戟b亜弗利加《アフリカ》会社の伝道医師のみ。そして、稀に印度大麻にストリヒナス属(矢毒クラーレの原植物)が寄生すると、その果実を土人が珍重して呪術に用ゆるけれども、恐らくそれではないか――という報告を一つもたらせたのみである。たぶん黒死館の薬物室にあった空瓶というのも、ディグスビイから、与えられるのを算哲が待っていたからであろう。
[#ここで字下げ終わり]
この闡明《せんめい》を最後にして、黒死館を覆うていた、過去の暗影の全部が消えた。しかし検事は、昂奮の中に軽い失望を混えたような調子で、
「なるほど、君は喋《しゃべ》った――しかし、現在の事件については、何も判らなかったのだ。それより、この矛盾を、君はどう解釈するかね。扉《ドア》から室の中途までは、敷物《カーペット》の下に、人形の足型が水で印されていた。ところがいったん坑道の中に入ってしまうと、今度はそれが人間のものに化けてしまったんだ」
「ところが支倉君、それが|+−《プラスマイナス》なんだよ。最初から人形の存在を信じていない僕には、それを口にする必要がなかったのだ。しかし、この一事だけは、とうてい偶然の暗合として、否定し去ることは出来まいと思うよ。何故なら、坑道にあるスリッパの跡を人形の足跡に比較すると、その歩幅と足型の全長とが等しく、またスリッパの跡が、人形の歩幅と符合するのだ。それが熊城君、実に面白い例題なんだよ」とそれから煖炉《ストーブ》の前で、法水は紅い※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》に手をかざしながら続けた。
「ところで、あの人形の足型というのは、元来僕が、敷物《カーペット》の下にある水滴の拡がりを測って出来たものなんだ。そして、上下両端の一番鮮かだった――つまり云い換えれば、水滴の量の最も多い部分を、基準としての話だったのだったからね。……そこで、僕が|+−《プラスマイナス》と呼ぶ詭計《トリック》を再現できるんだよ。で、それはほかでもなく、スリッパの下にもう二つのスリッパを仰向けに附けて、またその二つのスリッパを、互い違いに組み合わせるのだ。そして、それに扉《ドア》を開いた水をタップリ含ませてから、最初に後の方の覆《カヴァ》を、強く踵《かかと》で踏む。すると、覆《カヴァ》の中央に、やや小さい円形の力が落ちることになるから、当然その圧し出された水が、上向き括弧《かっこ》())[#「())」は太字]の形になるじゃないか。また、次に前のあの覆《カヴァ》を前踵部《つまさき》で踏むと、今度はそこの形が馬蹄形をしているので、中央より両端に近い方の水が強く飛び出して、それが下向き括弧(()[#「(()」は太字]の形になってしまうのだ。そして、その上下二様の括弧形をした水の跡を、左右|交互《かわるがわる》に案配していったのだよ。つまり犯人は、あらかじめ常人の三倍もある、人形の足型を計っておいた。そうしてから、歩幅をそれに符合させていったので、当然その二つの括弧に挾まれた中間が、人形の足型を髣髴とする形に変ってしまったのだ。したがって、そのスリッパの全長が、ヨチヨチ歩く人形の歩幅に等しくなって、そこで、陽画と陰画のすべてが逆転してしまったという訳なんだよ」
こうして、奇矯を絶した技巧が明らかにされて、人形の姿が消えてしまうと、当然屍光と創紋――といずれか二つのうちに、犯人がこの室《へや》に闖入《ちんにゅう》した目的があるのではないかと思われてきた。すでに、十一時三十分――。しかし、夜中になんとかして、解決まで押し切ろうとする法水には、いっこうに引き上げるような気配もなかった。そのうち検事が、嘆息ともつかぬような声を出して云った。
「ねえ法水君、この事件の、すべては、ファウストの呪文を基準にした、同意語《シノニム》の連続じゃないか。火と火、水と水、風と風……。だがしかしだ、あの乾板だけは、その取り合わせの意味がどうしても嚥《の》み込めんのだがね」
