魔翌yzbnmlkjhgfde[#「pqrstvwxyzbnmlkjhgfde」は太字]
[#ここで字下げ終わり]

 それから、続いて第六節では、エヴ姙《みごも》りて女児を生む――という文章に意味がある。と云うのは、エヴすなわちdの次の時代――つまりabcdと数えて、dの次のeを暗示しているのだ。そして、それに第七節の解釈を加えると、eが母音の首語aに当ることになるのだから、aeiouをeioua[#「eioua」は太字]と置き換えたものが、結局母音の暗号になってしまうのだ。そうすると、あの秘密記法《クリプトメニツェ》の全部が、crestless《クレストレッス》 stone《ストーン》――となる。それで、まず解読を終ったという訳さ」
「なに、クレストレッス・ストーン※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は思わず、頓狂な叫び声を立てた。
「そうなんだ、曰く紋章のない石――さ。君は、ダンネベルグ夫人が殺された室《へや》を見て、そこの壁炉[#「壁炉」に傍点]が、紋章を刻み込んだ石で、築かれていたのに気がつかなかったかね」と法水はそう云って、出しかけた莨《たばこ》を再び函《ケース》の中に戻してしまった。その瞬間、あらゆるものが静止したように思われた。
 ついに、黒死館事件の循環論の一隅が破られ、その鎖の輪の中で、法水の手がファウスト博士の心臓を握りしめてしまった――ああ閉幕《カーテン・フォール》。
 それがちょうど六時のことで、戸外にはいつしか煙のような雨が降りはじめていた。その夜黒死館には、年一回の公開演奏会が催されていて、毎年の例によれば、約二十人ほど音楽関係者が招待されることになっていた。会場はいつもの礼拝堂で、特にその夜に限り、臨時に設備された大|装飾灯《シャンデリア》が天井に輝いているので、いつか見た、微かにゆらぐ灯の中から、読経や風琴《オルガン》の音でも響いてきそうな――あの幽玄な雰囲気は、その夜どこへかけし飛んでしまったかのように思われた。
 けれども、その扇形をした穹窿《きゅうりゅう》の下には、依然中世的好尚が失われていなかった。楽人はことごとく仮髪《かつら》を附け、それに眼が覚《さめ》るような、朱色の衣裳を着ているのである。法水一行が着いた時は、曲目の第二が始まっていて、クリヴォフ夫人の作曲に係《かか》わる、変ロ調の竪琴《ハープ》と絃楽三重奏が、ちょうど第二楽章に入ったばかりのところだった。竪琴《ハープ》は伸子が弾いていて、その技量が、幾分他の三人――すなわち、クリヴォフ、セレナ、旗太郎に劣るところは、云わば瑕瑾《かきん》と云えば瑕瑾だったろうけれども、しかし、それを吟味する余裕《ゆとり》もないのだった。と云うのは、色と音が妖しい幻のように、入りみだれている眼前の光景には、たった一目で、十分感覚を奪ってしまうものがあったからだ。下髪《さげお》の短いタレイラン式の仮髪《かつら》に、シュヴェツィンゲン風を模した宮廷楽師《カペルマイスター》の衣裳。その色濃く響の高い絵には、その昔テムズ河上におけるジョージ一世の音楽饗宴が――すなわちヘンデルの、「水楽《ウォーター・ミュージック》」初演の夜が髣髴《ほうふつ》となってくるように、それはまさしく、燃え上らんばかりの幻であり、また眩惑の中にも、静かな追想を求めてやまない力があった。
 法水一行は、最後の列に腰を下して、陶酔と安泰のうちにも、演奏会の終了を待ち構えていた。しかも、彼等のみならず、誰しもそうであったろうが、このように煌々《こうこう》と輝く大|装飾灯《シャンデリヤ》の下では、まずいかなるファウスト博士といえども、乗ずる隙は、万が一にもあるまいと信じられていた。ところが、そのうち竪琴《ハープ》のグリッサンドが、夢の中の泡のように消えて行って、旗太郎の第一|提琴《ヴァイオリン》が主題の旋律を弾《ひ》き出すと、……その時、実に予想もされ得なかった出来事が起ったのである。突然聴衆の間から湧き起った、物凄じい激動とともに、舞台が薄気味悪い暗転を始めたのであった。
