ヘ、階段の前方にほとんど丁字形をなして横たわっていた。それが俯向《うつむ》きに倒れ、両腕を前方に投げ出していて、背の左側には、槍尖《ランス・ヘッド》らしい桿《かん》状の柄が、ニョキリと不気味に突っ立っていた。死体の顔には、ほとんど恐怖の跡はなかった。しかも、奇妙に脂ぎっていて、死戦時の浮腫《ふしゅ》のせいでもあろうか、いつも見るように棘々《とげとげ》しい圭角《けいかく》的な相貌が、死顔ではよほど緩和されているように思われた。ほとんど、表情を失っている。けれども、その――一見、安らかな死の影とも思われるものは、同時にまた、不意の驚愕《きょうがく》が起した、虚心状態とも推察されるのだった。そして、死体の背窪を一杯に覆うて凝結した血が、指差している手の形で、大きな溜りを作っていて、なお薄気味悪いことには、その指頭が壇上の右方に向けられていた。が、それ等の光景の中で、最も強く胸を打ってくるのは、その殺人事件に適《ふさ》わしからぬ対照であった。槍尖《ランス・ヘッド》の根元には、滲み出ている脂肪が金色《こんじき》に輝いていて、それと宮廷楽師《カペルマイスター》の朱色の上衣とが、この惨状全体をきわめて華やかに見せていたのである。
 法水は仔細に兇器の柄を調査したが、それには指紋の跡はなかった。そして、柄の根元にはモントフェラット家の紋章が鋳刻されていて、引き抜くとはたしてそれが、二叉《ふたまた》に先が分れている火焔形の槍尖《ランス・ヘッド》だった。しかし、兇行の際に現われた自然の悪戯《いたずら》は、最も肝腎《かんじん》な部分を覆うてしまった。と云うのは壇上からその位置までの間に、いっこう血滴が発見されないことだった。云うまでもなく、その原因と云うのは、刃がすぐ引き抜かれなかったという点にあって、勿論それがために、瞬間の迸血《ほうけつ》が乏しかったからである。しかし、それによって、なにより犯行を再現するに欠いてはならない、連鎖が絶たれてしまった。つまり、クリヴォフ夫人が壇上のどの点で刺され、そうしてまた、どういう経路を経て墜落した――かという二つの絡《つなが》りを、もはや知り得べくもないのだった。法水は検屍を終えると、聴衆を室外に出してしまってから、階段を上って行った。すると、伸子がまず、夢に魘《うな》されたような声で叫び立てた。
「あのファウスト博士は、まだまだ私を苦しめ足りないのですわ。最初|地精《コボルト》の札を、私の机の中に入れて置いたばかりではございません。今日も、あの悪魔はまた私を択んで、人身御供《ひとみごくう》の三人の中に加えるんですもの」と背後に廻した両手で、竪琴《ハープ》の枠を固く握りしめ、それを激しく揺《ゆす》ぶった。「ねえ、法水さん、貴方は、クリヴォフ様が演奏壇のどこで刺されたか、また、どっちの側から転げ落ちたか――お知りになりたいのでしょう。けれども、ほんとうに私、何も知らないのです。ただ竪琴《ハープ》の枠を掴んで、凝然《じっ》と息を詰めていたのでございますから、ねえ旗太郎様、セレナ様、貴方がたは、たぶんそれを御存じでいらっしゃいましょう」
「いいえ、私がもしグイディオン([#ここから割り注]ドルイド呪教に現われた、暗視隠形に通じていたと云われる、大神秘僧[#ここで割り注終わり])でしたら、あるいは知っていたかもしれませんわ」とセレナ夫人は、戦《おのの》きの中に微かな皮肉を泛《うか》べた。すると、それに言葉を添えて、旗太郎が法水に云った。
「事実そうなんです。生憎《あいにく》僕等には、昆虫や盲者《めくら》が持ち合わせているほど、空間に対する感覚が正確でないのですよ。それに、なにしろ衣裳が同じなものですからね。伸子さんが燐寸《マッチ》を擦《す》って顔を照らすまでは、いったい誰が斃《たお》されたのか、それさえも明瞭《はっきり》していなかったというくらいで……。いやいっそ、何も聴えず、気動にも触れなかったと申しましょうか」と事件の局状《シチュエーション》が、法水等に不利なのを察したと見え、早くも、彼の瞳の中を、圧するような尊大なものが動いていった。「ところで法水さん、いったい本開閉器《メイン・スイッチ》を切ったのは、誰なんでしょうか。その鮮かな早代りで、一人二役を演《や》ってのけた悪魔というのは?」
