黷トしまった。それから、いつも訊問室に当てている、ダンネベルグ夫人の室《へや》に戻ると、そこには旗太郎とセレナ夫人とが、四、五人の楽壇関係者らしいのを従えて待っていた。ところが、法水の顔を見ると、温雅な彼女にも似げない、命令的な語調で、セレナ夫人が云い出した。
「私どもは明瞭《はっきり》した証言をしにまいりました。実は、伸子を詰問して頂きたいのですが」
「なに紙谷伸子《かみたにのぶこ》を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と法水は、ちょっと驚いたような素振を見せたけれども、その顔には、隠そうとしても隠し得ようのない、会心の笑《えみ》が浮んできた。
「そうすると、あの方が、貴女《あなた》がたを殺すとでも云いましたかな。いや、事実誰かれにも、とうてい打ち壊すことの出来ない障壁があるのですよ」
 それに、旗太郎が割って入った。そして、相変らずこの異常な早熟児は、妙に老成した大人のような、柔か味のある調子で云った。
「法水さん、その障壁と云うのが、今まで僕等には、心理的に築かれておりましてね。現に津多子さんが、最前列の端にいられたのを御存じでしょう。ところが、その障壁を、いまここにいられる方々が打ち壊してくれたのでした」
「私は、装飾灯《シャンデリヤ》が消えるとすぐに、竪琴《ハープ》の方から人の近づいて来る気配を感じました」とそう云いながら、たぶん評論家の鹿常充《しかつねみつる》と思われる――その額の抜け上った四十男は、左右を振り向いて周囲の同意を求めた。そして続けた。「サア、それは気動とでも云うのでしょうかな。それより、絹が摺れ合うと唸《うな》りが起りますから、たぶんそれではないかとも思うのです。しかしいずれにしても、その音はしだいに拡がりを増してまいりました。そして、それがパッタリ杜絶えたかと思うと、同時に壇上で、あの悲痛な呻《うめ》き声が発せられたのです」
「なるほど貴方の筆鋒《ペン》には、充分毒殺効果はあるでしょう」と法水は、むしろ皮肉な微笑を洩らして頷《うなず》いた。「ですが、こういうハックスレイを御存じですか。――証拠以上に出た断定は、誤謬《ごびゅう》と云うだけでは済まされない、むしろ犯罪《クライム》である――と。ハハハハハ、どうせ|音楽の神《ミューズ》の絃《いと》の音までも聴けるのでしたら、そんな風に、鶏《とり》の声でイビュコスの死を告げると云うのはどうですかな。かえって僕は、アリオンを救った方が、音楽好きの海豚《いるか》の義務ではないかと思うのですよ」
「なに、音楽好きの海豚《いるか》ですって※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」居並んでいる一人が憤激して叫んだ。その男は左端に近い旗太郎の直下にいた、大田原末雄というホルン奏者であった。「よろしい、アリオンは既《とう》に救われているんですぞ。しかし、僕の位置が位置だったので、鹿常君の云うその気配というのは聴えませんでした。けれども、かえってこのお二人に近かっただけに、完全な動静を握っていると云っても過言ではないのですよ。法水さん、僕もやはり異様な唸《うな》りを聴きました。それは、呻《うめ》き声が起ると同時に杜絶えましたが……、しかしその音は、旗太郎さんが左|利《きき》で、セレナ夫人が右|利《きき》である限り、弓《キュー》の絃《いと》が、斜めに擦れ合って起ったものに相違ないのですよ」
 その時セレナ夫人は、皮肉な諦《あきら》めの色を現わして法水を見た。
「とにかく、この対照の意味が非常に単純なだけに、かえって皮肉な貴方には、評価が困難なのでございましょう。けれども、御自分の慣性以外の神経で、もし判断して頂けるのでしたら、きっとあの賤民《チゴイネル》に、クラカウ([#ここから割り注]伝説におけるファウスト博士が、魔術修行の土地[#ここで割り注終わり])の想い出が輝くに相違ございませんわ」
 そうして、一同が出て行ってしまうと、熊城は難色を現わして、法水に毒づいた。
