Q者の衣袋《ポケット》の中に蔵《しま》われているにもかかわらず、その扉を、いかにして犯人は閉じたのであろうか。また、屍室に残されている足跡にも、レヴェズ以外のものがないばかりでなく、顔面表情も自殺者特有のもので、それに恐怖驚愕と云うような、情緒が欠けているのは何故であろうか。もっとも、横廊下に開いている聖趾窓《ピイド・ウインドウ》には、その上段だけが透明な硝子になっているけれども、一面に厚い埃の層で覆われていて、それには脱出の方法を、想起し得る術《すべ》もないのだった。したがって、|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》――に、解答のすべてがかけられてしまったのも、是非ないことである。検事は屍体の髪を掴んで、その顔を法水に向けた。そして、彼がかつてレヴェズに対して採ったところの、酷烈きわまりない手段を非難するのだった。
「法水君、この局面の責任は、当然君の、道徳的感情の上に掛ってくるんだ。なるほど、あの際の心理分析から、君は地精《コボルト》の札の所在《ありか》を知ることが出来た。また、危く闇から闇に葬られるところだった――この男と、ダンネベルグ夫人との恋愛関係も、君の透視眼が剔抉《てっけつ》したのだ。けれども、レヴェズは君の詭弁に追い詰められて、自分の無辜《むこ》を証明しようとした結果、護衛を断ったんだぜ」
 それには、法水も真向から反駁《はんばく》することは出来なかった。敗北、落胆、失意――希望のすべてが彼から離れてしまったばかりでなく、さながら永世の重荷となるような暗影が、一つ心の一隅に止まってしまった。たぶんその幽霊は、法水に絶えずこう囁《ささや》くことだろう、――お前がファウスト博士をして、レヴェズを殺させたのだ――と。しかし、レヴェズの気管を強圧した二つの拇指痕《ぼしこん》は、この場合、熊城に雀躍《こおど》りさせたほどの獲物だった。それでさっそく、家族全部の指痕を蒐集することになったが、その時、一人の召使《バトラー》を伴った私服が入って来た。その召使《バトラー》というのは、以前易介事件の際にも、証言をしたことのある古賀庄十郎という男で、今度も休憩中に、レヴェズの不可解な挙動を目撃したと云うのだった。
「君が最後にレヴェズを見たと云うのは、何時頃だね」とさっそくに法水が切り出すと、
「はい、たしか八時十分頃だったろうと思いますが」と最初は屍体を見まいとするもののように顔を背けていたが、云いはじめると、その陳述はテキパキ要領を得ていた。「曲目の第一が終って休憩に入りましたので、レヴェズ様は礼拝堂からお出でになりました。その時私は広間《サロン》を抜けて、廊下をこの室の方に歩いてまいりましたが、その私の後を跟《つ》けて、レヴェズ様も同様歩んでお出でになるのでした。しかし、それなり私は、この室《へや》の前を過ぎて換衣室の方に曲ってしまいましたけども、その曲り角でふと後を振り向きますと、レヴェズ様はこの室の前に突っ立ったままで、私の方を凝然《じっ》と見ているのでございます。それはまるで、私の姿が消えるのを待っているかのようでございました」
 それによると、レヴェズが自分からこの室に入ったと云っても、それには寸分も、疑う余地がないのであった。法水は次の質問に入った。
「それから、その時他の三人はどうしていたね?」
「それは御|各自《めいめい》に、一応はお室《へや》に引き上げられたようでございました。そして、曲目の次が始まるちょうど五分前頃に、三人の方はお連れ立ちになり、また伸子さんは、それから幾分遅れ気味にいらっしゃったよう、記憶しておりますが」
 それに、熊城が言葉を挾んで、「そうすると君は、その後に、この廊下を通らなかったのかい」
「はい、間もなく二番目が始まりましたので。御承知のとおり、この廊下には絨毯《じゅうたん》が敷いてございませんので、音が立ちますものですから、演奏中は表廊下を通ることになっておりますので」とレヴェズの不可解な行動を一つ残して、庄十郎の陳述はそれで終った。ところが、終りに彼は、ふと思い出したような云い方をして、「ああそうそう、本庁の外事課員と仰言《おっしゃ》る方が、広間《サロン》でお待ちかねのようでございますが」
