モる》え鳴ったのだろう――。最初は、重い人形が隣室の壁際を歩んだ。そして、次は今の熊城君だ。つまり、|大階段の裏《ビハインド・ステイアス》――の解答と云うのは、この隣室との境にある壁のことなんだよ」
 しかし、その壁面にはどこを探っても、隠し扉が設けてあるような手掛りはなかった。そこでやむなく、その一部を破壊することになった。熊城は最初音響を確かめてから、それらしい部分に手斧《ておの》を振って、羽目《パネル》に叩きつけると、はたしてそこからは、無数の絃が鳴り騒ぐような音が起った。そして、木片が砕け飛び、その一枚を手斧とともに引くと、羽目《パネル》の蔭からは冷えびえとした空気が流れ出てくる――そこは、二つの壁面に挾まれた空洞だった。その瞬間、悪鬼の秘密な通路が闇の中から掴み取られそうな気がして、三人の唾《つば》を嚥《の》む音が合したように聴えた。打ち下す音とともに、梯状琴《クラヴィ・チェンバロ》の絃の音が、狂った鳥のような凄惨な響を交える。それは、周囲の羽目《パネル》を、熊城が破壊しはじめたからだった。ところが、やがてその一劃から埃まみれになって抜け出してくると、彼は激しい呼吸の中途で大きな溜息を吐き、法水に一冊の書物を手渡した。そして、グッタリとした弱々しい声で云った。
「何もない――隠し扉《ドア》も秘密階段も揚蓋《あげぶた》もないんだ。たったこの一冊だけが収穫だったのだよ。ああ、こんなものが、十二宮秘密記法の解答だなんて」
 法水も、この衝撃からすぐに恢復することは困難だった。明らかにそれは、二重に重錘《おもし》の加わった、失望を意味するのだから。では、何故かと云うに、ディグスビイが設計者だったということから、ほとんど疑う余地のなかった秘密通路の発見に、まずまんまと失敗してしまった――それは、無論云うまでもないことである。けれども、それと同時に、事件の当初ダンネベルグ夫人が自筆で示したところの、人形の犯行という仮定を、わずかそれ一筋で繋ぎ止めていた顫音《せんおん》の所在が明白になった。それなので、いよいよ明瞭《はっきり》とここで、あのプロヴィンシヤ人の物々しい鬼影を認めなければならなくなってしまったのだ。しかし、以前の室《へや》に戻ってその一冊を開くと、法水は慄然《りつぜん》としたように身を竦《すく》めた。けれども、その眼には、まざまざと驚嘆の色が現われた。
「ああ、驚くべきじゃないか。これは、ホルバインの『|死の舞踏《トーテン・タンツ》』なんだよ。しかも、もう稀覯《きこう》に等しい一五三八年|里昂《リオン》の初版なんだ」
 それには、四十年後の今日に至って、黒死館に起った陰惨な死の舞踊を予言するかのように、明瞭《はっきり》とディグスビイの最終の意志が示されていた。その茶の犢《こうし》皮で装幀された表紙を開くと、裏側には、ジャンヌ・ド・ツーゼール夫人に捧げたホルバインの捧呈文《デディケーション》が記され、その次葉に、ホルバインの下図《デザイン》を木版に移したリュッツェンブルガーの、一五三〇年バーゼルにおける制作を証明する一文が載せられていた。しかし、頁《ページ》を繰《く》っていって、死神と屍骸で埋められている多くの版画を追うているうちに、法水の眼は、ふとある一点に釘付けされてしまった。その左側の頁には、大身槍《おおみのやり》を振った髑髏人《どくろじん》が、一人の騎士の胴体を芋刺《いもざ》しにしている図が描かれ、また、その右側のは、大勢の骸骨が長管喇叭《トロムパ》や角笛《ホルン》を吹き筒太鼓《ケットル・ドラム》を鳴らしたりして、勝利の乱舞に酔いしれている光景だった。ところが、その上欄に、次のような英文が認《したた》められてあった。それはインキの色の具合と云い、初めて見るディグスビイの自筆に相違なかったのである。
[#ここから1字下げ]
 “Quean《クイーン》 locked《ロックト》 in《イン》 Kains《ケインス》. Jew《ジュー》 yawning《ヨウニング》 in《イン》 knot《ノット》. Knell《ネル》 karagoz《カラギヨス》! Jainists《ジャイニスツ》 underlie《アンダーライ》 below《ビロウ》 inferno《インフェルノ》.”