「いやどうも呆れたことだ、むしろ与えられたものを素直に取る方が、君に適わしい高尚な精神だと思うんだがね。それより法水君、今の証言で、君が先刻《さっき》云った武具室の方程式を憶い出してもらいたいんだ。あの時君は、[#ここから横組み]2−1=クリヴォフ[#ここで横組み終わり]だと云ったね。しかし、その解答のクリヴォフが殺されたとしたら……」
「冗談じゃない。あんな|賤民の娘《チゴイネル・ユングフラウ》が、どうして、この宮廷陰謀の立役者なもんか」と法水は力を罩《こ》めて云い返した。
「なるほど、伸子という女はすこぶる奇妙な存在で、ダンネベルグ事件と鐘鳴器《カリリヨン》室を除いた以外は、完全に情況証拠の網の中にあるのだ。しかし、あの標本的な人身御供《ひとみごくう》があるがために、ファウスト博士は陽気な御機嫌を続けていられるんだぜ。第一伸子には、動機も衝動もない。例えばどんな作虐性犯罪者《サディスト》でさえも、そういった病的心理を、引き出すに至る動因が、必ずあるものなんだよ。現に、いまもあの|好楽の海豚ども《フィルハーモニック・ドルフィンズ》が……」
 と法水が何事かに触れようとした時、先刻調査を命じておいた拇指痕《ぼしこん》の報告がもたらされた。しかし、結果は徒労に終って、それに該当するものは、ついに現われ出て来なかった。法水は疲れたような眼をして、しばらく考えていたが、ふと何と思ったか、広間《サロン》の煖炉棚《マントルピース》に並んでいる、|忘れな壺《ポッツ・オブ・メモリー》を持参するように命じた。それは総計二十あまりもあって、すでに故人となり、離れ去った人達のもあるけれど、この館に重要な関係を持った人達には、あまねく作らせて、回想を永遠に止めんがためのものであった。表面には、西班牙《スペイン》風の美麗な釉薬《ゆうやく》が施されていて、素人の手作りのせいか、どこか形に古拙《こせつ》なところがあった。法水はそれをずらりと卓上に並べて云った。
「あるいは、僕の神経が過敏すぎるのかもしれないがね。しかし、この館のような、精神病理的人物の多い所では、押捺《おうなつ》した指痕などというものに信頼を置くと、それがそもそもの間違いになるのだよ。何故なら、ときたま外見に現われない発作があるからね。その時強直なり羸痩《るいそう》なりが起った場合に、僕等はとんでもない錯誤を招かんけりゃならんのだ。しかし、この壺の内側には、必ず平静な状態の時、捺《お》された拇指痕《ぼしこん》があるに相違ない。熊城君、君は、ここにある壺を巧く割ってくれ給え」
 そうして糸底《いとぞこ》の姓名と対照して割ってゆくうちに、とうとう二つが残されてしまった。「クロード・ディグスビイ」……割られたが、しかし、あのウェールズ猶太《ジュウ》のものとは異なっていた。次に、降矢木算哲……熊城の持った木槌が軽く打ち下されて、胴体にジグザグの罅《ひび》が入った。そうして、それが二つに開かれた次の瞬間、三人は全く悪夢のようなものを掴まされてしまった。ちょうど縁《へり》から幾分下方に当る所に、疑うべくもない拇指痕が、レヴェズの咽喉《のど》に印されたのと同一の形で現われた。さすがに検事も熊城も、この衝撃には言葉を発する気力さえ失せてしまったらしい。そうしているうちに、熊城は眠りから醒めたような形で、慌《あわ》てて莨《たばこ》の灰を落したが、
「法水君、問題は、これで綺麗《きれい》さっぱり割り切れてしまったのだ。もう猶予《ゆうよ》するところはない。算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、428−1]《ぼこう》を発掘するんだ」
「いや、僕はあくまで正統性《オーソドキシイ》を護ろう」と法水は異様な情熱を罩《こ》めて叫んだ。「あの疑心暗鬼に惑わされて、算哲の生存を信ずると云うのなら、君は勝手に降霊会でも開き給え。僕は|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》――を見つけて、人間様の殺人鬼と闘うんだ」
