セった。
 法水は前方の空間を目がけて、斜めに高く光を投げた。けれども、その光は、闇の中を空しく走ったのみで、何も映らなかった。それで、今度は一歩踏み込んで、頭上に向けると、そこには、醜い苦渋《くじゅう》な相貌をした三人の男の顔が現われた。法水はそれによって、いっさいを知ることが出来たのである。聖パウロ、殉教者イグナチウス、コルドバの老証道人《コンフェッサー》ホシウス……と壁面の彫像柱《アトランテス》を、三つまでは数えたが、その声に俄然|顫《ふる》えが加わってきて、
「墓※[#「穴かんむり/石」、430−13]《クリプト》だよ、とうとう僕等は算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、430−13]《クリプト》にやって来てしまったんだ」と狂わしげに叫んだ。
 その声と同時に、熊城は二、三歩進んでいって、円い灯で前方を一の字に掃いた。すると、その中に幾つか石棺の姿が明滅して、明らかにこの一劃が、算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、430−15]《クリプト》に相違ないことが分った。三人は切れ切れに音高い呼吸を始めた。いつぞやレヴェズが法水に云った、|地精よ、いそしめ《コボルト・ジッヒ・ミューエン》――の解釈が、今や幻から現実に移されようとしている。しかも、スリッパの跡は、中央にあってひときわ巨大な、算哲の棺台を目がけて、一文字に続いているのだ。その蓋には、軽鉄で作られた守護神|聖《セント》ゲオルヒが横たわっていて、それは軽く擡《もた》げられた。恐らく、その時三人の心中には……算哲の棺台のみに脚がなくて、それが大理石の石積で作られていることから、たしか棺中にはファウスト博士の姿はなくて、そこからまた、地下に続く新しい坑道が設けられているように思われていた。
 ところが、蓋が擡《もた》げられて、円い光がサッと差し入れられた時――思わず三人は、慄然《りつぜん》としたものを感じて、跳び退《の》いた。見よその中には、異形《いぎょう》な骸骨が横たわっているではないか。静臥しているはずの膝が高く折り曲げられていて、両手は宙に浮き、指は何物かを掻《か》かんとするもののように、無残な曲げ方をしている。しかも、三人が跳び退いた機《はず》みに、それがカサコソと鳴って、おまけになお薄気味悪いことには、肋骨《ろっこつ》の端が一、二本ポロリと欠け落ちて、それも灰のようにひしゃ潰《つぶ》れてしまうのだった。しかし、左肋骨には創傷の跡が残っていて、明らかにそれは、算哲の遺骸に相違ないのだった。
「算哲はやはり死んでいたのだ。すると、いったいあの指痕は、誰のものなんだろうか」と熊城を顧《かえり》みて、検事は唸《うな》るような声で呟《つぶや》いた。がその時、法水の眼に妖しい光が閃《ひらめ》いたかと思うと、顔を算哲の肋骨に押し付けて、動かなくなってしまった。実に意外千万にも、その胸骨には縦に刻まれている、異様な文字があったのである。
[#天から2字下げ]PATER《パテル》! HOMO《ホモ》 SUM《スム》!