 ――(訳文)。尻軽娘はカインの輩《ともがら》の中に鎖じ込められ、猶太人《ジュウ》は難問の中にて嘲笑う。凶鐘にて人形([#ここから割り注]カラギヨス――土耳古(トルコ)の操人形[#ここで割り注終わり])を喚び覚ませ、奢那《ジャイナ》教徒ども([#ここから割り注]仏教と共通点の多い姉妹的宗教[#ここで割り注終わり])は地獄の底に[#「は地獄の底に」は底本では「の底に」]横たわらん。([#ここから割り注]以上は、判読的意訳である[#ここで割り注終わり])

そして、次の一文が続いていた。それは文意と云い、創世記に皮肉嘲説を浴びせているようなものだった。

 ――(訳文)。エホバ神《がみ》は半陰陽《ふたなり》なりき。初めに自らいとなみて、双生児《ふたご》を生み給えり。最初に胎《はら》より出でしは、女にしてエヴと名付け、次なるは男にしてアダムと名付けたり。しかるに、アダムは陽に向う時、臍《ほぞ》より上は陽に従いて背後に影をなせども、臍《ほぞ》より下は陽に逆《さから》いて、前方に影を落せり。神、この不思議を見ていたく驚き、アダムを畏《おそ》れて自らが子となし給いしも、エヴは常の人と異ならざれば婢《しもめ》となし、さてエヴといとなみしに、エヴ妊《みごも》りて女児《おなご》を生みて死せり。神、その女児《おなご》を下界に降《くだ》して人の母となさしめ給いき。
[#ここで字下げ終わり]

 法水は、それにちょっと眼を通しただけだったが、検事と熊城はいつまでも捻《ひね》くっていて、しばらく数分のあいだ瞶《みつ》めていた。しかし、ついにつまらなそうな手付で卓上に投げ出したけれども、さすが文中に籠《こも》っているディグスビイの呪詛《じゅそ》の意志には、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》と迫ってくるものがあったのは事実だった。
「なるほど、明白にディグスビイの告白だが、これほど怖ろしい毒念があるだろうか」検事は思いなし声を慄《ふる》わせて、法水を見た。「たしかに文中にある尻軽娘と云うのは、テレーズのことを指して云うのだろう。すると、テレーズ・算哲・ディグスビイ――とこの三角恋愛関係の帰結は、当然、カインの輩の中に鎖じ込められ[#「カインの輩の中に鎖じ込められ」に傍点]――の一句で瞭然たるものになってしまう。そして、ディグスビイはまず、この館に難問を提出し、そうしてから、その錯綜《ジグザグ》の結び目の中で、嘲笑《せせらわら》っているのだ」と検事は神経的に指を絡み合わせて、天井をふり仰いだ。「ああ、その次は、凶鐘にて人形を喚び覚せ[#「凶鐘にて人形を喚び覚せ」に傍点]――じゃないか。ねえ法水君、ディグスビイという不可解な男は、この館の東洋人どもが、ゴロゴロ地獄へ転がり込んで行く光景さえ予知していたのだよ。つまり、この事件の生因は、遠く四十年前にあったのだ。すでにあの男は、その時事件の役割を端役までも定めていたんだぜ」
 ディグスビイの意志が怖ろしい呪詛であることは、彼がそれを記すに、ホルバインの「|死の舞踏《トーテン・タンツ》」を用いただけでも明らかであるが、それにまして怖ろしく思われたのは、彼が執拗にも、数段の秘密記法《クリプトメニツェ》を用意していることだった。それを臆測すれば、恐らくどこかに一つの驚くべき計画が残されていて、それが醸《かも》し出してくる凶運を、難解きわまる秘密記法《クリプトメニツェ》にて覆い、人々がそれにあぐみ悩む有様を、秘かに横手で嗤《わら》おうという魂胆らしく思われるのだった。すなわち、その秘密記法《クリプトメニツェ》の深さは、この事件の発展に正比例するのではないか――。しかし、法水はその文中から、ディグスビイにもあるまじい、幼稚な文法をさえ無視している点や、また、冠詞のないことも指摘したのだったが、次の創世記めいた奇文に至ると、その二つの文章が、聯関している所は勿論、すべてが、宛然《さながら》霧に包まれたような観を呈しているのだった。それから、押鐘博士に遺言書の開封を依頼すべく、法水等は階下の広間《サロン》に赴《おもむ》いた。
