ゥら容易に開くことが出来るのですから」
「なるほど、そうしてみると」と法水は唾《つば》を嚥《の》んで、ちょっと気色ばんだような訊き方をした。「その事実を知っているのは、いったい誰と誰ですか。つまり、算哲の心臓の位置と、その早期埋葬防止装置の所在を知っているのは?」
「それなら確実に、私と押鐘先生だけだと申し上げることが出来ますわ。ですから、伸子さんが仰言《おっしゃ》った――ハートの王様《キング》云々《うんぬん》のことは、きっと偶然の暗合にすぎまいと思われるのです」
そう云い終ると、にわかに鎮子は、まるで算哲の報復を懼《おそ》れるような恐怖の色を泛《うか》べた。そして、来た時とはまた、うって変った態度で、熊城に身辺の警護を要求してから、室《へや》を出て行った。大雨の夜――それは、墓※[#「穴かんむり/石」、320−2]から彷徨《さまよ》い出たあらゆる痕跡を消してしまうであろう。そして、もし算哲が生存しているならば、事件を迷濛《めいもう》とさせている、不可思議転倒の全部を、そのまま現実実証の世界に移すことが出来るのだ。熊城は昂奮したように、粗暴な叫び声を立てた。
「何でも、やれることは全部やって見るんだ。サア法水君、令状があろうとなかろうと、今度は算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、320−6]を発掘するんだ」
「いや、まだまだ、捜査の正統性《オーソドキシイ》を疑うには、早いと思うね」と法水はどうしたものか、浮かぬ顔をして云い淀《よど》んだ。
「だって、考えて見給え。いま鎮子は、それを知っているのが、自分と押鐘博士だけだと云ったっけね。そうすると、知らないはずのレヴェズが、どうして算哲以外の人物に虹を向けて、しかも、あんな素晴らしい効果を挙げたのだろう」
「虹※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事は忌々《いまいま》しそうに呟《つぶや》いた。「ねえ法水君、算哲の心臓異変を発見した君を、僕はアダムスともルヴェリエとも思っているくらいだよ。ねえ、そうじゃないか。この事件では、算哲が海王星なんだぜ。第一あの星は、天空に種々不合理なものを撒《ま》きちらして、そうした後に発見されたのだからね」
「冗談じゃない。どうしてあの虹が、そんな蓋然性に乏しいものなもんか。偶然か……それとも、レヴェズの美《うる》わしい夢想《イマージュ》だ。言《ことば》を換えて云えば、あの男の気高い古典語学精神なんだよ」と相変らず法水は、奇矯に絶した言《ことば》を弄するのだった。「ところで支倉君、驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の踏み石の上には、レヴェズの足跡が残っていたっけね。それをまず、韻文として解釈する必要があるのだよ。最初は四つの踏み石の中で、本館に沿うた一つを踏んでいる。それから、次にその向う側の一つを、そして、最後が左右となって終っている。けれども、その循環にある最奥の意義と云うのは、僕等が看過していた五回目の一踏みにあったのだ。それが、最初踏んだ本館に沿うている第一の石で、つまりレヴェズは、一巡してから旧《もと》の基点に戻ったので、最初踏んだ石を二度踏んだことになるのだよ」
「しかし、結局それが、どういう現象を起したのだね?」
「つまり、僕等には伸子の不在証明《アリバイ》を認めさせた、また、現象的に云うと、それが、上空へ上った飛沫《しぶき》に対流を起させたのだよ。何故なら、1から4までの順序を考えると、一番最後に上った飛沫の右側が最も高く、続いてそれ以下の順序どおりに、ほぼ疑問符の形をなして低くなってゆくだろう。そこへ、五回目の飛沫が上ったのだから、その気動に煽《あお》られて、それまで落ちかかっていた四つの飛沫が、再びその形のままで上昇してゆくだろう。すると、当然最後の飛沫との間に対流の関係が起らねばならない。それが、あの微動もしない空気の中で、五回目の飛沫をふわふわ動かしていったのだ。つまり、その1から4までのものと云うのは、最後に上った濛気《もうき》をある一点に送り込む――詳しく云えば、それに一つの方向を決定するために必要だったのだよ」
