Bしかし、法水は古代時計室の前まで来ると、何を思ったか、不意に立ち止った。そして、伸子の室の調査を私服に任せて、押鐘夫人津多子を呼ぶように命じた。
「冗談じゃない。津多子を鎖じ込めた文字盤に、暗号でもあるのなら別だがね。しかし、あの女の訊問なら後でもいいだろう」と熊城は、不同意らしい辛々《いらいら》した口調で云うのだった。
「いや、あの廻転琴《オルゴール》時計を見るのさ。実は、妙な憑着《ひょうちゃく》が一つあってね。それが、僕を狂気《きちがい》みたいにしているのだよ」とキッパリ云い切って、他の二人を面喰《めんくら》わせてしまった。法水の電波楽器《マルティノ》のような微妙な神経は、触れるものさえあれば、たちどころに、類推の花弁となって開いてしまうのだ。それゆえ、一見無軌道のように見えても、さて蓋《ふた》が明けられると、それが有力な連字符ともなり、あるいは、事件の前途に、全然未知の輝かしい光が投射される場合が多いのであった。
 そこへ、壁に手を支えながら、津多子夫人が現われた。彼女は大正の中期――ことにメーテルリンクの象徴悲劇などで名を謳《うた》われただけあって、四十を一、二越えていても、その情操の豊かさは、青磁色の眼隈に、肌《はだえ》を包んでいる陶器のような光に、かつて舞台におけるメリザンドの面影が髣髴《ほうふつ》となるのであった。しかも、夫押鐘博士との精神生活が、彼女に諦観《ていかん》的な深さを加えたことも勿論であろう。しかし、法水はこの典雅な婦人に対して、劈頭《へきとう》から些《いささ》かも仮借せず、峻烈な態度に出た。
「ところで、最初からこんなことを申し上げるのは、勿論|無躾至極《ぶしつけしごく》な話でしょう。しかし、この館の人達の言《ことば》を借りると、貴女《あなた》のことを人形使いと呼ばなければならないのですよ。ところが、その人形と糸ですが、事件の劈頭には、それがテレーズの人形にありました。そして、またその悪の源は、永生|輪廻《りんね》の形で繰り返されていったのです。ですから夫人《おくさん》、僕には、貴女に当時の状況をお訊ねして、相変らず鬼談的《デモーニッシュ》な運命論を伺《うかが》う必要はないのですよ」
 冒頭に津多子は、全然予期してもいなかった言葉を聴いたので、そのすんなりした青白い身体が、急に硬《こわ》ばったように思われ、ゴクンと音あらく唾《つば》を嚥《の》み込んだ。法水は続けて、その薄気味悪い追求を休めなかった。
「勿論、貴女があの夕《ゆうべ》六時頃に、御夫君の博士に電話を掛けられたという事も、また、その直後奇怪至極にも、貴女の姿がお室《へや》から消えてしまったという事も、僕には既《とう》から判っているのですからね」
「それでは、何をお訊ねになりたいのです。この古代時計室には、私が昏睡させられて鎖じ込められていたのですわ。しかも、あの夜八時二十分頃には、田郷さんが、この扉《ドア》の文字盤をお廻しになったと云うそうじゃございませんか」と顔面を微かに怒張させて、津多子はやや反抗気味に問い返した。すると、法水は鉄柵|扉《ドア》から背を放して、凝然《じっ》と相手の顔を見入りながら、まさに狂ったのではないかと思われるようなことを云い放った。
「いや、僕の懸念《けねん》というのは、けっしてこの扉《ドア》の外ではなく、かえって内部《なか》にあったのですよ。貴女《あなた》は、中央にある廻転琴《オルゴール》附きの人形時計を――。また、その童子人形の右手が、シャビエル上人《しょうにん》の遺物筐《シリケきょう》になっていて、報時の際に、鐘《チャペル》を打つことも御存じでいらっしゃいましょう。ところが、あの夜九時になって、シャビエル上人の右手が振り下されると[#「シャビエル上人の右手が振り下されると」に傍点]、同時にこの鉄扉が[#「同時にこの鉄扉が」に傍点]、人手もないのに開かれたのでしたね[#「人手もないのに開かれたのでしたね」に傍点]」

    二、光と色と音――それが闇に没し去ったとき