 それから、殯室《モーチュアリー・ルーム》を出て広間に行くと、そこには、外事課員の一人が、熊城の部下と連れ立って待っていた。勿論その一つは、黒死館の建築技師――ディグスビイの生死いかんに関する報告だった。しかし、警視庁の依頼によって、蘭貢《ラングーン》の警察当局が、たぶん古い文書までも漁《あさ》ってくれたのであろう。その返電には、ディグスビイが投身した当時の顛末《てんまつ》が、かなり詳細にわたって記されてあった。それを概述すると、――一八八八年六月十七日払暁五時、波斯女帝号《エムプレス・オヴ・パーシャ》の甲板から投身した一人の船客があった。そして、たぶん首は、推進機に切断されたのであろうが、胴体のみはその三時間後に、同市を去る二マイルの海浜に漂着した。勿論、その屍体がディグスビイであるということは、着衣名刺その他の所持品によって、疑うべくもないのだった。
 次に熊城の部下は、久我鎮子《くがしずこ》の身分に関する報告をもたらした。それによると、彼女は医学博士八木沢節斎の長女で、有名な光蘚《ひかりごけ》の研究者久我|錠二郎《じょうじろう》に嫁ぎ、夫とは大正二年六月に死別している。勿論鎮子をその調査にまで導いていったものは、いつぞや法水が彼女の心像を発《あば》いて、算哲の心臓異変を知ることの出来た心理分析にあったのだ。また鎮子がそればかりでなく、早期埋葬防止装置の所在までも算哲から明かされているとすれば、当然両者の関係に、主従の墻《かき》を越えた異様なものがあるように思われたからである。しかし、八木沢という旧姓に眼が触れると、突然法水は異様な呼吸を始め、惑乱したような表情になった。そして、その報告書を掴むや、物も云わずに広間を出て、その足でつかつか図書室の中に入って行った。
 図書室の中には、アカンサス形をした台のある燭台が、ポツリと一つ点《とも》されているのみで、その暗鬱な雰囲気は、著作をする時の鎮子の習慣であるらしかった。しかし彼女は、いっこう何の感覚もなさそうに、凝《じ》っと入って来た法水を瞶《みつ》めている。その凝視は、法水に切り出す機会を失わせたばかりでなく、検事と熊城には、一種の恐怖さえももたらせてきた。やがて、彼女の方から、切れぎれな、しかも威圧するような調子で云い出した。
「ああ、判りましたわ。貴方がこの室《へや》にお出でになったという理由が……。ねえ、たぶんあれなんでしょう。いつかの晩、私はダンネベルグ様のお側におりましたわね。またその後惨事が起るその都度にも、私は一度だって、この図書室から離れていたことはございませんでした。ねえ法水さん、いつかは貴方が、その逆説的効果に、お気づきなさらずにはいまいと考えておりましたわ」
 その間、法水の眼が一秒ごとに光を増して、相手の意識を刺し通すような気がした。彼は身体を捻《ね》じ向けて、ちょっと微笑みかけたが、それは中途で消えてしまった。
「いやけっして、そんな甘い插話《エピソード》ではないのです。僕は貴女《あなた》の所へ、これを最後と思って来たのですよ。ところで、八木沢さん……」と――八木沢という姓を法水が口にすると、それと同時に、鎮子の全身に名状すべからざる動揺が起った。法水は追及した。「たしか貴女のお父上八木沢医学博士は、明治二十一年に、頭蓋鱗様部及び顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]窩《せつじゅか》畸形者の犯罪素質遺伝説を唱えましたね。すると、それに、故人の算哲博士が駁論を挙げたでしょう。ところが、不審なことには、その論争が一年も続いて、まさしく高潮に達したと思われた矢先に、まるでそれが、黙契でも成り立ったかのように消え失せてしまいましたね。そこで、試しに僕は、過去黒死館に起った出来事を、年代順に排列して見ました。そうすると、次の明治二十三年には、あの四人の嬰児《えいじ》が、はるばる海を渡って来たではありませんか。ねえ八木沢さん、たぶんその間の推移に、貴女がこの館にお出でになった理由があると思うのですが」