「父よ、吾《われ》も人の子なり――」と法水は、その一行の羅甸《ラテン》文字を邦訳して口誦《くちずさ》んだが、異様な発見はなおも続けられた。と云うのは、その彫字の縁に、所々|金色《こんじき》をした微粒が輝いているのと、もう一つは、欠け落ちた歯の隙に、たぶん小鳥らしいと思われる、骸骨が突っ込まれていることだった。法水はその微粒を手に取って、しばらく眺めすかしていたが、
「ああ、恐らくこれが、ファウスト博士の儀礼《パンチリオ》なんだろうがね。しかし熊城君、この文字は乾板で彫ってあるのだよ。|父よ吾も人の子なり《パテル・ホモ・スム》――。それに、歯の間に突っ込まれている、小鳥の骸骨らしいのは、たぶん早期埋葬防止装置を[#「早期埋葬防止装置を」は底本では「早期埋装防止装置を」]妨げたという、山雀《やまがら》の死体に違いないのだ。ねえ怖ろしいことじゃないか。つまり、いったん算哲は棺中で蘇生したのだが、その時犯人は山雀の雛《ひな》を挾んで電鈴《ベル》の鳴るのを妨げたのだよ」
 法水の声のみが陰々と反響《こだま》しても、それがてんで耳に入らなかったほど、検事と熊城は、目前の戦慄《せんりつ》すべき情景に惹《ひ》きつけられてしまった。その姿体は、明白に棺中の苦悶であり、その結論は生体の埋葬に相違なかった。しかし、そうは云うものの、またファウスト博士にとれば、算哲が棺中で蘇生してから狂ったように合図の紐を引き、しかも救けは来ず、力もようやく尽きようとして、頭上の蓋を掻き毟《むし》っている有様と云うのが、恐らくまた、残虐な快感をもたらせたものだったかも知れないのである。そうして、犯人の冷酷な意志は、山雀《やまがら》の屍骸と|父よ、吾も人の子なり《パテル・ホモ・スム》――の一文にとどめられるのであるから、当然、久我鎮子が、道徳の最も頽廃《たいはい》した形式と、叫んだのも無理ではないかもしれない。いわゆる黒死館殺人事件と呼ばれて、酷烈|酸鼻《さんび》[#ルビの「さんび」は底本では「さんぴ」]をきわめた流血の歴史よりかも、すでにそれ以前行われていて、しかも眼《ま》のあたり、遺骸の形状《かたち》にもそれと頷《うなず》かれる恐怖悲劇の方が、胸を塞いでくる強い何物かを持っていたのは事実だった。それから、スリッパの跡の調査を始めたが、それは聖窟《クリプト》の階段を上りきった頭上の扉口《ドアぐち》――すなわち墓地の棺龕《カタファルコ》まで続いている。しかし、ここまで来ると、ようやくその前後が明らかになって、犯人がダンネベルグ夫人の室《へや》から坑道に入り、それから棺龕《カタファルコ》の蓋を開けて、裏庭の地上に出たのを知ることが出来た。またそれ以外にも、埃に埋もれかかった足跡らしいものが散在していて、既《とう》からあの明けずの間に、異様な潜入者のあったことは疑うべくもなかった。調査が終ると、三人は愴惶《そうこう》に石棺の蓋を閉じて、この圧し狂わさんばかりの、鬼気から遁《のが》れていった。そして、道々法水は、幾つかの発見を綜合整理して、それを、鎖の輪のように繋《つな》げていった。

 一、[#「一、」は太字]|父よ、吾も人の子なり[#「父よ、吾も人の子なり」は太字]《パテル・ホモ・スム》の考察――[#「の考察――」は太字]。
[#ここから2字下げ]
すでにそれは、如何《いかん》とも否定し難い|物云う表徴《テルテール・シムボル》である。しかし、算哲が自説の勝利に対する狂的な執着からして、四人の異国人を帰化入籍させたのみならず、常軌を逸した遺言書を作ったり、また屍様図を描き魔法典|焚書《ふんしょ》を行ったりして、犯罪方法を暗示したり捜査の攪乱《かくらん》をあらかじめ企てたという事が、はたして、三人のうちのどの一人に衝動を与えたか――その決定は勿論疑問なのだった。と云うものの、その父《パテル》――の一語は、明白に旗太郎もしくは、セレナ夫人を指していて、あるいは旗太郎が、遺産に関する暴挙に復仇したものか、それともセレナ夫人が、なんらかの動機から、算哲の真意を知ることが出来て――それには、法水の狂的な幻影としか思われない、屍様図の半葉が暗示されてくるのであるが――もしそうだとすれば、夫人の矜恃《きょうじ》の中に動いている絶対の世界が、あるいは、世にもグロテスクな、この爆発を起させたかもしれないのである。そうして、その意志表示が、|吾も人の子なり《ホモ・スム》――の一句に相違ないのだけれども、仮りにもしそれが偽作だとすれば、今度は押鐘津多子を、この狂文の作者に推定しなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
 二、犯罪現象としての押鐘津多子に――[#「二、犯罪現象としての押鐘津多子に――」は太字]。
