S身が崩れはじめたように戦《おのの》きだした。そしてしばらく切れぎれに音高い呼吸を立てていたが、「ああ怖ろしい方……」とからくも幽かな叫び声をたてた。が、続いてこの不思議な老婦人は、たまりかねたように犯人の範囲を明示したのであった。「もう、この事件は終ったも同様です。つまり、その負数の円のことですわ。動機をしっくりと包んでいるその五芒星円《ペンタグラムマ》には、いかなるメフィストといえども潜り込む空隙《すき》はございません。ですから、いま申し上げた荒野《あれの》の意味がお判りになれば、これ以上何も申し上げることはないのでございます」と不意《いきなり》立ち上がろうとするのを、法水は慌てて押し止めて、
「ところが久我さん、その荒野と云うのは、なるほど独逸神学《テオロギヤ・ゲルマニカ》の光だったでしょう。ですが、その運命論《フェータリズム》は、かつてタウラーやゾイゼが陥ち込んだ偽《にせ》の光なのです。僕は、貴女が云われた精神萌芽説《プシアーデ》の中に、一つの驚くべき臨床的な描写があるのを、まるで、聴いてさえ狂い出しそうな、異様なものを発見したのでした。貴女は何故、算哲博士の心臓のことを考えていられるのですか[#「算哲博士の心臓のことを考えていられるのですか」に傍点]、あの大魔霊《デモーネン・ガイスト》を……ハートの王様《キング》とは。ハハハハ久我さん、僕はラファテールじゃありませんがね。人間の内観を、外貌によって知る術《すべ》を心得ているのですよ」
算哲の心臓――それには、鎮子ばかりでなく検事も熊城も、瞬間化石したように硬くなってしまった。それは明らかに、心の支柱を根柢から揺り動かしはじめた、恐らくこの事件最大の戦慄《せんりつ》であったろう。しかし鎮子は、作り付けたような嘲りの色を泛《うか》べて云った。
「そうすると、貴方はあの瑞西《スイス》の牧師と同様に、人間と動物の顔を比較しようとなさるのですか」
法水は徐《おもむ》ろに莨《たばこ》に点火してから、彼の微妙な神経を明らかにした。すると、それまでは百花千弁の形で分散していた不合理の数々が、みるみる間にその一点へ吸い着けられてしまったのである。
「あるいはそれが、過敏神経の所産にすぎないかもしれませんが、しかしともあれ貴女は、算哲博士のことをハートの王様《キング》と云われましたね。無論それからは、異様に触れてくる空気を感じたのです。何故かと云うと、ちょうどそれと寸分|違《たが》わぬ言葉を、僕は伸子さんの口からも聴いたからでした。恐らく、その暗合には、この事件最後の切札とする価値があるでしょう。これまで僕等が辿《たど》っていった、推理測定の正統を、根柢から覆《くつがえ》してしまうほどの怪物かもしれないのですよ。ことに、貴女の場合は、それに黙劇《パントマイム》じみた心理作用が伴ったので、それに力を得て、なおいっそう深く、貴女の心像を抉《えぐ》り抜くことが出来たのでした。ところで、維納《ウインナ》新心理派に云わせると、それを徴候発作《ジムプトム・ハンドルンゲン》と云うのですが、目的のない無意識運動を続けている間は、最も意識下のものが現われ易い――言《ことば》を換えて云えば、人に知らせたくない、自分の心の奥底に蔵《しま》っておきたいものが、何かの形で外面の表出の中に現われるか、それとも、そこに何か暗示的な衝動を与えられると、それに伴った聯想的な反応が、往々言語の中にも現われることがあると云うのです。その暗示的衝動と云うのはほかでもない、算哲のことを、僕がスペードの王様《キング》と云ったことなんですよ。しかし、それ以前に、ディグスビイも――と云った僕の一言が、端なくディグスビイの本体を知らない貴女《あなた》の心を捉えてしまったのです。そして、無意識の裡《うち》に、指環を抜いてみたり嵌《は》めてみたり、またクルクル廻したりするような、徴候発作が貴女に現われていきました。そこで僕は、妙に心を唆《そそ》るような間《パウゼ》を置いたのです。その間《パウゼ》です――それはただに演劇ばかりでなく、ことに訊問において必要なのですよ。ねえ久我さん、犯人は台本作家ではある代りに、けっして一行のト書だって指定しやしません。その意味で、捜査官というものは、何よりよき演出者であらねばならないのです。いや、冗弁は御勘弁下さい。何より御詫びしておきたいのは、僕は貴女の御許しを俟《ま》たずに、心像奥深くを探って闖入《ちんにゅう》していったのですから……」
