bト人か豆左衛門でなければならないからだ。云うまでもなく、そういう人体形成の理法を無視しているようなものが、まさかこの人間世界に、あり得ようとは思われないだろう。勿論、自分の足型を覆い隠そうとしての奸策で、それには、容易ならぬ詭計が潜んでいるに違いないのだ。そこで、まず順序として、あの夜その時刻頃、裏庭へ行ったという易介が、そもそも二つのいずれであるか――それを第一に、決定する必要があると思うのだよ」
 と異常に熱してきた空気の中で、法水の解析神経がズキズキ脈打ち出した。そして、靴型の疑問に縦横の刀《メス》を加えるのだった。
「ところが、その真相と云うのが、判って見ると、すこぶる悪魔的な冗談なんだよ、驚くじゃないか。巨漢レヴェズの套靴《オヴァ・シューズ》を履いたのが、かえって、その半分もあるまいと思われる、矮小《わいしょう》な人物なんだ。それから、次にあのスウィフト([#ここから割り注]「ガリヴァー旅行記」の作者[#ここで割り注終わり])的な園芸靴だが、その方は、まず、レヴェズほどではないだろうが、とにかく、常人とさして変らぬ、体躯《たいく》の者に相違ないのだ。そこで、僕の推定を云うと、まず套靴《オヴァ・シューズ》の方に、易介を当ててみたのだが、どうだろうね。ねえ熊城君、たしかあの男は、拱廊《そでろうか》にあった具足の鞠沓《まりぐつ》を履いて、その上に、レヴェズの套靴《オヴァ・シューズ》を無理やり嵌《は》め込んだに違いないのだ」
「明察だ。いかにも、易介はダンネベルグ事件の共犯者なんだ。あの行為の目的は、云わずと知れた毒入り洋橙《オレンジ》の授受であったに相違ない。それを、あれほど明白な結合動作《コンビネーション》を――。今の今まで、君の紆余《うよ》曲折的な神経が妨げていたんだぜ」と熊城は傲然《ごうぜん》と云い放って、自説と法水の推定が、ついに一致したのをほくそ笑むのだった。しかし、法水は弾《はじ》き返すように嗤《わら》った。
「冗談じゃない。どうして、あのファウスト博士に、そんな小悪魔《ポルターガイスト》が必要なもんか。やはり、悪鬼の陰険な戦術なんだよ。で、仮令《たとえ》ば家族の中に、一人冷酷無残な人物があったとしよう。そして、その一人が黒死館中の忌怖《きふ》の的であったばかりでなく、事実においても、易介を殺したのだと仮定しよう。ところが易介は、あの夜ダンネベルグ夫人に、附き添っていたのだからね。その一事が、とうてい避けられない、先入主になってしまうのだよ。だから、仮令《たとえ》その人物のために、巧みに導かれて、あの乾板の破片があった場所に行き、しかもその翌日殺されたにしてもだ。当然、易介は共犯者と目されるに違いないのだ。そして、主犯の見当がその一人にではなく、むしろ易介と親しかった圏内に落ちるのが、当然だと云わなければならんだろう。それから、園芸靴の方には、いったんは消えたはずだった、クリヴォフ夫人の顔が、また現われているのだがね。ああ、そのクリヴォフなんだよ。問題はあのカウカサス猶太人《ジュウ》の足にあったのだ。ところで熊城君、君は、ババンスキイ痛点という言葉を知っているかね。それは、クリヴォフ夫人のような、初期の脊髄癆《せきずいろう》患者によく見る徴候で、後踵《こうしょう》部に現われる痛点を指して云うのだよ。しかも、それを重圧すると、恐らく歩行には耐えられまいと思われるほどの疼痛《とうつう》を覚えるんだが……」
 しかし、その一言に武具室の惨劇を思い合わせれば、まず狂気の沙汰としか信じられないのだった。熊城は吃驚《びっくり》して眼を円《まる》くしたが、それを検事が抑えて、
「勿論偶発的なものには違いないだろうが、しかし、僕等の肝臓に変調をきたしていない限りだ。たしか、あの園芸靴には、重点が後踵部にあったはずだったがね。とにかく法水君、問題を童話から、他の話に転じてもらおう」
「そうは云うがね、あのファウスト博士は、アベルスの『犯罪形態学《フェルブレッヘリッシェ・モルフォロギイ》』にもない新手法を発見したのだよ。もしあの園芸靴を、逆さに履いたのだとしたら、どうなんだろう」と法水は、皮肉な微笑を返して云った。「もっとも、あれが純護謨製《ピュアラバァ》の長靴だからこそ可能な話なんだが、しかし、その方法はと云っても、爪先を靴の踵《かかと》に入れるばかりではない。つまり、踵の足型の中へ全部入れずに、幾分持ち上げ気味にして、爪先で靴の踵の部分を強く押しながら歩くのだよ、そうすると、踵の下になった靴の皮が自然二つ折れて、ちょうど支《か》い物を当てがったような恰好になる。したがって、靴の踵に加えた力が直接爪先の上には落ちずに、幾分そこから下った辺りに加わるだろうからね。いかにも、足の矮小《わいしょう》なものが、大きな靴を履いたような形が現われるのだ。のみならず、それが弛《ゆる》んだ弾条《スプリング》のように不規則な弾縮をするから、そのつどに、加わってくる力が異なるという訳だろう。したがって、どの靴跡にも、一々わずかながらも差異が現われてくるのだ。すると、右足に左靴、左足に右靴を履くことになるから、歩線の往路が復路となり、復路が往路となって、すべてが逆転してしまうのだよ。その証拠と云うのは、乾板のある場所で廻転した際と、枯芝《かれしば》を跨《また》ぎ越した時と――その二つの場合に、利足《ききあし》がどっちの足か吟味してみるんだ。そうしてみたら、この差数が明確に算出されてくるじゃないか。で、そうなると支倉《はぜくら》君、どうしてもクリヴォフ夫人が、この詭計《トリック》を使わねばならなかった――という意味が明瞭《はっきり》するだろう。それは単に、あの偽装足跡を残すばかりではなかったのだ。なにより、最も弱点であるところの踵《かかと》を保護して、自分の顔を足跡から消してしまうにあったのだよ。そして、その行動の秘密と云うのが、あの乾板の破片にあった――と僕は結論したいのだ」
 熊城は莨《たばこ》を口から放して、驚いたように法水の顔を瞶《みつ》めていた。が、やがて軽い吐息をついて、「なるほど……。しかし、ファウスト博士の本体は、武具室のクリヴォフ以外にはないはずだぜ。もし、それを証明出来ないのだったら、いっそのこと、君の嬉劇《シュポルト》的な散策は、やめにしてくれ給え」
 それを聴くと、法水は押収してきた火術弩《かじゅつど》を取り上げて、その本弭《もとはじ》([#ここから割り注]弓の末端[#ここで割り注終わり])の部分を強く卓上に叩き付けた。すると意外にも、その弦《つる》の中から、白い粉末がこぼれ出たのであった。法水は、唖然となった二人を尻眼に語りはじめた。
「やはり、犯人は僕等を欺かなかったのだ。この燃えたラミイの粉末が、とりもなおさず、あの、|火精よ燃えたけれ《ザラマンダー・ゾル・グルーエン》――なんだよ。ラミイ――それをトリウムとセリウムの溶液に浸せば、燈火|瓦斯《ガス》のマントル材料になるし、その繊維は強靱《きょうじん》な代りに、些細《ささい》な熱にも変化しやすいのだ。実は、その繊維の撚《よ》ったものを、二本|甘瓢《かんぴょう》形※[#「∪/∩」(fig1317_48.png)」、382−5]に組んで、犯人は弦の中に隠しておいたのだよ。ところで、よく無意識に子供などがやる力学的な問題だが、元来弓というものは、弦を縮めてそれを瞬間|弛《ゆる》めたにしても、通例引き絞って、発射したと同様の効果があるのだ。つまり犯人は、あらかじめ弦の長さよりも短いラミイ――それも長さの異なる二本を使って、その最も短い一本で、その長さまでに弦を縮めたのだ。無論外見上も、撚り目を最極まで固くすれば、不審な点は万々にも、残らないと思うのだがね。そして、そこへ犯人が、あの窓から招き寄せたものがあったのだ」
「しかし、火精《ザラマンダー》ではあの虹が……」と検事は、眩惑されたように叫んだ。
「うん、その火精《ザラマンダー》だが……かつて、水罎《みずびん》に日光を通すという技巧を、ルブランが用いた。けれども、その手法は、すでに、リッテルハウスの、『|偶発的犯罪に就いて《ユーベル・ディ・ナツユルリッヘン・フェルブレッヘン》』の中に、述べられてある。しかし、この場合は、その水罎に当るものが、窓硝子の焼泡にあったのだよ。つまり、それがあの上下窓の中で、内側のものの上方にあって、いったんそこへ集った太陽の光線が、外側の窓枠にある刳《く》り飾り――知っているだろうが、錫張《すずば》りの盃形《さかずきがた》をしたものに集中したのだ。したがって、そこから弦の間近に焦点が作られるので、当然壁の石面に熱が起らねばならない。そして、弦には異常はなくても、まず変化しやすいラミイの方は、組織が破壊されるのだ。ところが、そこに、犯人の絶讃的な技巧があったのだよ。と云うのは、二本のラミイの長さを異にさせた事と、また、それを弦《つる》の中で甘瓢《かんぴょう》形に組み、その交叉している点を弦の最下端――つまり、弓の本弭《もとはじ》の近くに置いたという事なんだ。すると、最初に焦点が、その交叉点よりやや下方に落ちて、まず弦よりやや短い一本が切断される。そうすると、幾分弦が弛むだろうから、その反動で撚《よ》り目が釘からはずれ、したがって弩《ど》が壁から開いて、当然そこに角度が作られなければならない。それから、太陽の動きにつれて焦点が上方に移ると、今度は弦を、その長さまでに縮めた最後の一本が切断される。そこで、箭《や》が発射されて、その反動で弩が床の上に落ちたのだよ。勿論床に衝突した際に、把手《ハンドル》が発射された位置に変ったのだろうけれど、元来|把手《ハンドル》による発射ではなく、また、ラミイの変質した粉末も、ついに弦の中から洩れることがなかったのだ。ああクリヴォフ――あのカウカサス猶太人《ジュウ》は、たしかグリーン家のアダの故智を学んだのだ。しかし、最初は恐らく、背長椅子《バルダキン》に当てるくらいのところだったろう。ところが、その結果偶然にも、あの空中|曲芸《サーカス》を生んでしまったものだ」
 まさに法水の独擅場《どくせんじょう》だった。しかし、それには一点の疑義が残されていて、それをすかさず検事が衝《つ》いた。
「なるほど、君の理論には陶酔する。また、それが現実にも実証されている。しかし、とうていそれだけでは、クリヴォフに対する刑法的意義が十分ではないのだ。要するに、問題と云うのは、その二重の反射に必要な窓の位置にあるのだよ。つまり、クリヴォフか伸子か――そのどっちかの道徳的感情にある訳じゃないか」
「それでは、伸子の演奏中に、幽霊的な倍音を起させたのは……。事実支倉君、あの間に、鐘楼から尖塔へ行く、鉄梯子を上った者があったのだ。そして、中途にある、十二宮の円華窓《えんげまど》に細工して、あの楽玻璃《グラス・ハーモニカ》めいた、裂罅《ひび》を塞《ふさ》いでしまったのだよ」と法水は峻烈な表情をして、再び二人の意表に出た。ああ、黒死館事件最大の神秘と目されていた――あの倍音の謎は解けたのだろうか。法水は続けた。「しかし、その方法となると、一つの射影的な観察があるにすぎない。つまり、鐘楼の頭上には円孔が一つ空いていて、その上が巨きな円筒となり、その左右の両端が十二宮の円華窓になっている。その円筒の理論を、オルガン管《パイプ》にさえ移せばいいのだよ。何故なら、両端が開いている管《パイプ》の一端が閉じられると、そこに一音階《ワン・オクターヴ》上の音が、発せられるからなんだ。しかし、それ以前に犯人は、鐘楼の廻廊にも現われていた。そして、風精《ジルフス》の紙片を貼り付けた――三つあるうちの中央の扉《ドア》を、秘《こっ》そりと閉めたのだったよ。何故なら支倉君、君はレイリー卿が、この世には生物の棲《す》めない音響の世界がある――と云った言葉を知っているかね」
「なに、生物の棲めない音響の世界※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は眼を円くして叫んだ。
「そうなんだ。それが、実に凄愴《せいそう》をき
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