「もう、何もかも申し上げましょう」と鎮子は沈鬱な眼を上げた。心の動揺がすっかり収まったと見えて、いったんは見分けもつかぬ深みへ、落ち込んでしまった顔の凹凸が、再び恐ろしい鋭さでもって影を擡《もた》げてきた。「私の父と算哲様があの論争を中止いたしましたのは、つまりその結論が、人間を栽培する実験遺伝学という極論に行き詰ってしまったからでございます。そう申し上げればあの四人が、たかが実験用の小動物にすぎないということはお判りでしょう。そこで、四人の真実の身分を申しますと、それぞれに紐育《ニューヨク》エルマイラ監獄で刑死を遂げた、猶太人《ジュウ》、伊太利人《ディエゴ》などの移住民《エミグラント》を父にしているのでございます。つまり、刑死体を解剖して、その頭蓋形体を具えた者がおりました際には、その都度その刑死人の子を、典獄ブロックウェーを通じて手に入れたのでした。そして、ついにその数が、国籍を異にするあの四人になって……ですから、『ハートフォード福音伝道者《エヴァンジェリスト》』誌の記事も、また、大使館公録のものも、みんな算哲様が、金に飽《あ》かした上での御処置だったのでございます」
「そうすると、この館にあの四人を入籍させて、動産の配分に紛糾を起させたというのも、つまりが、結論を見出さんがための筋書だったのですね」
「さようでございます。あの方の御父上も同様の頭蓋形体だったそうですが、それもございましたのでしょう、算哲様は御自分の説に、ほとんど狂的な偏執《へんしつ》を持っていらっしゃいました。しかし、あの方のような異常な性格な方には、我々の云う正規の思考などというものは問題ではございません。没頭――それが生命の全部であり、遺産や情愛や肉身などという瑣事《さじ》は、あの方の広大無辺な、知的意識の世界にとれば、わずかな塵にしかすぎないのでございます。そこで、私の父と算哲様は後年を約して、その成否を私が見届けることになりました。ところが、その際算哲様は、すこぶる陰険な策動をなさったのでございます。と申しますのは、クリヴォフ様についてでございますが、あの方が日本に到着すると間もなく、剖見の発表が取り違えられていたという通知がまいりました。そこで、算哲様は一計を案じて、四人の名を『グスタフス・アドルフス伝』[#「『グスタフス・アドルフス伝』」は底本では「『グスタフス・アドルフス伝』伝」]の中から採ったのでございます。つまり、その頭蓋による遺伝素質のないクリヴォフ様には、暗殺者の名を。他の三人には、暗殺者ブラーエの手に狙撃された、ワレンシュタイン軍の戦没者の名を附けたのでした。そして、この書庫の中から、グスタフス王の正伝をことごとく省いてしまって、それに『リシュリュウ機密閣《ブラック・キャビネット》史』を当てたのでしたけれども、恐らくその人名は、家族の者にも、また貴方がた捜査官にも、なんらかの使嗾《しそう》を起さずにいまいと考えられておりました。ですから法水さん、これで、いつぞや貴方に申し上げた、霊性《ガイスチヒカイト》という言葉の意味が――つまり、父から子に、人間の種子《たね》が必ず一度は彷徨《さまよ》わねばならぬ、あの荒野《ヴュステ》の意味がお判りでございましょう。そうして、今日クリヴォフ様が斃《たお》されたのですから、そうなると、当然算哲様の影が、あの疑心暗鬼の中から消えてしまうではございませんか。ああ、この事件はあらゆる犯罪の中で、道徳の最も頽廃《たいはい》した型式なのでございます。そして、その黝《くろ》ずんだ溝《どぶ》臭い溜水の中で、あの五人の方々が喘《あえ》ぎ競《せめ》いていたのでございますわ」
 こうして、四人の神秘楽人の正体が曝露されると同時に、過去における黒死館の暗流には、ただ一つ、二つの変死事件のみが残さ
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