ヘ、彼女が座席についた頃に実現されるであろう。そして、その時間の隔りによって、ゆうに暗影の一隅を覆うことが出来るのである。
押鐘津多子《おしがねつたこ》――あの大正中期の大女優は、それ以外のどんな鎖の輪にも、姿を現わさないにもせよ、すでに事件最初の夜、古代時計室の鉄扉を内部《なか》から押し開いていて、ダンネベルグ事件に拭うべからざる影を印しているのである。しかも、事件中人物の中で最も濃厚な動機を持ち、現に彼女は、最前列の座席を占めていたではないか。こうして、幾つかの因子《ファクター》を排列しているうちに、法水は噴《ふ》っと血腥《ちなまぐさ》いような矢叫《やさけ》びを、自分の呼吸の中に感じたのであった。しかし、召使《バトラー》に燭台を用意させて、開閉器《スイッチ》の側《かたわら》に近づいてみると、そこに思いがけない発見があった。と云うのは、開閉器《スイッチ》の直下に当る床の上に、和装の津多子以外にはない、羽織紐の環《かん》が一つ落ちていたからだった。
「夫人《おくさん》、この羽織紐の環《かん》は、ひとまずお返ししておきましょう[#「お返ししておきましょう」は底本では「お返しておきましょう」]。しかし、たぶん貴女《あなた》なら、この開閉器《スイッチ》を捻《ひね》ったのが誰だか――御存じのはずですがね」とまず津多子を喚《よ》んで、法水はこう速急に切りだした。けれども、相手はいっこうに動じた気色もなく、むしろ冷笑を含んで、津多子は云い返した。
「お返し下さるなら、頂いておきますわ。ですけれど法水さん、やっとこれで、|善行悪報の神《ムタビヌチオ》の存在が私に判りましたわ。何故かと申しますなら、暗闇の中から呻吟《うめき》の声が洩れた瞬間に、私の頭へこのスイッチの事が閃《ひらめ》いたのでした。もし、人手を借らず把手《つまみ》が捻れるものでしたら、必ずこの蓋の内部に、何か陰険な仕掛が秘められていなければなりません。また、それがもし事実だとすれば、恐らく闇を幸いに、犯人がその仕掛を取り戻しに来るだろうと思いました。そう考えると、それまでは思いもよらなかった決意が浮んでまいりまして、そこで私、逸早く座席を外して、この場所にまいったのでございます。そして、自分の背でこの開閉器《スイッチ》を覆うていて、いま貴方がお見えになるまで、ずうっとこの場所に立っていたのでございました。ですから法水さん、私がもしデイシャス([#ここから割り注]沙翁の「ジュリアス・シーザー」の中でブルタスの一味[#ここで割り注終わり])でしたら、さしずめこの場合は、羽織の環《かん》にこう申すところでしょうよ。|一角獣は樹によって欺かれ《ザット・ユニコーンス・メイ・ビイ・ビトレイド・ウイズ・トリース》、|熊は鏡により《アンド・ベアス・ウイズ・グラセッス》、|象は穴によって《エレファンツ・ウイズ・ホールス》――と」
そこで、とりあえず開閉器《スイッチ》の内部《なか》を調べることになった。ところがその結果は予期に反して、それには電障の形跡がないばかりでなく、把手《つまみ》を捻《ひね》って電流を通じても、大|装飾灯《シャンデリヤ》は依然闇の中で黙したままである。実に、それが紛糾混乱の始まりとなって、ついに問題は礼拝堂を離れてしまった。法水も、本開閉器《メインスイッチ》の所在を津多子に訊《ただ》す前に、なにより彼の早断を詫びなければならなかった。津多子は気勢を収めて、率直に答えた。
「その室《へや》は、礼拝堂から廊下一重の向うにございまして、以前は殯室《モーチュアリー・ルーム》([#ここから割り注]中世貴族の城館で、塗油式を行う前に屍体を置く室[#ここで割り注終わり])だったのでございます。しかし、現在では改装されておりまして、雑具を置く室になっておりますが」
ところが、広間《サロン》を横切って廊下を歩んで行くにつれて、水流の轟きはいよいよ近くに迫ってくる。そして、目指す殯室《モーチュアリー・ルーム》の手前まで来ると、その――耶蘇大苦難《クルシフィクション》に、聖パトリック十字架のついた扉《ドア》の彼方から、おどろと落ち込んでいる水音が湧き上ってきた。と同時に、彼等の靴を微かに押しやりながら、冷やりと紐穴から這い込んできたものがあった。