「なるほど、それが虹を発生させた濛気か」検事は爪を噛みながら頷《うなず》いた。「いかにもその一事で、伸子の不在証明《アリバイ》が裏書されるだろう。あの女は、異様な気体が窓の中へ入り込んでゆくのを見た――と云ったからね」
「ところが支倉君、その場所というのは、窓が開いている部分ではないのだよ。あの当時|棧《さん》を水平にしたままで、鎧扉《よろいど》が半開きになっていたのを知ってるだろう。つまり、噴泉の濛気は、その棧の隙間から入り込んでいったのだ」と法水は几帳面《きちょうめん》に云い直したが、続いて彼は、その虹に禍いされた唯一の人物を指摘した。「それでないと、ああいう強彩な色彩の虹が、けっして現われっこないのだからね。何故なら、空気中の濛気を中心に生じたのではなく、棧の上に溜った露滴が因で発したからなんだ。つまり、問題は、七色の背景をなすものにあった訳だが、……しかし、より以上の条件というのが、その虹を見る角度にあったのだ。言葉を換えて云えば、火術弩《かじゅつど》が落ちていた――つまり、当時犯人がいた位置のことなんだよ。しかも、あの隻眼《せきがん》の大女優が……」
「なに、押鐘津多子※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城は度を失って叫んだ。
「うん、虹の両脚の所には、黄金《こがね》の壺があると云うがね。恐らく、あの虹だけは捉えることが出来るだろう。何故なら熊城君、だいたい虹には、視半径約四十二度の所で、まず赤色が現われる。勿論その位置というのが、ちょうど火術弩の落ちていた場所に相当するのだ。また、その赤色をクリヴォフ夫人の赤毛に対称するとなると、いかにも標準《ねらい》を狂わせるような、強烈な眩耀《ハレーション》が想像されてくる。けれども、近距離で見る虹は二つに割れていて、しかも、その色は白ちゃけて弱々しい」と法水はいったん口を閉じたが、みるみる得意気な薄笑《うすわらい》が泛《うか》んできて云った。「ところが熊城君、押鐘津多子だけには、けっしてそうではないのだよ。何故かと云うのに、片眼で見る虹は一つしかないからだ。それに、明暗の度が強いために色彩が鮮烈で側にある同色のものとの判別が、全然つかなくなってしまうのだよ。ああ、あの|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》――それは、まずレヴェズの恋文となって、窓から飛び込んできた。そして、それが偶然クリヴォフ夫人の赤毛の頸《くび》を包んで、さてそれによって標的を射損ずるような欠陥のあるものと云えば、津多子をさておいて、他にはないのだよ」
「なるほど。しかし、君はいま、虹のことをレヴェズの恋文と云ったね?」検事が聴き咎《とが》めて、自分の耳を疑うような面持で訊ねたが、それに法水は慨嘆するような態度で、彼特有の心理分析を述べた。
「ああ、支倉君、君はこの事件の暗い一面しか知らないのだ。何故なら君は、あの赤毛のクリヴォフが宙吊りになる直前に、伸子が窓際に現われたのを忘れてしまったからだよ。だから、レヴェズはそれを見て伸子が武具室にいると思い、それから噴泉の側で、あの男の理想の薔薇を詠《うた》ったのだよ。ところで君は、『ソロモンの雅歌』の最終の章句を知っているかね。吾《わ》が愛するものよ、請う急ぎ走れ。香ばしき山々の上にかかりて、鹿のごとく、小鹿のごとくあれ――と。あの神に対する憧憬《しょうけい》を切々たる恋情中に含めている――まさに世界最大の恋愛文章だが、それには、愛する者の心を、虹になぞらえて詠っているのだ。あの七色――それはボードレールによれば、熱帯的な狂熱的な美しさとなり、またチャイルドが詠うと、それから、旧教主義《カトリシズム》の荘重な魂の熱望が生れてくるのだ。また、その抛物線を近世の心理分析学者どもは、滑斜橇《トボガン》で斜面を滑走してゆく時の心理に擬している。そして、虹を恋愛心理の表象にしているのだよ。ねえ支倉君、あの七色は、精妙な色彩画家のパレットじゃないか。また、ピアノの鍵《キイ》の一つ一つにも相当するのだ。そして、虹の抛物線は、その色彩法《コロリー》でもあり、旋律法、対位法でもあるのだ。何故なら、動いてゆく虹は、視半径二度ずつの差で、その視野に入ってくる色を変えてゆくからだよ。つまり、レヴェズは、韻文の恋文を、虹に擬《なぞら》えて伸子に送ったのだ」
