ないだろうね。外部から放たれているものでないことは、とうに明らかなんだし、燐の臭気はないし、ラジウム化合物なら皮膚に壊疽《えそ》が出来るし、着衣にもそんな跡はない。まさしく皮膚から放たれているんだ。そして、この光には熱も匂いもない。いわゆる冷光なんだよ」
「すると、これでも毒殺と云えるのか?」と検事が法水に云うのを、熊城が受けて、
「ウン、血の色や屍斑を見れば判るぜ。明白な青酸中毒なんだ。だが法水君、この奇妙な文身《いれずみ》のような創紋はどうして作られたのだろうか? これこそ、奇を嗜《たしな》み変異に耽溺《たんでき》する、君の領域じゃないか」と剛愎《ごうふく》な彼に似げない自嘲めいた笑《えみ》を洩らすのだった。
実に、怪奇な栄光に続いて、法水を瞠目《どうもく》せしめた死体現象がもう一つあったのだ。ダンネベルグ夫人が横たわっている寝台は、帷幕《とばり》のすぐ内側にあって、それは、松毬形《まつかさがた》の頂花《たてばな》を頭飾にし、その柱の上に、レースの天蓋をつけた路易《ルイ》朝風の桃花木《マホガニー》作りだった。死体は、そのほとんど右はずれに俯臥《うつむけ》の姿勢で横たわり、右手は、背の方へ捻《ね》じ曲げたように甲を臀《しり》の上に置き、左手は寝台から垂れ下っていた。銀色の髪毛を無雑作に束ねて、黒い綾織の一重服を纏《まと》い、鼻先が上唇まで垂れ下って猶太《ユダヤ》式の人相をしているこの婦人は、顔をSの字なりに引ん歪め、実に滑稽な顔をして死んでいた。しかし不思議と云うのは、両側の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に現われている、紋様状の切り創《きず》だった。それがちょうど文身《いれずみ》の型取りみたいに、細い尖鋭な針先でスウッと引いたような――表皮だけを巧妙にそいだ擦切創《さっせつそう》とでもいう浅い傷であって、両側ともほぼ直径一寸ほどの円形を作っていて、その円の周囲には、短い線条が百足《むかで》の足のような形で群生している。創口には、黄ばんだ血清が滲み出ているのみであるが、そういう更年期婦人の荒れ果てた皮膚に這いずっているものは、凄美などという感じよりかも、むしろ、乾燥《ひから》びた蟯蟲《ぎょうちゅう》の死体のようでもあり、また、不気味な鞭毛蟲が排泄する、長い糞便のようにも思われるのだった。そして、その生因が、はたして内部にあるのか外部にあるのか――その推定すら困難なほどに、難解をきわめたものだった。しかし、その凄惨な顕微鏡《ミクロ》模様から離れた法水の眼は、期せずして検事の視線と合した。そして、暗黙のうち、ある慄然《りつぜん》としたものを語り合わねばならなかった。なんとなれば、その創の形が、まさしく降矢木家の紋章の一部をつくっている、フィレンツェ市章の二十八葉橄欖冠にほかならないからであった。
[#二十八葉橄欖冠の図(fig1317_01.png)入る]
二、テレーズ吾《われ》を殺せり
「どう見ても、僕にはそうとしか思えない」と検事は何度も吃《ども》りながら、熊城《くましろ》に降矢木家の紋章を説明した後で、「何故犯人は、息の根を止めただけでは足らなかったのだろうね。どうしてこんな、得体の判らぬ所作《しぐさ》までもしなければならなかったのだろう?」
「ところがねえ支倉《はぜくら》君」と法水《のりみず》は始めて莨《たばこ》を口に銜《くわ》えた。「それよりも僕は、いま自分の発見に愕然《がくっ》としてしまったところさ。この死体は、彫り上げた数秒後に絶命しているのだよ。つまり、死後でもなく、また、服毒以前でもないのだがね」
「冗談じゃないぜ」と熊城は思わず呆れ顔になって、「これが即死でないのなら、一つ君の説明を承《うけたまわ》ろうじゃないか」といきり立つのを、法水は駄々児を諭すような調子で、
