ク》いたが、その間も微かに身を顫《ふる》わせていた。
「そうなんだ支倉君。そうして、その蒸気が天井の堆塵に触れると、何よりまず、その中の石灰分に滲透してゆく。したがって、内部《なか》に当然空洞が出来るだろうから、終いには支えきれず墜落してしまうのだ。つまり、その物質が、床の足跡を覆うたことは云うまでもあるまい。しかも、その魔法の輪が、多量の石灰分を吸収した後に砕けたので、それが、あの絢爛《けんらん》たる神秘を生むに至ったのだよ。ところが支倉君、ちょうどこれによく似た現象を、史実の中にも発見出来るのだがね。例えば、エルボーゲンの魚文字《イクチス》(註)の奇蹟が……」

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(註)一三二七年まだカルルスバート温泉が発見されぬ頃、同地から十マイルを隔てたエルボーゲンの町外れに、一つの奇蹟が現われた。それは、廃堂の床に、基督教の表象とされている魚という文字が、ものもあろうに希臘《ギリシャ》語で現われたのだった。しかし、それはたぶん、鉱泉脈の間歇《かんけつ》噴気によるものならんと云われている。
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「いや、それはいずれまた聴くとして」と慌《あわ》てて検事は、似非《えせ》史家法水の長広舌《ちょうこうぜつ》を遮ったが、依然半信半疑の態《てい》で相手を瞶《みつ》めている。「なるほど、現象的には、それで説明がつくだろう。また、奥の屍室の中に、あるいは|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》の一端が、現われているかもしれん。しかし、仮令《たとえ》ばそれで、一人二役が解決するにしてもだ。どうしても僕には、隠さずにいい姿を隠した、レヴェズの心情が判らんのだよ。たぶんあの男は、自分の洒落《しゃれ》に陶酔しすぎて、真性を失ってしまったのだろう」
「オヤオヤ支倉君、君は津多子の故智を忘れたのかね。では試しに、屍室の扉《ドア》を開かずにおこうか。そうしたらきっとあの男は、僕等の帰った頃を見計って、横廊下に当る聖趾窓《ピイド・ウインドウ》から抜け出すだろう。そして、大洋琴《グランドピアノ》の中にでも潜り込んで、それから催眠剤を嚥《の》むに違いないのだよ。サア行こう。今度こそ、あの小仏小平《こぼとけこへい》の戸板を叩き破ってやるんだ」
 こうして、法水はついに凱歌を挙げ、やがて、中室の奥――聖パトリックの讃詩《ヒム》を刻んである屍室の扉《ドア》の前に立った。彼等三人には、すでにレヴェズを檻《おり》の中に発見したような心持がして、その残忍な反応を思う存分|貪《むさぼ》り喰いたいのだった。ところが、恐らく内部から鎖されていて、武具室にある、破城槌《バッテリング・ラム》の力でも借りなければ――と信じられていたその扉《ドア》が、意外にも、熊城の掌《てのひら》を載せたまま、すうっと後退《あとずさ》りしたのだった。内部《なか》は、湿っぽい密閉された室《へや》特有の闇で、そこからは、濁りきっていて妙に埃っぽい、咽喉《のど》を擽《くすぐ》るような空気が流れ出てくるのだ。そして、懐中電燈の円い光の中には、はたせるかな、数条の新しい靴跡が現われ出たのだった。その瞬間、闇の彼方にレヴェズの烱々《けいけい》たる眼光が現われ、彼が喘《あえ》ぎ凝《こ》らす、野獣のような息吹が聴えてきた――と思われたのは、彼等の彩塵が描き出した幻だったのだ。その足跡は、奥の垂幕の蔭に消え、最奥の棺室《ひつぎしつ》に続いているのである。ところが、その折彼等が、思わず固唾《かたず》を嚥《の》んだと云うのは、垂幕の裾から床の隅々にまで、送った光の中には、わずか棺台《ひつぎだい》の脚が四本現われたのみで、そこには人影がないのだった。|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》――すでにレヴェズは、この室《へや》から姿を消してしまったのであろう。と、熊城が勢いよく垂幕を剥いだ時に、突然彼は、何者かに額を蹴られて床に倒れた。それと同時に、垂幕の鉄棒が軋《きし》む響が頭上に起って、検事の胸を目掛けて飛んだ固い物体があった。彼は思わずそれを握りしめた――靴。しかしその瞬間、法水の眼は頭上の一点に凍りついてしまった。見よ、そこには一本の裸足と、靴の脱げかかったもう一本――それが、鈍い大振子のように揺れているのだった。