それによると、最初のうち法水は、レヴェズが虹を作ったことを、他の何者かを庇《かば》おうとする騎士的行為と見做《みな》していたらしかったが、さらに深く剔抉《てっけつ》していって、ついにそれが恋愛心理に帰納されてしまうと、必然犯人がクリヴォフ夫人を射損じたことを、偶然の出来事に帰してしまうより他にないのだった。しかし、検事と熊城には、そのいずれもが実証的なものでないだけに、半信半疑と云うよりも、何故法水が虹などという夢想的なものにこだわっていて、肝腎《かんじん》の算哲の墓※[#「穴かんむり/石」、324−8]《ぼこう》発掘を行わないのだろう――と、それが何より焦《もどか》しく思われるのだった。ことに、レヴェズの恋愛心理が、後段に至ってこの事件最後の悲劇を惹起《じゃっき》しようなどとは、てんで思いも及ばなかったことだろうし、また、法水が押鐘津多子を犯人に擬したことにも、それ以外にある重大な暗示的観念が潜んでいようなどとは、勿論気づく由もなかったのである。こうして、いったん絶望視された事件は、短時間の訊問中に再び新たな起伏を繰り返していったが、続いて、現象的に希望の全部がかけられている、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》――を調査することになった――それが五時三十分。
二、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》に……
法水が十二宮《ゾーディアック》から引き出した解答――|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》には、その場所と符合するものに、二つの小室《こしつ》があった。一つは、テレーズ人形の置いてある室《へや》で、もう一つは、それに隣り合っていて、内部《なか》は調度一つない空部屋になっていた。法水はまず後者を択んで把手《ノッブ》に手を掛けたが、それには鍵も下りていず、スウッと音もなく開かれた。構造上窓が一つもないので、内部《なか》は漆黒《しっこく》の闇である。そして、煤《すす》けた冷やかな空気が触れてくる。ところが、先に立った熊城が、懐中電燈をかざしながら壁際を歩いているうちに、ふと何を聴いたものか、背後の検事が突然立ち止った。彼は、なにかしら慄然《りつぜん》としたように息を詰め、聴耳《ききみみ》を立てはじめたのであるが、やがて法水に、幽かな顫《ふる》えを帯びた声で囁《ささや》いた。
「法水君、君はあれが聴えないかね。隣りの室《へや》から、鈴を振るような音が聴えてくるんだ。凝然《じっ》と耳をすましてい給え。そら、どうだ。ああたしか、あれはテレーズの人形が歩いているんだ……」
なるほど、検事の云うとおり、熊城が踏む重い靴音に交って、リリンリリンと幽かに顫えるような音が伝わってくる。無生物である人形の歩み――まさに、魂の底までも凍《い》てつけるような驚愕《おどろき》だった。しかし、当然そうなると、人形の側《かたわら》にある何者かを想像しなくてはならない。そこで三人は、かつて覚えたことのない昂奮の絶頂にせり上げられてしまった。もはや躊躇《ちゅうちょ》する時機ではない――熊城が狂暴な風を起して、把手《ノッブ》を引きちぎらんばかりに引いた時、その時なんと思ってか、法水が突如けたたましい爆笑を上げた。
「ハハハハ支倉君、実は君の云う海王星が、この壁の中にあるのだよ。だって、あの星は最初から既知数ではなかったのだからね。憶い出し給え、古代時計室にあった人形時計の扉《ドア》に、いったい何という細刻が記されていたか。四百年の昔に、千々石《ちぢわ》清左衛門がフィリップ二世から拝領したという梯状琴《クラヴィ・チェンバロ》は、その後所在を誰一人知る者がなかったのだよ。たぶんあの音は、截《た》たれた絃《いと》が、震動で顫《
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