「あっ、水だ!」と熊城は、思わず頓狂な叫び声を立てたが、跳び退《の》いた機《はず》みに蹌踉《よろめ》いて、片手を左側にある洗手台《せんしゅだい》で支えねばならなかった。しかし、それで万事が瞭然《りょうぜん》となった。すなわち、扉《ドア》向うの壁に、三つ並んでいる洗手台の栓《せん》を開け放しにして、そこから溢れてくる水に、自然の傾斜を辿《たど》らせたのだった。そして、扉《ドア》の閾《しきい》に明いている、漆喰《しっくい》の欠目から導いて、その水流を殯室《モーチュアリー・ルーム》の中へ落ち込ませたに相違ない。そこで、扉《ドア》を開くことになったが、それには鍵が下りていて、押せど突けども、微動《みじろぎ》さえしないのである。熊城は恐ろしい勢いで、扉《ドア》に身体を叩きつけたが、わずかに木の軋《きし》る音が響いたのみで、その全身が鞠《まり》のように弾《はじ》き返された。すると、熊城は、身体を立て直して、さながら狂ったような語気で叫んだ。
「斧《おの》だ! この扉《ドア》がロッビアだろうが左甚五郎の手彫りだろうが、僕は是《ぜ》が非でも叩き破るんだ」
そうして斧が取り寄せられて、まず最初の一撃が、把手《ノッブ》の上のあたり――羽目《パネル》を目がけて加えられた。木片が砕け飛んで、旧式の槓杵《タンブラー》錠装置が、木捻《もくねじ》ごとダラリと下った。すると意外にも、その楔形《くさびがた》をした破れ目の隙から、濛々たる温泉のような蒸気が迸《ほとばし》り出たのだった。
その瞬間、一同は阿呆のような顔になって、立ち竦《すく》んでしまった。その湯滝の蔭に、たといいかなる秘計が隠されていようと、それはこの場合問題ではない。また、幻想を現実に強《し》いようとするのが、ファウスト博士の残虐な快感であるかもしれないが、ともあれ眼前の奇観には、魂の底までも陶酔せずには措《お》かない、妖術的な魅力があった。扉《ドア》が開かれると、内部《なか》は一面の白い壁で、さながら眼球を爛《ただ》らさんばかりの熱気である。しかし、その時熊城が、扉の側にある点滅器を捻《ひね》り、またその下の電気|煖炉《ストーブ》に眼を止めて、|差込み《プラグ》を引き抜いたので、やがて濛気と高温が退散するにつれ、室の全貌がようやく明らかになった。
つまりこの一劃は、殯室《モーチュアリー・ルーム》で云うところのいわゆる前室に当るもので、突き当りの扉《ドア》の奥が、公教《カトリック》の戯言《ぎげん》で霊舞室《おどりば》と呼ばれる中室になっていた。そして、隅に明いている排水孔から、落ち込んだ水が流れ出ているのである。また、中室との境界《さかい》には、装飾のない厳《いか》めしい石扉《いしど》が一つあって、側《かたわら》の壁に、古式の旗飾りのついた大きな鍵がぶら下っていた。その扉《ドア》には鍵が下りてなく、石扉特有の地鳴りのような響を立てて開かれた。ところが、不思議なことには、前室が爛《ただ》れんばかりの高温にもかかわらず、今や前方に開かれてゆく闇の奥からは、まるで穴窟《あなぐら》のような空気が、冷やりと触れてくるのだ。そして、扉《ドア》が一杯に開ききられたとき、その薄明りの中から、法水は自分の眼に、眩《くら》み転《まろ》ばんばかりの激動をうけたのだった。パッと眼を打ってきた白毫《びゃくごう》色の耀きがあって、思わず彼は、前方の床を瞶《みつ》めたまま棒立ちになってしまった。それはけっして、この僧院造り特有の、暗い沈鬱な雰囲気《ムード》が、彼に及ぼした力ではなかったのだ。
[#礼拝堂付近の図(fig1317_49.png)入る]