 さながら、脳漿《のうしょう》の臭いを嗅《か》ぐ思いのする法水の推定が、ついに覆《くつがえ》されてしまった。レヴェズは発見されはしたものの、垂幕の鉄棒に革紐を吊って、縊死《いし》を遂げているのだった。閉幕――恐らく黒死館殺人事件は、このあっけない一幕を最後に終ったのであろう。しかし、この結論が、けっして法水を満足させるものでないにもせよ、それは不思議なくらいに、彼を狼狽《ろうばい》させた。熊城は、私服に下させた屍体の顔に、灯を向けて云った。
「やれやれ、これでファウスト様の事件は終ったらしいね。けっして喝采《かっさい》をうけるほどの終局じゃないけれども、まさかこの洪牙利《ハンガリー》の騎士が、犯人とは思いも寄らなかったよ」それ以前すでに、棺台の上が調査されていた。そして、そこに残されている靴跡から判断すると、その端に立ったレヴェズが両手を革紐にかけ、足を離しながら、首を紐の上に落したことは疑うべくもなかった。その――てっきり海獣を思わせるような屍体は、同じく宮廷楽師《カペルマイスター》の衣裳を附けていて、胸のあたりがわずかに吐瀉物で汚されている。なお、推定時刻は一時間前後で、ほぼクリヴォフの殺害と符合していたが、革紐は襟布《カラー》の上からそのなりに印されていて、それが頸筋《くびすじ》に、無残なほど深く喰い入っていた。勿論あらゆる点にわたって、縊死《いし》の形跡は歴然たるものだった。のみならず、それを一面にも立証しているのが、レヴェズの顔面表情だった。その黝《くろ》ずんだ紫色に変った顔には、眉の内端がへの字なりに吊り上り、下眼瞼《したまぶた》は重そうに垂れていて、口も両端が引き下っている。勿論それ等の特徴は、いわゆる|落ちる《フォール》と呼ぶものであって、それにはとうてい打ち消しようもない、絶望と苦悩の色が漂っているのであった。しかしその間、検事は、頸筋の襟布《カラー》を指で摘み上げて、しきりと後頭部の生え際のあたりを瞶《みつ》めていた。が、そうしているうちに、その眼が不気味に据えられてきた。
「僕は、レヴェズに対するゴシップが、あまり酷評に過ぎやせんかと思うのだ。どうだろう法水君、この胡桃形《くるみがた》をした無残な烙印《やきいん》には、たしか索溝の形状《かたち》と、背馳《はいち》するものがあるように思われるんだが」とてっきり、胡桃《くるみ》の殻としか思われない結節の痕《あと》が、一つ生え際に止められているのを指し示して、
「なるほど、索状が上向きにつけられている。そうしたら、こんな結節の一つ二つなんぞは、恐らく瑣事にもすぎんだろう。しかし、古臭いフォン・ホフマンの『法医学教科書』の中にも、こういう例が一つあるじゃないか。それは――床に落ちた書類を拾おうとして、被害者が身体を踞《かが》めたところを、その一眼鏡《モノクル》の絹紐で、犯人が後様《うしろざま》に絞め上げたと云うのだ。勿論そうすれば、索溝が斜め上方につけられるので、後で犯人は、その上に紐を当がって屍体を吊したのだよ。ところが、頸筋にたった一つ結節が残されていて、とうとう終いには、それが、口をきいてしまった――と云うのだがね」そう云ってから、レヴェズの自殺を心理的に観察して、検事はこの局面で、最も痛い点に触れた。
