。倒しになるので、把手《ハンドル》が釘で押され、箭《や》はそのまま開いたとおりの角度で発射されたのでしたよ。そして、発射の反動で、弩は床の上に落ちたのですが、収縮した弦《つる》は、蒸発しきると同時に旧《もと》どおりになったことは云うまでもありますまい。しかしレヴェズさん、元来その詭計《トリック》の目的と云うのは、必ずしも、クリヴォフ夫人の生命を奪うのにはなかったのです。ただ単に、貴方《あなた》の不在証明《アリバイ》をいっそう強固にすればいいのでしたからね」
[#火術弩の仕掛けの図(fig1317_44.png)入る]
 その間レヴェズは、タラタラと膏汗《あぶらあせ》を流し、野獣のような血走った眼をして、法水の長広舌《ちょうこうぜつ》に乗ずる隙もあらばと狙っていたが、ついにその整然たる理論に圧せられてしまった。しかし、そうした絶望が彼を駆り立てて、レヴェズは立ち上ると胸を拳《こぶし》で叩き、凄惨な形相をして、哮《たけ》りはじめた。
「法水さん。この事件の悪霊《ベーゼルガイスト》と云うのは、とりもなおさず貴方《あんた》のことだ。しかし、一言断っておくが、貴方は舌を動かす前に、まず『マリエンバートの哀歌』でも読まれることだな。いいかな、ここに、久遠《くおん》の女性を求めようとする一人があったとしよう。しかし、その精神の諦観《ていかん》的な美しさには、野心も反抗も憤怒も血気も、いっさいが、堰《せき》を切ったように押し流されてしまうのだ。ところが貴方は、それに慚愧《ざんき》と処罰としか描こうとしない。いや、そればかりではないのです。貴方の率いている狩猟の一隊が、今日いまここで、野卑な酷薄な本性を現わしたのだ。しかし射手は確か、獲物は動けず……」
「なるほど、狩猟ですか……。だがレヴェズさん、貴方はこういうミニヨンを御存じでしょうか。――かの山と雲の棧道《かけじ》、騾馬《らば》は霧の中に道を求め、窟《いわあな》には年経し竜の族《たぐい》棲む……」と法水が意地悪げな片笑《かたえみ》を泛《うか》べたとき、入口の扉《ドア》に、夜風かとも思われる微《かす》かな衣摺《きぬず》れがさざめいた。そして、しだいに廊下の彼方へ、薄れ消えてゆく唱《うた》声があった。

[#ここから2字下げ]
狩猟《かり》の一隊《ひとむれ》が野営を始めるとき
雲は下り、霧は谷を埋めて
夜と夕闇と一ときに至る
[#ここで字下げ終わり]

 それは、擬《まご》うかたないセレナ夫人の声であった。しかし、耳に入ると、レヴェズは喪心したように、長椅子へ倒れかかったが、彼はかろうじて踏み止まった。そして頭をグイと反らして、激しい呼吸をしながら、
「貴方《あんた》は、何かの機会《チャンス》に、一人の犠牲を条件に、彼女を了解させたのですか。もう儂《わし》には、この上釈明する気力もないのです。いっそ、護衛をやめてもらおう。|儂の血でこの裁きをしたら、いつか、その舌の根から聴くことがあるでしょうから《マイ・ブラッド・ジャッジ・ファベイド・マイ・タング・トゥ・スピーク》」と異常な決意を泛《うか》べて、あろうことか、護衛を断るのだった。そして、いっさいの武装を解いた裸身を、ファウスト博士の前に曝《さら》させることを要求した。それに、法水はまた皮肉にも、応諾の旨を回答して、室《へや》を出た。いつも、彼等がそこで策を練り、また訊問室に当てているダンネベルグの室では、検事と熊城がすでに夜食を終っていた。その卓上には、裏庭の靴跡を造型した二つの石膏型と、一足の套靴《オーバシューズ》が、置かれてあった。そして、それがレヴェズの所有品で、ようやく裏階段下の、押入れから発見されたことが述べられた。がその頃には、押鐘博士は帰邸していて、食事が済むと、今度は代り合って、法水が口を開いた。そして、レヴェズとの対決|顛末《てんまつ》を、赤いバルベラ酒の盃を重ねながら、語り終えると、