 ああ、シャビエル上人の手! それがこの、二重の鍵に鎖された扉《ドア》を開いたとは……。事実、法水の透視神経が微妙な放出を続けて、築き上げた高塔がこれだったのか。しかし、検事も熊城も、痺《しび》れたような顔になって容易に言葉も出なかった。と云うのは、これがはたして法水の神技であるにしても、とうていそのままを鵜呑《うの》みに出来なかったほど――むしろ狂気に近い仮説だったからである。津多子はそれを聴くと、眩暈《めまい》を感じたように倒れかかって、辛《から》くも鉄柵扉で支えられた。が、その顔は死人のように蒼白く、彼女は、絶え入らんばかりに呼吸《いき》せきつつ、眼を伏せてしまった。法水もさもしてやったりという風に、会心の笑を泛《うか》べて、
「ですから夫人《おくさん》、あの夜の貴女《あなた》は、妙に糸とか線とか云うものに運命づけられていたのですよ。しかし、その方法となると、相変らず一年一日のごとくで……。いやとにかく、僕の考えていることを実験してみますかな」
 それから、符表と文字盤を覆うている、鉄製の函《はこ》を開く鍵を、真斎から借りて、まず鉄函を開き、それから文字盤を、右に左にまた右に合わせると、扉《ドア》が開かれた。すると、扉の裏側には、背面が露出している羅針儀式《マリナース・コムパス》の機械装置が現われたが、それに法水は、表面では文字盤の周囲に当る、飾り突起に糸を捲き付け、その一端を固定させた。
「ところで、この羅針儀式《マリナース・コムパス》の特性が、貴女《あなた》の詭計《トリック》に最も重大な要素をなしているのです。と云うのは、この合わせ文字を、閉じる時の方向と逆に辿《たど》ってゆくと、三回の操作で閂《かんぬき》が開く。また、それを反対に行うと、掛金が閂孔の中に入ってしまうのですからね。つまり、開く時の基点は閉ざす時の終点であり、また、閉じる時の基点は開く時の終点に相当する訳なのです。ですから、実行はしごく単純で、要するに、その左右廻転を恰好に記録するものがあって、またそれに、文字盤の方へ逆に及ぼす力さえあれば……。そうすれば、理論上鎖された閂が開くということになりましょう。勿論内部からでは、あの鉄函の鍵は問題ではないのですよ。で、その記録筒と云うのが、何あろう、あの廻転琴《オルゴール》なのでした」
 と法水は、糸を人形時計の方へ引いて行って、観音開きを開き、その音色を弾《ひ》く廻転筒を、報時装置に続いている引っ掛けから外《はず》した。そして、その円筒に無数と植えつけられている棘《とげ》の一つに、糸の一端を結び付けて、それをピインと張らせ、さてそうしてから検事に云った。
「支倉君、君は外から文字盤を廻して、この符表どおりに扉《ドア》を閉めてくれ給え」
 すると、検事の手によって文字盤が廻転してゆくにつれて、廻転琴《オルゴール》の筒が廻りはじめた。そして、右転から左転に移る所には、その切り返しが他の棘に引っ掛って、三回の操作が、そうして見事に記録されたのである。それが終ると、法水はその筒に、旧《もと》どおり報時装置の引っ掛けを連続させた。それが、ちょうど八時に二十秒ほど前であった。機械部に連なった廻転筒は、ジイッと弾条《ぜんまい》の響を立てて、今|行《おこな》ったとは反対の方向に廻りはじめる。その時|固唾《かたず》を嚥《の》んで見守っていた一同の眼に、明らかな駭《おどろ》きの色が現われた。何故なら、その廻転につれて、文字盤が、左転右転を鮮かに繰り返してゆくではないか。そうしているうちに、ジジイッと、機械部の弾条《ぜんまい》が物懶《ものう》げな音を立てると同時に、塔上の童子人形が右手を振り上げた。そして、カアンと鐘《チャペル》に撞木《しゅもく》が当る、とその時まさしく扉《ドア》の方角で、秒刻の音に入り混《ま》ざって明瞭《はっきり》と聴き取れたものがあった。ああ、再び扉が開かれたのだった。一同はフウと溜めていた息を吐き出したが、熊城は舌なめずりをして、法水の側に歩み寄った。
「なんて、君という人物は、不思議な男だろう」