「なに、悪魔ですって※[#感嘆符疑問符、1−8−78] いや、黒死館という祭壇を屋根にしている――人生そのものが、すでに悪魔的なんじゃありませんか」と眼前の早熟児を、薄気味悪いほど瞶《みつ》めながら、法水は最後の言葉を捉えた。「実は旗太郎さん、僕は旧派の捜査法を――つまり、人間の心細い感覚や記憶などに信憑《しんぴょう》を置くのを、聖骨と呼んで軽蔑しているのですよ。ところが、今日の事件では、殯室《モーチュアリー・ルーム》の聖パトリックを守護神にして、僕はドルイド呪僧と闘わねばならなくなったのです。貴方は、あの愛蘭土《アイルランド》の傑僧がデシル法――(註)に似た行列を行うと、それがドルイド呪僧を駆逐《くちく》して、アルマーの地が聖化されたという史実を御存じでしょうか」

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(註)ウエールスの悪魔教ドルイドの宗儀で、祭壇の周囲を太陽の運行と同様に、すなわち、左から右に廻る習俗。
[#ここで字下げ終わり]

「デシル法※[#感嘆符疑問符、1−8−78] それを、どうしてまた貴方が……」と臆したように面《おもて》を曇らせたが、セレナ夫人は、そうした口の下から問い返した。「ですけど、聰明な聖パトリックは、布教の方便として、あの左から右へ廻る行列法を借りたのではございませんこと」
「さよう、それが今日の事件では、|もの云う表象《テル・テール・シムボル》――だったのです。しかし、呪術の表象《シムボル》を他に移すということは、呪僧それ自らを滅ぼすことなんですよ」と法水は、意地悪げな片笑を泛《うか》べて、陰性な威嚇《いかく》を罩《こ》めたような言葉を云い切った。ああ、|もの云う表象《テル・テール・シムボル》。――とは何であろうか。その解《ほぐ》れきれない霧のようなものは、妙に筋肉が硬ばり、血が凍りつくような空気を作ってしまった。ところが、そのうちセレナ夫人の眼が異様に瞬《またた》かれたかと思うと、最初法水を見、それから、伸子に憎々しげな一瞥《いちべつ》をくれたが、すぐにその視線は、壇下の一点に落ちて動かなくなってしまった。そこには、云いようのない不吉な署名があった。法水が、右から左へという|もの云う表象《テル・テール・シムボル》――ちょうどそれに当るものが、クリヴォフ夫人の背に現われていたのだ。その指差している手の形をした血の溜りが、あろうことか指頭の方向を、右方の壇上――すなわち伸子の位置に向けていたからである。のみならず、あるいは気のせいかは知らないけれども、なんとなくその形が、竪琴《ハープ》にも似ているように思われるのだった。一同は云いしれぬ恐ろしい力を感じて、しばらくその符号に釘づけされてしまった。やがて、伸子は竪琴《ハープ》に顔を隠して、肩を顫《ふる》わせ激しい息使いを始めたが、法水は、それなり訊問を打ち切ってしまった。三人が出て行ってしまうと、熊城は熱のあるような眼を法水に向けて、
「やれやれ、此奴《こいつ》もまた結構な仏様だ。どうだい、この膳立ての念入りさ加減は」とファウスト博士の魔法のような彫刀《のみ》の跡に、思わず惑乱気味な嘆息を洩らすのだった。検事はたまらなくなったような息付きをして、法水に云った。
「すると、結局君は、この暗合を、|この人を見よ《エッケ・ホモ》――と解釈するのかね」
「いやどうして、|それは自然のままにして、しかも流動体なり《ヒック・エスト・ナツーラ・エト・アクワ》――さ」と法水はあっけなく云い放って、その突然の変説が検事を驚かせてしまった。「無論そうなると、あの三人は、完全に僕の指人形《ギニョール》になってしまうのだよ。いまに見給え、あの三匹の深海魚は、きっと自分の胃腑《いぶくろ》を、僕の前へ吐き出しにくるに相違ないのだから」とそれから法水は、彼が演出しようとする心理劇が、いかに素晴らしいかを知らせるのだった。「そこで、僕がデシル法を譬喩にした本当の意味を云うと、それが、旗太郎と提琴《ヴァイオリン》との関係にあったのだよ。君は気がつかなかったかね。あの男は左利にもかかわらず[#「あの男は左利にもかかわらず」に傍点]、現在弓を右に[#「現在弓を右に」に傍点]、提琴を左に持っていたじゃないか[#「提琴を左に持っていたじゃないか」に傍点]。つまり、それがデシル法の、左から右へ――の本体なんだよ。しかし支倉《はぜくら》君、まさかにその恒数《コンスタント》が、偶然の事故じゃあるまいね」