「なるほど、しかし……」といったんは頷《うなず》いたが、熊城は強い非難の色を泛《うか》べていった。「君の粋物主義《ディレッタンティズム》にも呆《あき》れたものさ。いったいレヴェズの処置に躊《ため》らっているのは、どうしたということなんだい。考えても見給え。従来《これまで》動機と犯罪現象とが、何人《なんびと》にも喰い違っていて、その二つを兼ねて証明された人物と云えば、かつて一人もなかったのだ。とにかく。序曲が済んだのなら、さっそく幕を上げることにしてもらおう。なるほど、君が好んで使う唱合戦も、ある意味では陶酔かもしれないがね。しかし、その前提に結論が必要なことだけは、忘れないでくれ給え」
「冗談じゃない。どうしてレヴェズが犯人なもんか」と法水は道化た身振をして、爆笑を上げた。ああ、世紀児法水――彼はあの告白悲劇に、滑稽《こっけい》な動機変転を用意していたのであろうか。検事も熊城も、とたんに嘲弄されたことは覚ったが、あれほど整然たる条理を思うと、彼の言《ことば》をそのまま信ずることは出来なかった。続いて法水は、その詭弁主義《マキァヴェリズム》の本性を曝露すると同時に、今後レヴェズに課した、不思議な役割を明らかにした。
「いかにも、レヴェズとダンネベルグ夫人との関係は、真実に違いないのだ。しかし、あの火術弩《かじゅつど》の弦《つる》が※[#「亠/中/冖/石/木」、第3水準1−86−13]※[#「くさかんむり/夷」、第3水準1−90−83]木《ビクスクラエ》なら、僕は前史植物学で、今世紀最大の発見をしたことになるのだよ。ねえ熊城君、一七五三年にベーリング島の附近で、海牛の最後の種類が屠殺《とさつ》されたんだ。だがあの寒帯植物は、すでにそれ以前に死滅しているんだぜ。やはり、あの弩の弦は、いっこう変哲もない大麻で作られたものなんだ。ハハハハ、あの象のような鈍重な柱体《シリンダー》を、僕は錐体《コーン》にしてやったんだよ。つまり、レヴェズを新しい坐標にして、この難事件に最後の展開を試みようとするんだ」
「ああ、気が狂ったのか。君はレヴェズを生餌《いきえ》にして、ファウスト博士を引き出そうとするのか」とさしも沈着な検事も仰天して、飛び掛らんばかりの気配を見せると、法水はちょっと残忍そうな微笑をして答えた。
「なるほど、道徳世界の守護神――支倉君! だが実を云うと、僕がレヴェズについて最も懼《おそ》れているのは、けっしてファウスト博士の爪ではないのだ。実は、あの男の自殺の心理なんだよ。レヴェズは最後に、こういう文句を云ったのだよ。|儂の血でこの裁きをしたら、いつかその舌の根から聴くことがあるでしょうから《マイ・ブラッド・ジャッジ・ファベイド・マイ・タング・トゥ・スピーク》――とね。それが、いかにもレヴェズが演ずる、悲壮な時代史劇《コスチューム・プレイ》のようで、またあの性格俳優の見せ場らしい、大芝居みたいにも思われるだろう。しかし、それは悲愁《トラウリッヒ》ではあるけれども、けっして悲壮《トラギッシュ》ではないのだ。つまりその一句と云うのが、『|ルクレチア盗み《レイプ・オヴ・ルクリース》』という沙翁《シェークスピア》の劇詩の中にあって、羅馬《ローマ》の佳人《かじん》ルクレチアがタルキニウスのために辱《はずか》しめをうけ、自殺を決意する場面に現われているからなんだ」と法水はこころもち臆したような顔色になったが、その口の下から、眉を上げ毅然《きぜん》と云い放ったものがあった。
「けれども支倉君、あの対決の中には、犯人にとってとうてい避け難い危機が含まれているんだ。事実僕が引っ組んだのは、レヴェズじゃないのだ。やはりファウスト博士だったのだよ。実を云うと、僕はまだ事件に現われて来ない、五芒星呪文の最後の一つ――地精《コボルト》の札の所在《ありか》を知っているのだがね」
「なに、地精《コボルト》の紙片※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事も熊城も、仰天せんばかりに驚いてしまった。しかし、法水の眉宇間には、賭博《とばく》とするには、あまりに断定的なものが現われていた。彼の凄愴《せいそう》な神経作用《ナーヴァシズム》が、いかなる詭計によって、あの幽鬼の牙城に酷迫したのであろうか。そのにわかに緊張した空気の中で、法水は冷たくなった紅茶を啜《すす》り終ると語りはじめたが、それは、驚くべき心理分析だったのだ。