[#ここから2字下げ]
すでに明白なのは、神意審問会の際張出縁に動いていた人影と、最初乾板を拾いに来た園芸倉庫からの靴跡、それに薬物室の闖入者《ちんにゅうしゃ》――と以上の三人が、算哲を斃《たお》し、あの夜ダンネベルグ夫人の室に侵入した人物と同一人だという事だった。そうすると、当然問題が、ダンネベルグ事件に一括されて、それには、否定すべからざる暗影を持つ押鐘津多子が、しかも、動機中の動機とも云うべきものを引っさげて、登場して来るのだった。勿論、確実な結論として律し得ない限りは、それ等の推測も、無の中の一突起にすぎないではあろうが。
[#ここで字下げ終わり]

 再び旧《もと》の室《へや》に戻って、椅子の上に落ち着くと、法水は憮然《ぶぜん》と顎《あご》を撫《な》でながら驚くべき言葉を吐いた。
「実は、算哲の屍骸の中に、二つの狂暴な意志表示が含まれているのだよ。一度はディグスビイの呪詛のために殺され[#「一度はディグスビイの呪詛のために殺され」に傍点]、そうして蘇生したところを[#「そうして蘇生したところを」に傍点]、今度はファウスト博士が止めを刺したのだ[#「今度はファウスト博士が止めを刺したのだ」に傍点]。つまり、あれは二重の殺人なんだよ」
「なに、二重の殺人※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と熊城が驚きのあまりに問い返すと、法水は|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》――を、実に三度転倒させて、いよいよ最終の帰結点を明らかにした。
「そうじゃないか熊城君、有名なランジイ([#ここから割り注]仏蘭西(フランス)の暗号解読家[#ここで割り注終わり])の言葉に、秘密記法《クリプトメニツェ》の最終は同字整理《シラブル・アジャストメント》にあり――というのがあるからね。そこで、その同字整理《シラブル・アジャストメント》を|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》に試みて、sとs、reとle、stとstを除いてみた。すると、それが Cone《コーン》(松毬《まつかさ》)という一字に、変ってしまったのだよ。ところが、その松毬《コーン》というのが、寝台の天蓋にある頂飾《たてばな》にあって、それがまた、薄気味悪い道化師《クラウン》なんだがね」とそれから帷幕《とばり》の中に入って、蒲団《マット》の上に、卓子《テーブル》や椅子を一つ一つ積み重ねていった。そうして、最後に立箪笥《キャビネット》が載せられたとき、検事と熊城はハッとして息を嚥《の》んだ。と云うのは、松毬《コーン》の形をしたその頂飾《たてばな》が口を開いて、そこからサラサラと、白い粉末が溢《こぼ》れ出たからであった。すると、法水の舌が、黒死館の過去を暗澹《あんたん》とさせたところの、三つの変死事件に触れていった。
「これが、暗黒の神秘――黒死館の悪霊さ。それを修辞学的《レトリカル》に云えば、さしずめ中世異端の弄技物とでも云うところだろうがね。しかし、その装置の内容たるや、過去の三変死事件が、それぞれ同衾《どうきん》中に起ったのを考えれば判るだろう。つまり、二人以上の重量が法度《はっと》で、それが加わると、松毬《コーン》の頂飾が開いて、この粉末が溢れ出すのだよ。それも、以前マリア・アンナ朝時代では、媚薬などを入れたものだが、この寝台では桃花木《マホガニー》の貞操帯になっているのだ。と云うのは、この粉末が確かストラモニヒナス(註)――ほとんど稀集に等しい植物毒だろうと思うからだよ。それが鼻粘膜に触れると、狂暴な幻覚を起すのだから、最初明治二十九年に伝次郎事件、それから三十五年に筆子事件――と二つの他殺事件を起して、ついに最後の算哲を、人形を抱いたあの日に斃《たお》してしまったのだ。つまり、このディグスビイの呪詛《じゅそ》と云うのは、『|死の舞踏《トーテン・タンツ》』に記されている、|奢那教徒は地獄の底に横たわらん《ジャイニスツ・アンダーライ・ビロウ・インフェルノ》――の本体なんだよ」

[#ここから4字下げ]
(註)後日法水は、ストラモニヒナスがついに伝説以上のものだったのに、驚いたと云っている。それは、ゲオルヒ・バルティシュ(十六世紀ケーニヒスブルクの薬学者)の著述の中に記されているのみで、近世になってからは、一八九五年にフィッシュと云って、印度大麻の栽培を奨励した、独領
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