 その時、クリヴォフ夫人の屍体が運び出され、それと入れ代って、一人の私服が入って来た。勿論全館にわたる捜査が終ったのであったが、そのもたらせられた報告には、思わず驚きの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るものがあった。と云うのは、殯室《モーチュアリー・ルーム》の鍵は勿論のことで、それにあろうことかレヴェズの姿が、曲目の第一を終って休憩に入ると、同時に消えてしまったというのだった。なおそれに伴って、ちょうど惨事が発生した時刻には、真斎は病臥中、鎮子は図書室の中で、著作の稿を続けていたということも判った。しかし、それを聴くと、法水の顔にはただならぬ暗影が漂いはじめた。彼はもはや凝然《じっ》としていられなくなったように、焦《もど》かしげな足取りで室内を歩きはじめたが、突然立ち止って、数秒間突っ立ったままで考えはじめた。そのうち、彼の眼に異常な光芒《こうぼう》が現われたかと思うと、ポンと床を蹴って、その高い反響《こだま》の中から、挙げた歓声があった。
「うんそうだ。レヴェズの失踪が、僕に栄光を与えてくれたよ。現在僕等の受難たるや、あの男の物凄い諧謔《ユーモア》を解せなかったにある。ねえ熊城君、あの鍵は殯室《モーチュアリー・ルーム》の中にあるのだよ。廊下の扉《ドア》は、内側から鎖されたんだ。そして、レヴェズは奥の屍室の中に姿を消したのだよ」
「な、何を云うんだ。君は気でも狂ったのか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と熊城は吃驚《びっくり》して、法水を瞶《みつ》め出した。なるほど、殯室《モーチュアリー・ルーム》の中室の床には、足跡らしい掠《かす》れ一つなかったのだ。また、横廊下の屍室の窓には、内部から固く鍵金が下されていた。しかし、ついに法水は、レヴェズに飛行絨毯《フライング・カーペット》を与えてしまったのである。
「すると、前室の湯滝を作ったのは、何のためだい。そして、中室の床に美しい幻の世界を作って、その上の足跡を消してしまったのは?」と狂熱的な口調でやり返して、最後に、演奏台の端をガンと叩いた。そして、彼の闡明《せんめい》は、あの幻怪きわまる紋章模様《ブレゾンリー》をして、ついにレヴェズの檻《おり》たらしめたのだった。
「ところで熊城君、君はよく、莨《たばこ》の烟《けむり》をパッパと輪に吐くけれども、それを気体のリズム運動と云うのだよ。ところが、それと同じ現象が、両端の温度と圧力に差異《へだたり》がある場合、中央に膨みのある洋燈《ラムプ》のホヤや、鍵孔などにも現われるのだ。それから、あの場合もう一つ注意を要するのは、中室の周壁をなしている石質なんだ。それが、バシリカ風の僧院建築などによく使われる石灰石なんだが、当然永い年月の間に風化されているだろうからね。したがって、堆塵《たいじん》の中には、水に溶解する石灰分が混っていると見て差支えないのだ。そこで、レヴェズはまず、前室に湯滝を作って濛気を発生させたのだ。すると、時間が経つにつれて、しだいに前後二つの室の、温度と圧力に隔りが出来てくるのだから、そこに、ちょうど恰好な状態が作られる。そして、鍵孔から吐き出される輪形の濛気が、中室の天井を目がけて上昇して行ったのだよ」
「なるほど、輪形の蒸気と石灰分とでか」検事は判ったように頷《うな
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