「ウン、この事件の犯人たるや、いかにも神速陰険で、兇悪きわまりない。しかし、僕の云う理由はすこぶる簡単なんだ。だいたい君が、強度の青酸《シヤン》中毒というものをあまり誇張して考えているからだよ。呼吸筋は恐らく瞬間に痳痺[#「痳痺」はママ]してしまうだろうが、心臓が全く停止してしまうまでには、少なくとも、それから二分足らずの時間はあると見て差支えない。ところが、皮膚の表面に現われる死体現象と云うのは、心臓の機能が衰えると同時に現われるものなんだがね」そこでちょっと言葉を切って、まじまじと相手を瞶《みつ》めていたが、「それが判れば、僕の説に恐らく異議はないと思うね。ところで、この創《きず》は巧妙に表皮のみを切り割っている。それは、血清だけが滲み出ているのを見ても、明白な事実なんだが、通例生体にされた場合だと、皮下に溢血《いっけつ》が起って創の両側が腫起してこなければならない――いかにも、この創口にはその歴然としたものがあるのだ。ところが、剥《そ》がれた割れ口を見ると、それに痂皮《かひ》が出来ていない。まるで透明な雁皮《がんぴ》としか思われないだろう。が、この方は明らかな死体現象なんだよ。しかしそうなると、その二つの現象が大変な矛盾をひき起してしまって、創がつけられた時の生理状態に、てんで説明がつかなくなってしまうだろう。だから、その結論の持って行き場は、爪や表皮がどういう時期に死んでしまうものか、考えればいい訳じゃないか」
法水の精密な観察が、かえって創紋の謎を深めた感があったので、その新しい戦慄《せんりつ》のために、検事の声は全く均衡を失っていた。
「万事剖見を待つとしてだ。それにしても、屍光のような超自然現象を起しただけで飽き足らずに、その上降矢木の烙印《やきいん》を押すなんて……。僕には、この清浄な光がひどく淫虐的《ザディスティッシュ》に思えてきたよ」
「いや、犯人はけっして、見物人を慾《ほ》しがっちゃいないさ。君がいま感じたような、心理的な障害を要求しているんだ。どうして彼奴《あいつ》が、そんな病理的な個性なもんか。それに、まったくもって創造的だよ。だがそれをハイルブロンネルに云わせると、一番淫虐的で独創的なものを、小児《こども》だと云うがね」と法水は暗く微笑《ほほえ》んだが、「ところで熊城君、死体の発光は何時頃からだね」と事務的な質問を発した。
「最初は、卓子灯《スタンド》が点いていたので判らなくなったのだ。ところが、十時頃だったが、ひととおり死体の検案からこの一劃の調査が終ったので、鎧扉を閉じて卓子灯《スタンド》を消すと……」と熊城はグビッと唾《つば》を嚥《の》み込んで、「だから、家人は勿論のことだが、係官の中にも知らないものがあるという始末だよ。ところで、今まで聴取しておいた事実を、君の耳に入れておこう」と概略の顛末を語りはじめた。
「昨夜家内中である集会を催して、その席上でダンネベルグ夫人が卒倒した――それがちょうど九時だったのだ。それからこの室《へや》で介抱することになって、図書掛りの久我鎮子《くがしずこ》と給仕長の川那部易介《かわなべえきすけ》が徹宵附添っていたのだが、十二時頃被害者が食べた洋橙《オレンジ》の中に、青酸加里が仕込まれてあったのだよ。現に、口腔《くち》の中に残っている果肉の噛滓《かみかす》からも、多量の物が発見されているし、何より不思議な事には、それが、最初口に入れた一房にあったのだ。だから、犯人は偶然最初の一発で、的の黒星を射当てたと見るよりほかになかろうと思うね。他の果房《ふさ》はこのとおり残っていても、それには、薬物の痕跡がないのだよ」
「そうか、洋橙《オレンジ》に※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と法水は、天蓋の柱をかすかに揺ぶって呟《つぶや》いた。「そうすると、もう一つ謎がふえた訳だよ。犯人には、毒物の知識が皆無だという事になるぜ」