そこで、法水は、新しい莨《たばこ》を取り出して、その誇るべき演出の描写を繰り拡げていった。
「しかし、その間《パウゼ》は混沌たるものです。けれども、その中には様々な心理現象が十字に群がっていて、まるで入道雲のように、ムクムク意識面を浮動しているのです。その状態は、そこに何か衝動さえ与えられれば、恐らくひとたまりもないほど脆弱《もろ》いものだったに違いありません。そこで僕は、スペードの王様《キング》という言《ことば》を出したのです。何故なら、精神全体を一つの有機体だとすれば、当然そこから、物理的に生起して来るものがなければならぬからです。その非常に暗示的な一言によって、僕は何かしらの反応を期待しました。すると、はたして貴女《あなた》は、僕の言葉をハートの王様《キング》と云い直しました。まさにそのハートの王様《キング》です。僕はその時、狂乱に等しい異常な啓示をうけたのでしたよ。しかし、続いて貴女には、二度目の衝動が現われて、突然度を失い、思わず指環を小指に嵌《は》め込んでしまったのです。どうして僕が、その時の、恐怖の色を見|遁《のが》しましょうか」と鋭く中途で言葉を裁ち切りながら、法水の顔が慄然《りつぜん》たるものに包まれていった。
「いや、僕の方こそ、もっともっと重苦しい恐怖を覚えたのですよ。何故なら、骨牌《カルタ》札を見ると、その人物像はどれもこれも、上下の胴体が左削ぎの斜めに合わされていて、それぞれに肝腎な心臓の部分が、相手の美々しい袖無外套《クローク》の蔭に隠れているからです。そして、その――画像から失われた心臓が、右側の上端に、絵印となって置かれているではありませんか。そうなると、あるいは僕の思い過ぎかもしれませんが、その中で輝いている凄惨な光をどうして看過《みの》がす訳にゆきましょうか、ああ、心臓は右に[#「心臓は右に」に傍点]。ですから、もし、ハートの王様《キング》という一言を、貴女の心臓が語るとおりに解釈して、算哲博士を右側に心臓を持った特異体質者だとすればです。あるいはそれが、支離散滅をきわめている不合理性の全部を、この機会に一掃してしまう曙光《しょっこう》ともなり得ましょう」
この驚くべき推定は、かつての押鐘津多子を発掘したことに続いて、実に事件中二回目の大芝居だった。その超人的論理に魅了されて、検事も熊城も、痺《しび》れたような顔になり、容易に言葉さえ出ないのだった。勿論そこには、一つの懸念《けねん》があった。けれども、続いて法水は例証を挙げて、それに薄気味悪い生気を吹き込むのだった。
「ところで、それがもし事実だとしたら、僕等はとうてい平静ではいられなくなってくるのです。何故なら、あの当時算哲博士は、左胸の左心室――それもほとんど端れに当る部分を刺し貫いていたのですが、あまりに自殺の状況が顕著だったために、その屍体に剖見を要求するまでには至らなかったのでした。そうなると第一の疑問は、左肺の下葉部を貫いたところで、それがはたして、即死に価するものかどうか――という事です。その証拠には、外科手術の比較的幼稚だった南亜戦争当時でさえも、後送距離の短い場合は、そのほとんど全部が快癒しているのですからね。そうそう、その南亜戦争でしたが……」と法水は莨《たばこ》の端をグイと噛み締めて、声音《こわね》を沈めむしろ怖れに近い色を泛《うか》べた。「ところで、メーキンスが編纂した、『南亜戦争軍陣医学集録』という報告集があるのですが、その中に、ほとんど算哲の場合を髣髴《ほうふつ》とする奇蹟が挙げられているのですよ。