 広間《サロン》の中には、押鐘博士と旗太郎とが対座していたが、一行を見ると立ち上って迎えた。医学博士押鐘童吉は五十代に入った紳士で、薄い半白の髪を綺麗《きれい》に梳《くしけず》り、それに調和しているような卵円形の輪廓で、また、顔の諸器官も相応して、それぞれに端正な整いを見せていた。総じて、人道主義者《ヒューマニタリアン》特有の夢想に乏しい、そして、豊かな抱擁力を思わせるものがあった。博士は、法水を見ると慇懃《いんぎん》に会釈して、彼の妻を死の幽鎖から救ってくれたことに、何度も繰り返して感謝の辞を述べた。しかし、一同が座に着くと、まず博士が興なげな調子で切り出した。
「いったいどうしたと云うんです。法水さん。いまに誰もかも、元素に還されてしまうのじゃないでしょうか。いったい、犯人は誰ですかな。家内は、その影像《ファントム》を見なかったと云ってますよ」
「さよう、まったく神秘的な事件です」と法水は伸ばした肢《あし》を縮めて、片肱を卓上に置いた。「ですから、指紋が取れようが糸が切れていようが、とうてい駄目なのです。要するに、あの底深い大観を闡明《せんめい》せずには、事件の解決が不可能なのですよ。つまり、臨検家《ヴィジター》が幻想家《ヴィジョナリー》となる時機にですな」
「いや、元来|儂《わし》は、そういう哲学問答が不得意でしてな」と警戒気味に、博士は眼を瞬《しばたた》いて法水を見た。そして、「しかし、貴方《あなた》はいま、糸と云われましたね。ハハハハ、それが何か令状と関係がおありですかな。法水さん、儂《わし》はこのままで凝《じ》っと、法律の威力を傍観していたいですよ」と早くも遺言書の開封に、不同意らしい意向を洩らすのだった。[#「洩らすのだった。」は底本では「洩らすのだった」]
「そりゃ云うまでもありません。家宅捜索令状などは、どこにも持っちゃいませんよ。だが、一人の辞職だけで済むものなら、たぶん僕等は法律も破りかねないでしょう」と熊城は憎々しげに博士を見据え異常な決意を示した。そのにわかに殺気立った空気の中で、法水は静かに云った。
「さよう、まさに一本の糸なんです。つまり、その問題は、算哲博士を埋葬した当夜にあったのですよ。たしか貴方は、あの晩この館へお泊りになられたでしょう。けれども、その時もしあの糸が切れなかったら――そうだとすれば、今日の事件は当然起らなかったはずです。ああ、あの遺言書が……。そうなれば、算哲一代の精神的遺物となることが出来たでしょうに」
 押鐘博士の顔が蒼ざめてみるみる白けていったが、糸――の真相を知らない旗太郎は、不自然な笑を作って、呟《つぶや》くように云った。
「ああ、僕は弩の絃《いと》のことをお話しかと思いましたよ」
 しかし、博士は法水の顔をまじまじと瞶《みつ》めて、突っかかるように訊ねた。
「どうも、仰言《おっしゃ》る言葉が判然《はっきり》と嚥《の》み込めませんが、しかし、結局あの遺言書の内容が、なんだと云われるんです?」
「僕は、現在では白紙だと信じているのです」と突然眼を険しくして、法水は実に意外な言《ことば》を吐いた。
「もう少し詳細に云いますと、その内容が、ある時期に至って、白紙に変えられたのだ――と」
「莫迦《ばか》な、何を云われるのです」と博士の驚愕《きょうがく》の色が、たちまち憎悪《ぞうお》に変った。そして、恥もなく、見え透いた術策を弄しているかの相手を、しげしげ瞶《みつ》めていたが、ふと心中に何やら閃《ひらめ》いたらしく、静かに莨《たばこ》を置いて云った。
「それでは、遺言書を作成した当時の状況をお聴かせして、貴方から、そういう妄信
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