「それに法水君、仮令《たとえ》ばレヴェズが本開閉器《メイン・スイッチ》を消し、それから僕等のしらない、秘密の通路を潜って、クリヴォフ夫人を刺したにしてもだ、だいたい、クニットリンゲンの魔法博士ファウストともあろうものが、何故最後の大見得を切らなかったのだろうか。あれほど芝居げたっぷりだった犯罪者の最後にしては、すべてがあまりにあっけないほど、サッパリしすぎているじゃないか」ととうてい解しきれないレヴェズの自殺心理が、検事をまったく昏迷の底に陥れてしまった。彼は狂わしげに法水を見て、「法水君、この自殺の奇異《ふしぎ》な点だけは、君が、十八番のストイック頌讃歌《パニジリック》からショーペンハウエルまで持ち出してきても、恐らく説明はつかんと思うね。何故なら、目下犯人の戦闘状態たるや、完全に僕等を圧しているんだ。そこへもってきて、あまりに唐突な終局なんだ。ああ、憐れむべき萎縮じゃないか。どうして、この男の想像力が、あのサルヴィニ([#ここから割り注]表情演技の誇大な伊太利俳優の典型[#ここで割り注終わり])張りの大芝居だけで、尽きてしまったとは信じられんよ。時の選択を誤らないためにか、それとも、誇らしげに死ぬためか……。いやいや、けっしてそのどっちでもないはずだ」
「あるいは、そうかもしれんがね」と法水は莨《たばこ》で函《ケース》の蓋を叩きながら、妙に含むところのあるような、それでいて、検事の説を真底から肯定するようにも思われる――異様な頷《うなず》き方をしたが、「そうすると、さしずめ君には、ピデリットの『|擬容と相貌学《ミミク・ウント・フィジオグノミーク》』でも読んでもらうことだね。この悲痛な表情は|落ちる《フォール》と云って、とうてい自殺者以外には求められないものなんだよ」そう云ってから垂幕を強く引くと、頭上に鉄棒の唸《うな》りが起った。「ねえ支倉君、ああして聴えてくる響が、この結節を曲者《くせもの》に見せたのだったよ。何故なら、レヴェズの重量が突然加わったので、鉄棒に弾みがついてしないはじめたのだ。すると、その反動で、懸吊《つる》されている身体《からだ》が、独楽《こま》みたいに廻りはじめるだろう。勿論それによって、革紐がクルクル撚《よじ》れてゆく。そして、それが極限に達すると、今度は逆戻りしながら解《ほど》けてゆくのだ。つまり、その廻転が十数回となく繰り返されるので、自然撚り目の最極の所に結節が出来、それがレヴェズの頸筋《くびすじ》を、強く圧迫したからなんだよ」
 そうして、事象としては完全な説明がついたものの、なんとなく法水には、それが独り占いのように思えてならなかった。彼は依然暗い顔のままで、無暗《むやみ》と莨《たばこ》を烟《けむ》にしながら考えに耽《ふけ》っていた。――博士《ドクター》ファウスト別名《エーリアス》オットカール・レヴェズが、人生を煙のように去った。しかし、それは何故であるか。
 それから、一応ここで検屍を行うことになったが、まず前室の扉《ドア》の鍵が、衣袋《ポケット》の中から発見された。ところが、その直後――ひしゃげ潰《つぶ》れたレヴェズの襟布《カラー》をはずした時に、思いがけなく、その下から三人の眼を激しく射返したものがあった。ついに、レヴェズの死が論理的に明らかとなった。ちょうど軟骨の下――気管の両側の辺りに、二つの拇指の痕《あと》が、まざまざと印されていたのである。しかも、その部分に当る頸椎《けいつい》に脱臼が起っていて、疑いもなくレヴェズの死因は、その扼殺《やくさつ》によるもので……、恐らくそうしてから、絶命に刻々と迫ってゆく身体を、犯人は吊し上げたのであろう――と断ぜねばならなくなってしまった。すでに明白である――局面は再び鮮かな蜻蛉《とんぼ》返りを打った。しかし、それには右指の方にきわだった特徴があって、その方にのみ、爪の痕がいちじるしく印されている。そして、指頭の筋肉に当る部分が、薄っすらと落ち窪んでいて、それが何か腫物《はれもの》でも、切開した痕らしく思われるのだった。しかし、勿論それで、レヴェズの自殺心理に関する疑念だけは、一掃されたけれども、一方鍵の発見によって、疑問はさらに深められるに至った。
 すでにこの局面には、否定も肯定もいっせいに整理されていて、そこには幾つかの、とうてい越え難い障壁が証明されているのだった。恐らく犯人は、レヴェズを前室に引き込んで扼殺《やくさつ》し、その屍体を奥の屍室の中に担ぎ入れたのであろう。しかし、前室の鍵が、被
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