「なるほど、同意語《シノニム》※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そうすると君は、この悲劇を思惑《おもわく》に結び付けようとするのかね」と法水はやや皮肉を交えて呟《つぶや》いたが、いきなり、いきなり鋭くその言葉を中途で截《た》ち切って、「あッ、そうだ支倉君、同意語《シノニム》――乾板。ああなんだか僕に、あの創紋の生因が判ってくるような気がしてきたよ」と不意に飛び上って叫んだが、そのまま風のように室を出て行ってしまった。しかし、間もなく幾分上気したような顔で、戻って来た彼を見ると、その手に、前日開封された遺言書が握られていた。そして、上段の左右に二つ並んでいる、紋章の一つを、創紋の写真に合わせて電燈で透かし見ると、そのとたんに、思わず二人の口から呻《うめ》きの声が洩れた。実に、その二つが、寸分の狂いもなく符合したからである。法水は、召使《バトラー》が持参した紅茶を、グイとあおってから云い出した。
「実際|無比《ユニーク》だ。犯人の智的創造たるや、実に驚くべきものなんだ。この書簡箋は、既《とう》に一年もまえ、現在のものに変えられたというのだからね。勿論それ以前に――あの乾板は、事件の蔭に隠れている、狂人《きちがい》染みたものを映して取っていたのだよ。何故なら、それには、押鐘博士の陳述を憶い出してもらいたいのだ。それでなくても、現在これでも見るとおりに、算哲は遺言書を認《したた》め終ると、その上に、古風な軍令状用《オーディナンス・レター》の銅粉を撒《ま》いたのだった。ねえ熊城君、銅には、暗所で乾板に印像するという、自光性があるじゃないか。ああ、あの序幕《アインライツング》――この恐怖悲劇の序文《アインライツング》。さてこれから、その朗読をやることにするかな。あの夜算哲は、破り捨てた方の一枚を下にして、二枚の遺言書を金庫の抽斗《ひきだし》に蔵めた――ところが、それ以前に犯人は、あらかじめその暗黒《まっくら》な底に乾板を敷いておいたのだ。そうすると、翌朝になって算哲が金庫を開き、家族を列席させた面前で、その印像を取られた方の一枚を焼き捨ててから、さらに残りの一枚を、再び金庫に蔵めるまでの間に、何人《なんぴと》か、全文を映し取った乾板を、取り出した者がなけりゃならん訳だろう。実に、そのわずかな間隙が、ファウスト博士に、悪魔との契約《パクト》を結ばせたのだった。それを、直観と予兆とだけで判断しても、当然焼き捨てられた一葉が、僕の夢想している屍様図の半葉に当るのだし、またそれが坐標となって、あの幻想的《ファンタスチイク》な空間に、怖ろしい渦が捲き起されたのだったよ」
「なるほど、その乾板は無量の神秘だろう。しかし、当然結論は、その席上から誰が先に出たか[#「その席上から誰が先に出たか」に傍点]――という事になるがね」と云ったが、熊城は両手をダラリと下げて、濃い失望の色を泛《うか》べた。「無論今となっては、その記憶も恐らくさだかではあるまい。では、あの創紋と乾板との関係は?」
「それが、ロージャー・ベーコン([#ここから割り注]一二一四――一二九二、英蘭土の僧。魔法錬金士の名が高いけれども、元来非凡な科学者で、火薬その他をすでに十三世紀において発明したと伝えられる[#ここで割り注終わり])の故智さ」と法水は静かに云った。「ところで、アヴリノの『聖僧奇跡集』を見ると、ベーコンがギルフォードの会堂で、屍体の背に精密な十字架を表わしたという逸話が載っている。けれどもまた一方、発火鉛([#ここから割り注]酒石酸を熱して密閉したもの。空気に触れると、舌のような赤い閃光を発して燃える[#ここで割り注終わり])を、硫黄と鉄粉とで包んだと云われる、ベーコンの投擲弾《とうてきだん》を考えると、そこに技巧呪術《アート・マジック》の本体が曝露されなければならない。と同時に、この事件にも、それが創紋の生因を明らかにしてくれたのだよ。熊城君、君は、心臓停止の直前になると、皮膚や爪に生体反応が現われなくなるのを知っているだろう。また、衝動《ショック》的な死に方をした場合には、全身の汗腺が急激に収縮する。