 それから壁炉《へきろ》の積石に刻まれている紋章の一つ一つを辿《たど》ってゆくと、はたして右側の積石の中に、それらしいものを発見した。そして、法水が試みにそれを押すと、奇妙なことには、その部分が指の行くがままに落ち窪んでゆく。すると、それと同時に、その一段の積石が音もなく後退《あとずさ》りを始めて、やがて、その跡の床に、パックリと四角の闇が開いた。坑道――ディグスビイの酷烈な呪詛《じゅそ》の意志を罩《こ》めたこの一道の闇は、壁間を縫《ぬ》い階層の間隙を歩いて、何処《いずこ》へ辿りつくのだろうか。鐘鳴器《カリルロン》室か礼拝堂かあるいは殯室《モーチュアリー・ルーム》の中にか、それとも四通八達の岐路に分れて……。

    二、伸子よ、運命の星の汝の胸に

 足許には小さな階段が一つあって、そこから漆《うるし》のような闇が覗《のぞ》いている。永年外気に触れたことのない陰湿な空気が、さながら屍温のようなぬくもりと、一種名状の出来ぬ黴《かび》臭さとを伴って、ドロリと流れ出てくる――文字どおりの鬼気だった。法水等三人は、さっそく懐中電燈を点して、肩を狭めながら階段を下りて行った。すると、そこは半畳敷ほどの板敷になっていて、そこまで来ると、今までは光線の加減で見えなかったスリッパの跡が、床に幾つとなく発見された。しかし、その中にはきわめて新しい一つがあって、それが一直線に階段の上まで続いているけれども、その小判形の痕《あと》には、たぶん静かに歩いたせいでもあろうか、前後の特徴さえも残っていないのである。したがって、はたしてそれが階段から下りて来たものか、それとも、奥の坑道から辿り来ったものか、勿論その識別は不可能なのであった。その時、周囲を照らしていた熊城がアッと叫んだ。見ると、右手の上方に、凄愴《せいそう》な生え際を見せた魔王バリ([#ここから割り注]印度ヴイシユヌ化身伝説に現われる悪魔の名[#ここで割り注終わり])の木彫《きぼり》面が掛っていて、その左眼の瞳が、五分ばかり棒のような形で突き出ている。それを押すと、反対に右の方が持ち上ってきて、上から差し込む光線が狭められていった――積石が旧《もと》の位置に戻ったからである。それから法水は、そのスリッパの跡と歩幅の間隔とを計ってから、前方に切り開かれている短冊形の闇の中へ入って行った。実にそれからが、往昔|羅馬《ローマ》皇帝トラヤヌスの時代に、執政官《コンスル》プリニウスが二人の女執事《デアコノ》を使って、カリストゥス地下聖廊を探らせた際の、光景を髣髴《ほうふつ》とするものであった。
 坑道の天井からは、永年の埃の堆積が鍾乳石のような形で垂れ下っていて、呼吸をするごとに細塵が飛散してきて、咽喉《のど》が擽《くすぐ》られるように咽《むせ》っぽかった。それでなくても、空気が新鮮でないために、妙に息苦しく、もしこの際|松火《たいまつ》を使ったとしたら、それは、輝かずに燻《くす》ぶり消えるだろうと思われた。それに、館中の響がこの空間には異様に轟《とどろ》いてきて、時折|岐路《えだみち》ではないかと思ったり、また、人声のようにも聴えたりして、胸を躍らすのもしばしばであった。しかし、スリッパの跡はどこまでも消えずに彼等を導いていった。その足許には、雪を踏みしだくような感じで埃の堆積が崩れ、それを透かして、※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かし》の冷たい感触が、頭の頂辺《てっぺん》まで滲み透るのだった。こうして、この隧道《タンネル》旅行は、かれこれ二十分あまりも続いた。坑道は右に左に、また、ある部分は坂をなし、ほとんど記憶できぬほど曲折の限りを尽して、最後に左に曲ると、そこは袋戸棚のような行き詰りになっていた。そして、そこにも魔王バリの面が発見された。ああ、その石壁一重の彼方は、館の何処《いずこ》であろうか。法水は固唾《かたず》を呑《の》んで面の片眼を押した。すると、その右の扉《ドア》は、熊城の肩を微かに掠《かす》って開かれたが、前方にも依然として闇は続いている。しかし、どこからとなく、寛《ゆるや》かな風が訪れてきて、そこが広い空間であるのを思わせるの
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