 不意に装飾灯《シャンデリヤ》の灯が消えて、色と光と音が、一時に暗黒の中へ没し去った。と、ちょうどそれと同時に、何者が発したものか、演奏台の上で異様な呻《うめ》き声が起ったのである。続いて、ドカッと床に倒れるような響がしたかと思うと、投げ出されたらしい絃楽器が、弦と胴をけたたましく鳴らせながら、階段を転げ落ちていった。そして、その音がしばらく闇の中で顫《ふる》えはためいていたが、杜絶《とだ》えてしまうと、もはや誰一人声を発する者もなく、堂内は云いしれぬ鬼気と沈黙とに包まれてしまった。
 呻吟《しんぎん》と墜落の響――。たしか四人の演奏者の中で、そのうち一人が斃《たお》されたに相違ない。そう思いながら、法水が凝然《じっ》と動悸《どうき》を押えて耳を澄ましていると、どこかこの室《へや》の真近から、ちょうど瀬にせせらぐ水流のような、微かな音が聴えてくるのだった。と、その矢先、壇上の一角に闇が破られて、一本の燐寸《マッチ》の火が、階段を客席の方に降りてきた。それから、ほんの一|瞬《とき》であったが、血が凍り息窒《いきづ》まるようなものが流れはじめた。しかし、その光が、妖怪めいたはためきをしながら、しきりと床上を摸索《まさぐ》っている間でも、法水の眼だけはその上方に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》かれていて、鋭く壇上の空間に注がれていた。そして、闇の中に一つの人容《ひとがた》を描いて、じいっと捉まえて放さない幻があった。
 仮令《よしんば》犠牲者は誰であっても、その下手人は、オリガ・クリヴォフ以外にはない。しかも、あの皮肉な冷笑的な怪物は、法水を眼下に眺めているにもかかわらず、悠々《ゆうゆう》と一場の酸鼻《さんび》[#ルビの「さんび」は底本では「さんぴ」]劇を演じ去ったのである。恐らく今度も、矛盾撞着が針袋のように覆うていて、あの畏懼《いく》と嘆賞の気持を、必ずや四度《よたび》繰り返すことであろう。しかし、擲弾《てきだん》の距離はしだいに近づいて、すでに法水は、相手の心動を聴き、樹皮のように中性的な体臭を嗅《か》ぐまでに迫っていたのだ。ところが、その矢先――焔の尽きた※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《うずみび》が弓のように垂《しな》だれて、燐寸《マッチ》が指頭から放たれた。と、キァッという悲鳴が闇をつんざいて、それが伸子の声であるのも意識する余裕《ゆとり》がなく、法水の眼は、たちまち床の一点に釘づけされてしまった。
 見よ――そこには硫黄のように、薄っすら輝き出した一幅の帯がある。そして、その下辺のあたりから、幾つとない火の玉が、チリチリと捲き縮んでいって、現われてはまた消えてゆくのだった。しかし、それに眼を止めた瞬間、法水のあらゆる表情が静止してしまった。彼の眼前に現われた一つの驚くべきもの以外の世界は――座席の背長椅子《バルダキン》も、頭上に交錯《くみかわ》している扇形の穹窿《きゅうりゅう》も、まるで嵐の森のように揺れはじめて、それ等がともども、彼の足元に開かれた無明の深淵の中へ墜ち込んでゆくのだった。実に、その消え行く瞬間の光は、斜めに傾《かし》いで仮髪《かつら》の隙から現われた、白い布の上に落ちたのである。それは擬《まぎ》れもなく、武具室の惨劇を未だに止めている額の繃帯ではないか。ああ、オリガ・クリヴォフ。再度法水の退軍だった。斃《たお》されたのは誰あろう、彼の推定犯人クリヴォフ夫人だったのだ。
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  第八篇 降矢木家の壊崩
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    一、ファウスト博士の拇指痕《ぼしこん》