そこの床上一面には、数十万の白|蚯蚓《みみず》を放ったかと思われるような、細い短い曲線が無数にのたうち交錯していて、それが積り重なった埃《ほこり》の上で、地の灰色を圧していて、清冽な――しかし見ようによっては、妙に薄気味悪く粘液的にも思われる白光を放っているのだった。――それは、瞶《みつ》めていると、視野に当る部分だけが、荘厳な紋章模様《ブレゾンリー》のような形になって、宙に浮び上り、パッと眼に飛びついてくるのだ。その光は、さながらゴットシャルク([#ここから割り注]第一十字軍以前の先発隊を率いた独逸の修道僧[#ここで割り注終わり])の見た、聖《セント》ヒエロニムスの幻のように思われる。しかも、その無数の線条は、ほとんど室《へや》全体の床にわたっていて、濛気で堆塵の上に作られた細溝には相違ないけれども、不思議なことに、天井や周囲の壁面には、それと思《おぼ》しい痕跡が残されていない。そればかりでなく、さらに床を横合から透かしてみると、まるで月世界の山脈か沙漠の砂丘としか思われぬような起伏が、そこにもまた無数と続いているのだった。それ等は、いかなる名工といえどもとうてい及び難い、自然力の微妙な細刻に相違ないのである。
その室《へや》は石灰石の積石で囲まれていて、艱苦《かんく》と修道を思わせるような沈厳な空気が漲《みなぎ》っていた。突き当りの石扉の奥が屍室で、その扉《ドア》面には、有名な聖《セント》パトリックの讃詩《ヒム》――「|異教徒の凶律に対し、また女人・鍛工及びドルイド呪僧の呪文に対して《アゲインスト・ブラックロウス・オヴ・ゼ・ヒイズン・アンド・アゲインスト・ゼ・スペルス・オヴ・ウイミン・スミスス・アンド・ドルイズ》」――の全文が刻まれていた。しかし、床上には足跡がなく、恐らく算哲の葬儀の際にも、古式の殯室儀《ひんしつぎ》は行われなかったものらしい。そうして、前室より先には誰一人入らなかったことが判ると、疑題のすべてはそこに尽きてしまった。つまり、水を洗手台から導いて、階段を落下させたという目的は、きわめて推察に容易ではあるが、次の煖炉《ストーブ》の点火という点になると、その意図には皆目見当がつかないのだった。勿論、壁の開閉器函《スイッチばこ》は蓋《ふた》が明け放されていて、接触刃《ナイフ》の柄がグタリと下を向いていた。検事は、その柄を握って電流を通じたが、足元に開いている排水孔を見やりながら、知見を述べた。
「つまり、洗手台の水を使って、階段から落下させたというのは、床の埃の上に附いた足跡を消すにあったのだよ。すると、どうしても根本の疑義と云うのは、この室《へや》の本開閉器《メイン・スイッチ》を切ったのと、それから、扉《ドア》に鍵を下して室外に出てから、クリヴォフを刺した――その一人二役にあるという訳になるがね。しかし、どうあっても僕には、レヴェズがそんな、小悪魔《ポルターガイスト》の役を勤めたとは信じられんよ。必ずその解答は、君が発見した|紋章のない石《クレストレッス・ストーン》――にあるに相違ないのだ」
「なるほど、明察には違いないが」といったんは率直に頷《うなず》いたが法水は、続いて憂わしげに瞬《またた》いて、「しかし、この際の懸念と云うのは、かえって、レヴェズの心理劇の方にあるのだよ。と云ってまた、この室の鍵の行衛が、案外見えなかったレヴェズに関係があるのかもわからんし……」とパッパッと烈しく莨《たばこ》を燻《くゆ》らしていたが、熊城の方を向いて、「とにかく、犯人がいつまでも身につけている気遣いはないのだから、まず鍵の行衛を捜すことだ。それから、レヴェズを見つけて連れて来ることなんだ」
ようやく悪夢から解放されたような気持になって、旧《もと》の礼拝堂に戻ると、そこには再び、装飾灯《シャンデリヤ》の燦光《ひかり》が散っていた。その下で、聴衆はここかしこに地図的な集団を作って固まっていたが、壇上の三人は、それぞれに旧《もと》いた位置から動かされなかったので、それでなくても不安と憂愁のために、追いつめられた獣のように顫《ふる》え戦《おのの》いていた。クリヴォフ夫人の死体
前へ
次へ
全70ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング