オ》の中に突っ込まれてあったのですわ。私は、それをレヴェズ様にだけお話しいたしました。ですからきっとあの方が、それを貴方がたに密告したに相違ございませんわ」
「いや、あのレヴェズという人物には、今どき珍しい騎士的精神があるのですよ」と静かに云いながら、法水は怪訝《けげん》そうに相手の顔を瞶《みつ》めていたが、「しかし、本当の事を云うんですよ。伸子さん、あの札はいったい誰が書いたのですか」
「私、存――存じません」と伸子は、救いを求めるような視線を法水の顔に向けたが、その時、彼女の発汗がますますはなはだしくなって、舌が異様にもつれ、正確に発音することさえ出来なくなってしまった。その――犯人伸子の窮境には、思わず熊城を微笑《ほほえ》ましめたものがあった。ところが、法水はさながら冷静そのもののような態度で、ややしばし、伸子の額に視線を降り注ぎ、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に脈打っている、繩のような血管を瞶《みつ》めていた。が、ふと額の汗を指で掬《すく》い取ると、彼の眉がピンと跳ね上って、
「こりゃいかん。解毒剤《げどくざい》をすぐ!」と、この状況に予想もし得ない意外な言葉を吐いた。そして、咄嗟《とっさ》の逆転に何が何やら判らず、ひたすら狼狽しきっている熊城等を追い立てて、伸子の身体を愴惶《そうこう》と運び出させてしまった。
「あの発汗を見ると、たぶんピロカルピンの中毒だろうよ」と暫時《しばらく》こまねいていた腕を解いて、法水は検事を見た。が、その顔には、まざまざと恐怖の色が泛《うか》んでいた。「とにかく、あの女が、地精《コボルト》の札《ふだ》を僕等が発見したのを、知る気遣いはないのだから、勿論自殺の目的で嚥《の》んだのではない。いや、たしかに嚥まされたんだよ。それも、けっして殺すつもりではなく、あの迷濛状態を僕等の心理に向けて、伸子に三度目の不運をもたらそうとしたに違いないのだ。ねえ支倉君、それが三段論法の前提となるのも知らずに、あるものを非論理的だと断ずることは出来まい。すると、伸子とピロカルピン――つまりその前提としてだ。まず、壁を抜き床を透かしてまで、僕等の帷幕《いばく》の内容を知り得る方法がなけりゃならん訳だ。ああ、実に恐ろしいことじゃないか。先刻《さっき》この室《へや》で交した会話が、ファウスト博士には既《とう》に筒抜けなんだぜ」
事実まったく、この事件の犯人には、仮象を実在に強制する、不可思議な力があるのかもしれない。熊城は、もはや我慢がならないように息を呑《の》んだが、
「しかし、今日の伸子には、感謝してもいいだろうと思うよ。実は、先刻《さっき》僕の部下が、伸子の室《へや》を捜っている間に、あの女は、クリヴォフの室でお茶を飲んでいたのだ。ところが、その席上に居合わせた人物というのが、動機の五芒星円《ペンタグラムマ》から、しっくりと離れられない連中ばかりなんだ。どうだ、法水君、曰《いわ》く最初が旗太郎さ。それから、レヴェズ、セレナ……。あの頭中繃帯しているクリヴォフだっても、その時は寝台の上に起き上っていたと云うんだからね」と熊城が吐いた内容には、この場合、誰しも打たれずにはいなかったであろう。何故なら、それによって、犯人の範囲が明確に限定されて、従来《これまで》の紛糾混乱が、いっせいに統一された観がしたからだった。そこへ、検事がすこぶる思いつきな提議をした。
「ところで僕は、これが唯一の機会《チャンス》だと思うのだよ。つまり、犯人がピロカルピンを手に入れた――その経路を明瞭《はっきり》させることなんだ。もし、それが津多子ならば、十分押鐘博士を通じて――ということも云えるだろう。けれども、それ以外の人物だとすると、まずその出所が、この館の薬物室以外には想像されないと思うのだがね。だから法水君、僕はホップスじゃないが、もう一度薬物室を調べてみたら、あるいは犯人の戦闘状態《ステート・オブ・ウォア》が判りゃしないかと思うんだ」
この検事の提議によって、再び薬物室の調査が開始された。しかし、そこにはピロカルピンの薬罎《くすりびん》はあっても、それにはどこぞと云って、手を付けたらしい形跡はなかった。したがって、減量は云うまでもないことだが、なにより最初から、一度も使ったことがないと見えて、全体が厚い埃を冠っていた。そして、薬品棚の奥深くに埋もれているのだった。法水はいったん失望の色を泛《うか》べたけれども、突然彼に、莨《たばこ》を捨てさせてまで叫ばせたものがあった。「そうだ支倉《はぜくら》君、あまり君の署名《サイン》が鮮かだったものだから、それに眼が眩《くら》んで、僕は些細な事までもうっかりしていたよ。あながちピロカルピンの所在は、この薬物室のみに限らんのだ。元来あの成分と云うのが、ヤポランジイの葉の中に含まれているんだからね。サア、これから温室へ行こう。もしかしたら、最近そこへ出入りした人物の名が、判るかもしれないから……」
法水が目指したところの温室と云うのは、裏庭の蔬菜園の後方にあって、その側《かたわら》には、動物小屋と鳥禽舎《ちょうきんしゃ》とが列《なら》んでいた。扉《ドア》を開くと、噎《むっ》とするような暖気が襲ってきて、それは熱に熟れた、様々な花粉の香りが――妙に官能を唆《そそ》るような、一種名状しようのない媚臭で、鼻孔を塞いでくるのだった。入口には、いかにも前史的なヤニ羊歯《しだ》が二基あって、その大きな垂葉を潜って凝固土《たたき》の上に下りると、前面には、熱帯植物特有の――たっぷり樹液でも含んでいそうな青黒い葉が、重たそうに繁り冠さり合い、その葉陰の所々に、臙脂《えんじ》や藤紫の斑が点綴《てんてつ》されていた。しかし、間もなく灯の中へ、ちょっと馬蓼《いぬたで》に似た、見なれない形の葉が現われて、それを法水はヤポランジイだと云った。ところが、調査の結果は、はたして彼の云うがごとく、その茎には六個所ほど、最近に葉をもぎ取ったらしい疵跡《きずあと》が残されていた。すると、法水は眉間を狭めて、みるみるその顔に危惧《きぐ》の色が波打ってきた。
「ねえ、支倉君、六引く一は五だろう。その五には毒殺的効果があるのだよ。しかし、いまの伸子の場合には、六枚の葉全部が必要ではなかったのだ。つまり、十分〇・〇一くらいを含んでいる一枚だけで、あの程度の発汗と発音の不正確を起すことが出来るのだからね。すると、犯人がまだ握っているはずの五枚――。その残りに、僕は犯人の戦闘状態《ステート・オブ・ウォア》を見たような気がするのだよ」
「ああ、なんという怖ろしい奴《やつ》だろう」と神経的な瞬《またた》きをして、熊城もこころもち顫《ふる》えを帯びた声で云った。
「僕は毒物というものの使途に、これまで陰険なものがあろうとは思わなかったよ。どうして、あの冷血無比なファウスト博士でなけりゃ、残忍にも、これほど酷烈な転課手段を編み出せるもんか」
検事は側《かたわら》を振り向いて、一行を案内した園芸師に訊ねた。
「最近に誰か、この温室に出入りした者があったかね」
「い、いいえ、この一月ばかりは誰方《どなた》も……」とその老人は、眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って吃《ども》ったが、検事を満足させるような回答を与えなかった。それに法水は、押しつけるような無気味な声音で追求した。
「オイ、本当の事を云うんだ。広間《サロン》にある藤花蘭《デンドロビウム・ティルシフロルム》の色合わせは、ありゃ、たしか君の芸じゃあるまいね」
この専門的な質問は、ただちに驚くべき効果をもたらした。まるで老園芸師は、あたかもそれ自身が弓の弦《つる》ででもあるかのように、法水の一打で思わず口にしてしまったものがあった。
「しかし、傭人という私の立場も、十分お察し願いたいと思いまして」と訴えるような眼で、憐憫《あわれみ》を乞うような前提を置いてから、怯《お》ず怯ず二人の名を挙げた。「最初は、あの怖ろしい出来事が起りました当日の午後でございましたが、その時旗太郎様が珍しくお見えになりました。それから、昨日《きのう》はセレナ様が……、あの方は、この乱咲蘭《カテリア・モシュ》をたいそうお好みでございまして。ですが、このヤポランジイの葉だけは、仰言《おっしゃ》られるまでいっこうに気がつきませんでした」