 こうして、再びこの狂気双六《きちがいすごろく》は、法水の札を旧《もと》の振り出しに戻してしまった。しかし、その悲痛な瞬間が去ると同時に、法水《のりみず》には再び落着きが戻ってきた。けれども、その耳元に、代り合って這《は》い寄ってきたものがあったのだ。と云うのは、先刻《さっき》からあるいは幻聴ではないかと思われていた、あの水流のような響だったのである。恐らく角柱のような空間を通ったり、あるいはまた、それに窓|硝子《ガラス》の震動なども加わったりするせいもあるだろうが、今度は前《さき》にも倍増して、さながら地軸を震動させんばかりの轟《とどろ》きであった。そして、そのおどろと鳴り轟《とどろ》く響が、陰惨な死の室《へや》の空気を揺すりはじめたのである。それこそ、中世|独逸《ゲルマン》の伝説――「魔女集会《ヴァルプルギス》」の再現ではないだろうか。幾つかの積石と窓を隔てて[#「幾つかの積石と窓を隔てて」に傍点]、たしか[#「たしか」に傍点]、この館のどこかに瀑布が落ちているのだ[#「この館のどこかに瀑布が落ちているのだ」に傍点]。それが、目前の犯行に、直接関係があるかどうかはともかくとして、あるいは、ファウスト博士特有の装飾癖が壮観|嗜《ごの》みであるにもせよ、とうていそのような荒唐無稽《こうとうむけい》な事実が、現実に混同していようとは信じられぬのである。ああ、その瀑布の轟き――華美《はなやか》な邪魁《グロテスク》な夢は、まさにいかなる理法をもってしても律し得ようのない、変畸狂態のきわみではないか。しかし法水は、その狂わしい感覚を振りきって叫んだ――「開閉器《スイッチ》を、灯を!」
 すると、その声に初めて我に返ったかのごとく、聴衆はドッと一度に入口へ殺到した。その流れを、暗黒と同時に扉《ドア》を固めた熊城《くましろ》が制止したので、しばらくその雑沓混乱のために、開閉器《スイッチ》の点火が不可能にされてしまった。あらかじめ観客の注意を散在せしめないために、階下の一帯を消燈しておいたので、廊下の壁燈が仄《ほん》のりと一つ点《つ》いているだけ、広間《サロン》も周囲の室も真暗《まっくら》である。その喧囂《けんごう》たるどよめきの中で、法水は、暗中の彩塵を追いながら黙考に沈みはじめた。そこへ、検事が歩み寄って来て、クリヴォフ夫人が背後から心臓を刺し貫かれ、すでに絶命しているという旨を告げた。
 しかし、その間に法水の推考が成長していって、ついに洋琴《ピアノ》線のように張りきってしまった。そして、目前の惨事に、最初から現われてきた事象を整理して、その曲線に、一本の切線《カッティング・ライン》を引こうと試みた。――第一、演奏者中にレヴェズがいないという事だ。(しかし、聴衆の中にも彼の姿は見出されなかったのである)。それから、暗黒と同時にこの室《へや》が密閉されたという事――つまり、事件の発生前後の状況が、ともに同一であるという事だった。ところが、最後の開閉器《スイッチ》を捻《ひね》ったのは誰か――云い換えれば、最も重要な帰結点であるところの消燈の件《くだ》りになると、それに端なくも、法水は一道の光明を認め得たのであった。と云うのは、装飾灯《シャンデリヤ》が消える直前に、津多子が入口の扉《ドア》に現われて、扉《ドア》際にある開閉器《スイッチ》の脇を通ってから、その側の端に近い、最前列の椅子を占めたからである。
 事実それに、法水が発見した最初の座標があったのだ。それは、アベルスの「犯罪形態学《フェルブレッヘリッシェ・モルフォロギイ》」の中に挙げられている詭計の一つで、蓋附き開閉器《スイッチ》に電障を起させるために、氷の稜片を利用するという方法である。つまり、把手《つまみ》に続いている絶縁物に稜片の先を挾んで置くので、把手《つまみ》を捻《ひね》ると、接触板が微かに触れる程度で点燈される。が、その直後、把手《つまみ》に腕を衝突させるのが狡策であって、そうすると氷の先が折れて、稜片の胴が、熱のある接触板の一つに触れる。したがって、そうして溶解した氷の蒸気が陶器台の上に水滴を作れば、当然そこに電障が起らねばならない。しかも、溶解した氷は、そのまま消失してしまうのである。すなわち、この場合|開閉器《スイッチ》の側を過ぎる際に、もしその狡策を津多子が行ったとしたら、当然消燈
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