そして、その部分の皮膚に閃光的な焔を当てると、そこには、解剖刀《メス》で切ったような創痕《きずあと》が残されるのだ。勿論犯人は、それをダンネベルグ夫人の断末魔に、乾板へ応用したのだったよ。で、その方法を云うと、まず二つの紋章を乾板から切り取って、その輪廓なりに、橄欖冠《かんらんかん》を酸で刻んでゆく。それから、その二つを筋なりに合わせて、その空洞の中で発火鉛を作ったのだ。だから、手早くそれを顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に当てさえすれば、発火鉛が閃光的に燃えて、溝なりにあの創紋が残るという道理じゃないか。どうだね熊城君、うんざりしたろう。勿論|技巧呪術《アート・マジック》そのものは、幼稚な前期化学にすぎないさ。けれども、その神秘的精神たるや、しばらくのあいだ、化学記号を化して操人形《マリオネット》たらしめていたほどだからね」
そうして、人形の存在が、夢の中の泡のごとくに消えてしまうと、当然その名を記したダンネベルグ夫人自署の紙片を、犯人が、メモや鉛筆とともに投げこんだ――と見なければならなくなった。しかし、あの特異な署名を、どうして犯人が奪ったものだろうか。また、乾板をあくまで追求してゆくと、是が非にも神意審問会まで遡《さかのぼ》って行き、出所をそこに求めねばならなかったのである。法水はしばらく黙考していたが、何と思ったか、夜中《やちゅう》にもかかわらず伸子を喚《よ》んだ。
「お喚びになったのは、たぶんこれだと思いますわ」と伸子の方から、椅子につくと切り出した。その態度には、相変らず、明るい親愛の情が溢《あふ》れていた。「昨日レヴェズ様が、私に公然結婚をお申し出になりました。そして、その諾否《だくひ》を、この二つで回答してくれと仰言《おっしゃ》って……」と彼女は語尾を萎《すぼ》めて、あまりにも慌《あわ》ただしい、人生の変転を悲しむごとくであった。が、やがて、懐中から取り出したものがあって、その時ならぬ豪奢な光輝が、思わず三人の眼を動かなくしてしまった。それは二本の王冠《クラウン》ピンだった。そして、その上に、一つには紅玉《ルビー》一つにはアレキサンドライトが、それぞれ白金《プラチナ》の台の上で、百二、三十カラットもあろうと思われる、マーキーズ形の凸刻面を輝かしていた。伸子は弱々しい嘆息をしてから、舌を重たげに動かしていった。
「つまり、親愛な黄色――アレキサンドライトの方が吉で、紅玉《ルビー》の血は勿論凶なのでございます。そして、この二つを諾否の表示《しるし》にして、どっちかを、演奏中私の髪飾りにしていてくれ――と、あの方は仰言《おっしゃ》いました」
「では、云い当てて見ましょうか」と狡猾《ずる》そうに眼を細めて云ったが、しかし、何故か法水は、胸を高く波打たせていて、
「いつぞや、貴女《あなた》はレヴェズを避けて、樹皮亭《ボルケンハウス》に遁《のが》れていましたっけね」
「いいえ、レヴェズ様の死に、私は道徳上責任を負う引け目はございません」と伸子は、息を荒ららげて叫んだ。「実は私、アレキサンドライトを付けました。それで、あの方と二人で、このハルツの山([#ここから割り注]妖魔どもが、いわゆるヴァルプルギス饗宴を行うという山[#ここで割り注終わり])を降りるつもりだったのですわ」
それから、法水の顔をしげしげ覗き込んで、哀願するように、「ねえ、真実《ほんとう》の事を仰言《おっしゃ》って下さいまし。もしや、あの方自殺なされたのでは、いいえけっして、私がアレキサンドライトを付けた以上……」
その時法水の顔に、サッと暗いものが掃いて、みるみる悩ましげな表情が泛《うか》び上っていった。その暗影と云うのは――、たしかに彼の心中に一つの逆説《パラドックス》があって、それを今の伸子の言葉が、微塵と打ち砕いたに相違なかった。
「いや、正確に他殺です」と法水は沈痛な声で云ったが、
「しかし、ここへ貴女《あなた》をお呼びしたのは、ほか
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