「ところで、僕はゴールトンの仮説《セオリー》を剽竊《ひょうせつ》して、それで、レヴェズの心像を分析してみたのだ。と云うのは、あの心理学者の名著――『|人間能力の考察《インクワイアリー・イントゥ・ヒューマン・ファカルティ》』の中に現われていることだが、想像力の優れた人物になると、語《ことば》や数字に共感現象が起って、それに関聯した図式を、具体的な明瞭な形で頭の中へ泛《うか》べる場合があるのだ。例えば数字を云う場合に、時計の盤面が現われることなど一例だが……いまレヴェズの談話の中に、それにもました、強烈な表現が現われたのだ。支倉君、あの男は伸子に愛を求めた結果について、こういうことを悲しげにいったのだよ。――天空の虹は抛物線《パラボリック》、露滴の虹は双曲線《ハイパーボリック》、しかしそれが楕円形《イリプティック》でない限り、伸子は自分の懐《ふところ》に飛び込んでは来ない――と。ところが、その間レヴェズの眼に、微かな運動が起って、彼が幾何学的な用語を口にするたびごと、なんとなく宙に図式を描いているような、動きが認められるのだった。そこで僕は、その黙劇めいた心理表出に、一つの息詰まるような徴候を発見したのだよ。何故なら拠物線《パラボリック》※[#「))」の上下を付けた形(fig1317_45.png)」、364−17]と双曲線《ハイパーボリック》※[#「《」の上下を付けた形(fig1317_46.png)」、364−17]を楕円形《イリプティック》※[#縦長の二重丸(fig1317_47.png)」、364−17]に続けると、その合したものが、KO になるだろうからね。つまり、地精(Kobold《コボルト》)の頭二字――K と O となんだよ。だから、僕はすかさず、それに暗示的な衝動を与えようとして、Kobold のKOを除いた残りの四字――bold《ボルト》 に似た発音を引き出そうとしたのだ。するとレヴェズは、三叉箭《さんしゃや》のことを Bohr《ボール》 と云った。またそれに続いて、レヴェズが僕を揶揄《やゆ》するのに、あの箭《や》が裏の蔬菜園から放たれたのだと云って、その中に蕪菁《リューベ》(〔Ru:be〕)と一|語《こと》を、しきりと躍動させるのだったよ。そこで支倉君、偶然にも僕は、レヴェズの意識面を浮動している、異様な怪物を発見したのだ。ああ、僕はステーリングじゃないがね。心像は一つの群《グループ》であり、またそれには自由可動性《フリモビリティ》あり――と云ったのは至言だと思うよ。何故なら、そのレヴェズの一語には、あの男の心深くに秘められていた一つの観念が、実に鮮かな分裂をして現われたからなんだ。いいかね支倉君、最初 KO と数型式《ナムバァ・フォムス》を泛《うか》べてから、レヴェズは三叉箭のことを Bohr《ボール》 と云い、心中|地精《コボルト》を意識しているのを明らかにした。また、それか、蕪菁《リューベ》という語《ことば》を使ったのだが、それには重大な意義が潜んでいた。と云うのは、地精《コボルト》に誘導されて、必ず聯想しなければならない、一つの秘密がレヴェズの脳裡にあったからだ。で、試しに一つ、三叉箭《ボール》と蕪菁《リューベ》とを合わせて見給え。すると、格子底机《ボールド・ルーベ》――。ああ、僕の頭は狂っているのだろうか。実は、その机と云うのが、伸子の室《へや》にあるのだがね」
 地精《コボルト》の札《ふだ》――今や事件の終局が、その一点にかけられている。もし、法水の推断が真実であるならば、あの溌溂《はつらつ》たる娘は、ファウスト博士に擬せられなければならない。それから、伸子の室に行くまでの廊下が、三人にとると、どんなに長いことだったろうか
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