それは、格闘中右胸上部に洋剣《サーベル》を刺されたままになっていた竜騎兵伍長が、それから六十時間後に、棺中に蘇生したと云うのです。しかし、編者である名外科医のメーキンスは、それに次のような見解を与えました。――死因は、たぶん上大静脈を洋剣《サーベル》の背で圧迫したために、脈管が一時|狭窄《きょうさく》されて、それが心臓への注血を激減させたに相違ない。しかし、その鬱血腫脹している脈管は、屍体の位置が異なったりするたびに、血胸血液が流動するので、それがため、一種物理的な影響をうけたのであろう。つまり、その作用と云うのは、往々に屍体の心臓を蘇生させることのある、ある種の摩擦《マッサージ》に類したものだったと思われる。何故なら、元来心臓と云うものは理学的臓器であり、また、ブラウンセカール教授の言のごとく、恐らく絶命している間でも、聴診や触診ではとうてい聴き取ることの出来ぬ、細微《かすか》な鼓動が続いていたに相違ないのだから([#ここから割り注]巴里大学教授ブラウンセカールと講師シオは、人体の心臓を聞いてそれがなお鼓動を続けていたという数十例を報告している。すなわち、心臓がなお充分な力を持っていることを証明するのであって、換言すれば、それは心動の完全な停止を証明しないのである。勿論その鼓動は、外部では聴えない[#ここで割り注終わり])――とメーキンスはこういう推断を下しているのです。そうなると久我さん、僕はこの疑心暗鬼を、いったいどうすればいいのでしょうか」
と法水は、算哲の心臓の位置が異なっていることから、死者の再生などと云うよりも、もっともっと科学的論拠の確かな、一つの懸念を濃厚にするのだった。が、その時、心中で凄愴《せいそう》な黙闘を続けていた鎮子に、突如必死の気配が閃《ひらめ》いた。あくまで真実に対して良心的な彼女は、恐怖も不安も何もかも押し切ってしまったのだった。
「ああ、何もかも申し上げましょう。いかにも算哲様は、右に心臓を持った特異体質者でございました。ですけれど、何より私には、算哲様が自殺なされるのに、右肺を突いたという意志が疑わしく思われるのです。それで、試しに私は、屍体の皮下にアムモニア注射をいたしたのでございました。ところが、それには明瞭《はっきり》と、生体特有の赤色が泛《うか》んでくるではありませんか。それに、なんという怖ろしい事でしたろう。あの糸が、埋葬した翌朝には切れていたのでございましたわ。ですけど、私にはとうてい、算哲様の墓※[#「穴かんむり/石」、319−1]《ぼこう》を訪れる勇気はございませんでした」
「その糸と云うのは」検事が鋭く問い返した。
「それは、こうなのでございます」鎮子は言下に云い続けた。「実を申しますと、算哲様はひどく早期の埋葬をお懼《おそ》れになった方で、この館の建設当初にも、大規模の地下墓※[#「穴かんむり/石」、319−4]《クリプト》をお作りなったほどでございます。そして、それには秘かに、コルニツェ・カルニツキー([#ここから割り注]露皇帝アレキサンダー三世侍従[#ここで割り注終わり])式に似た、早期埋葬防止装置を設けて置いたのでした。ですから、埋葬式の夜、私はまんじりともせずに、あの電鈴《でんれい》の鳴るのをひたすら待ち佗《わ》びておりました。ところが、その夜は何事もないので、翌朝大雨の夜が明けるのを待って、念のために、裏庭の墓※[#「穴かんむり/石」、319−8]を見にまいりました。何故かと申しますなら、あの周囲《ぐるり》にある七葉樹《とち》の茂みの中には、電鈴を鳴らす開閉器《スイッチ》が隠されているからでございます。するとどうでございましたろう。その開閉器《スイッチ》の間には、山雀《やまがら》の雛《ひな》が挾まれていて、把手《とって》を引く糸が切れておりました。ああ、あの糸はたしか、地下の棺中から引かれたに相違ございません。それに棺のも、地上の棺龕《カタファルコ》の蓋も、内部《なか》
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