、レヴェズとの冒してはならぬ恋愛関係に起源を発していたのだ。それだから、犯人が夫人の幻覚を予期し得る条件としては、当然その間の経緯《いきさつ》を熟知していなければならない。また、ひいてはそれが一案を編み出させて、屍体蝋燭に水晶体凝視《クリスタル・ゲージング》を起すような、微妙な詭計を施した。それで、夫人を軽い自己催眠に誘ったのだったよ。ところが支倉君、その潜勢状態という観念が、僕に栄光を与えてくれた……」
そう鋭く言葉を截ち切って、それから黙々と考えはじめたが、そのうち幾つかの[#「幾つかの」は底本では「幾つかのの」]莨《たばこ》を換える間に、法水は一つの観念を捉え得たらしかった。彼は、旗太郎・セレナ夫人・伸子の三人を至急|喚《よ》ぶように命じてから、再び礼拝堂に降りて行った。人気
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