矮樹《わいじゅ》ヤポランジイの枝に、二つの花が咲いた。すなわち、最も嫌疑の稀薄だった、旗太郎とセレナ夫人にも、一応はファウスト博士の、黒い道士服を想像しなければならず、したがってあの血みどろの行列は、新しい二人を加えることになってしまった。こうして、事件の二日目は、まさに奇矯変態の極致とも云うべき謎の続出で、恐らくその日が、事件中紛糾混乱の絶頂と思われた。のみならず、関係人物の全部が、嫌疑者と目されるに至ったので、その集束がいつの日やら涯《はて》しもなく、ただただ犯人の、迷路的頭脳に翻弄《ほんろう》されるのみだった。
その二日後――ちょうどその日は黒死館で、年一回の公開演奏会が開催される当日であったが、検事と熊城は、法水の二日にわたる検討の結果を期待して、再び会議を開いた。それが、古めかしい地方裁判所の旧館で、時刻はすでに三時を廻っていた。しかし、その日の法水には、見るからに凄愴《せいそう》な気力が漲《みなぎ》っていた。すでに一つの、結論に達したのではないかと思われたほど、顔は微かに熱ばんで、その紅潮には動的《ダイナミック》なものが顫《ふる》えている。法水は軽く口をしめしてから、切り出した。
「ところで僕は、一々事象を挙げて、それを分類的に説明してゆくことにする。それで、最初はこの靴跡なんだが……」と卓上に載せてある二つの石膏型を取り上げた。「勿論これに、くどくどしい説明は要るまいけれど、まず最初が、小さい方の純護謨製《ピュアラバー》の園芸靴――だ。これは、元来易介の常用品で、園芸倉庫から発して、乾板の破片との間を往復している。ところが、その歩行線を見ると、形状《かたち》の大きさに比べると、非常に歩幅が狭く、しかも全体が、電光形《ジグザグ》に運ばれているのだ。また、その上足型自身にも、僕等の想像を超絶しているような、疑問が含まれている。だって考えて見給え、易介みたいな侏儒《こびと》の足に合うような靴で、その横幅が、一々異なっているじゃないか。その上、爪先の印像を中央の部分に比較すると、均衡上幾分小さいように思われるのだ。おまけに、後踵《こうしょう》部に重点があったと言えて、その部分には、特に力を加えたらしい跡が残されている……。それから、もう一つの套靴《オヴァ・シューズ》の方は、本館の右端にある出入|扉《ドア》から始まっていて、中央の張出間《アプス》を弓形に添い、やはりそれも、乾板の破片との間を往復しているのだ。しかしその方は、やや靴の形状に比較して小刻みだと云うのみで、歩線も至って整然としている。そして、疑問と云うのは、かえって靴型の方にあったのだ。つまり、爪先と踵と両端がグッと窪んでいて、しかも、内側に偏曲した内翻の形を示している。またさらに、それが中央へ行くに従い、浅くなっているのだ。勿論、乾板の破片を挾んでいるのだから、その二条の靴跡が何を目的としたか――それはすでに、明らかだと云って差支えないだろう。しかも、それが時間的にも、あの夜雨が降り止んだ、十一時半以後であることが証明されているし、また、一個所|套靴《オヴァ・シューズ》の方が園芸靴を踏んでいて、二人がその場所に辿《たど》りついた前後も、明らかにされているのだ。ところが、仮令《たとえ》これだけの疑題《クエスチョネーア》を提供されても、その結論に至って、僕等は些《いささ》かもまごつくところはないのだよ。実際家の熊城君なんぞは既《とう》に気がついているだろうが、その二つの足型を採証的に解釈してみると、大男のレヴェズが履く套靴《オヴァ・シューズ》の方には、さらにより以上|魁偉《かいい》な巨人が想像され、また、侏儒《こびと》の園芸靴を履いた主は、むしろ易介以下の、リリパ
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