 しかし法水は、それには見向きもせずに、すでに観念の色を泛《うか》べている津多子の方を向いて、「ねえ夫人《おくさん》、つまり、この詭計《トリック》の発因と云うのが、博士にかけられた貴女の電話にあったのですよ。しかし、それを僕に濃く匂わせたのは、現に抱水クロラールを嚥《の》まされているにもかかわらず、貴女が、実に不可解な防温手段を施されていたということなんです。あの、まるで木乃伊《ミイラ》のように、毛布をクルクル捲き付けられていなければ、恐らく貴女は、数時間のうちに凍死していたでしょう。痳酔剤[#「痳酔剤」はママ]を嚥《の》ませた、しかし、殺害の意志がない――。そういう解しきれない矛盾が、僕の懸念を濃厚にしたのでした。ところで夫人《おくさん》、あの夜|貴女《あなた》がこの扉《ドア》を開かれて、さてそれからどこへ行かれたものか、当ててみましょうか。いったい、薬物室の酸化鉛の瓶《びん》の中には、何があったのでしょう。あの褪《あ》せやすい薬物の色を、依然鮮かに保たせていたのは……」
「ですけど」津多子はすっかり落着いていて、静かな重味のある声音《こわね》でいった。「あの薬物室の扉《ドア》が、私がまいりましたときには、すでに開かれておりました。それに、抱水クロラールにも、その以前に手を付けたらしい形跡が残っていたのですわ。もう申し上げる必要はございませんでしょうが、あの酸化鉛の罎《びん》の中には、容器に蔵《おさ》めた二グラムのラジウムが隠されてあったのです。それを私は、かねて伯父から聴いておりましたので、押鐘の病院経営を救うために、ある重大な決意をいたさねばなりませんでした。そして、一月ほど前から、この館を離れずに――。ああ、その間、私にはあらゆる意味での、視線が注がれました。しかし、それさえもじっと耐《こら》えて、私は絶えず、実行の機会を狙っていたのでございます。ですから、私がこの室《へや》で試みましたいっさいのものは、無論愚かな防衛策なのでございます。もしも、ラジウムの紛失が気づかれた際に、その場合仮空の犯人を、一人作るつもりだったのでした。どうか法水さん、あの、あのラジウムをお取り戻しなすって――先刻押鐘が持ち帰りましたのですから。けれども、この点だけは断言いたしますわ。いかにも、私は盗んだに相違ないのですが、しかし、私の犯行と同時に起った殺人事件には、絶対関係がございませんのですから」
 津多子夫人の告白を聴いて、法水はしばらく黙考していたが、ただもうしばらく、この館に止まるよう命じたのみで、そのまま彼女を戻してしまった。それに、熊城が不服らしい素振を見せると、法水は静かに云った。
「なるほど、あの津多子という女は、時間的にすこぶる不幸な暗合を持っている。けれども、ダンネベルグ事件以外には、あの女の顔がどこにも現われてはいないのだよ。しかし熊城君、実を云うと、あの電話一つに、もっともっと深い疑義があるのではないかと思うよ。とにかく、久我鎮子の身分と押鐘博士を、至急洗い上げるように命じてくれ給え」
 そこへ、法水の予測が的中したという報知《しらせ》が、私服からもたらされて、はたせるかな地精《コボルト》の札《ふだ》が、伸子の室《へや》にある格子底机《ボールド・ルーベ》の抽斗《ひきだし》から発見されたのだった。そこで法水等は、伸子を引き立ててきたという、旧《もと》の室に戻ることになった。扉《ドア》を開くと、嗚咽《おえつ》の声が聞える。伸子は、両手で覆うた顔を卓上に伏せて、しきりと肩を顫《ふる》わせていた。熊城は、毒々しい口調を、彼女の背後から吐きかけるのだった。
「君の名が点鬼簿《てんきぼ》から消されていたのも、わずか四時間だけの間さ。だが、今度は虹も出ないし、君も踊るわけにはゆかんだろう」
「いいえ」と伸子は、キッと顔を振り向けたが、満面には滴らんばかりの膏汗《あぶらあせ》だった。「あの札はいつの間にか、抽斗《ひきだ
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