「ところが、使用人のうちには、これという不審な者はいない。久我鎮子も易介も、ダンネベルグ夫人が自分で果物皿の中から撰んだと云っている。それに、この室《へや》は十一時半頃に鍵を下してしまったのだし、硝子窓も鎧扉も菌《きのこ》のように錆《さび》がこびり付いていて、外部から侵入した形跡は勿論ないのだよ。しかし妙な事には、同じ皿の上にあった梨の方が、夫人にとると、はるかより以上の嗜好物だそうなんだ」
「なに、鍵が?」と検事は、それと創紋との間に起った矛盾に、愕然《がくぜん》とした様子だったけれども、法水は依然熊城から眼を離さず、突慳貪《つっけんどん》に云い放った。
「僕はけっして、そんな意味で云っていやしない。青酸に洋橙《オレンジ》という痴面《どうけめん》を被せているだけに、それだけ、犯人の素晴らしい素質が怖ろしくなってくるのだ。考えても見給え。あれほど際立った異臭や特異な苦味のある毒物を、驚くじゃないか、致死量の十何倍も用いている。しかも、その仮装迷彩《カムフラージュ》に使っているのが、そういう性能のきわめて乏しい洋橙《オレンジ》ときているんだ。ねえ、熊城君、それほど稚拙もはなはだしい手段が、どうしてこんな魔法のような効果を収めたのだろうか。何故《なぜ》ダンネベルグ夫人は、その洋橙《オレンジ》のみに手を伸ばしたのだろうか。つまり、その驚くべき撞着たるやが、毒殺者の誇りなんだ。まさに彼等にとれば、ロムバルジア巫女《ストリゲス》の出現以来、永生不滅の崇拝物《トーテム》なんだよ」
熊城は呆気にとられたが、法水は思い返したように訊ねた。
「それから、絶命時刻は?」
「今朝八時の検屍で死後八時間と云うのだから、絶命時刻も、洋橙《オレンジ》を食べた刻限《じこく》とピッタリ符合している。発見は暁方の五時半で、それまで附添は二人ともに、変事を知らなかったのだし、また、十一時以後は誰もこの室《へや》に入った者がなかったと云うのだし、家族の動静もいっさい不明だ。で、その洋橙《オレンジ》が載っていた、果物皿と云うのがこれなんだがね」
そう云って熊城は、寝台の下から銀製の大皿を取り出した。直径が二尺近い盞形《さかずきがた》をしたもので、外側には露西亜《ルッソ》ビザンチン特有の生硬な線で、アイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ソウフスキーの匈奴《フン》族|馴鹿《トナカイ》狩の浮彫が施されていた。皿の底には、空想化された一匹の爬蟲類が逆立《さかだち》していて、頭部と前肢《まえあし》が台になり、刺の生えた胴体がく[#「く」に傍点]の字なりに彎曲して、後肢《あとあし》と尾とで皿を支えている。そして、そのくの字の反対側には、半円形の把手《にぎり》が附いていた。その上にある梨と洋橙《オレンジ》は全部二つに截ち割られていて、鑑識検査の跡が残されているが、無論毒物は、それ等の中にはなかったものらしい。しかし、ダンネベルグ夫人を斃《たお》した一つには、際立った特徴が現われていた。それが、他にある洋橙《オレンジ》とは異なり、いわゆる橙《だいだい》色ではなくて、むしろ熔岩《ラヴァ》色とでもいいたいほどに赤味の強い、大粒のブラッド・オレンジだった。しかも、その赭《あか》黒く熟れ過ぎているところを見ると、まるでそれが、凝固しかかった血糊のように薄気味悪く思われるのであるが、その色は妙に神経を唆《そそ》るのみのことで、勿論推定の端緒《いとぐち》を引き出すものではなかった。そして、蔕《へた》のないところから推して、そこから泥状の青酸加里が注入されたものと推断された。
法水は果物皿から眼を離して、室内を歩きはじめた。帷幕《とばり》で区劃《くぎ》られているその一劃は、前方の室といちじるしく趣を異にしていて、壁は一帯に灰色の膠泥《モルタル》で塗られ、床には同じ色で、無地の絨毯《じゅうたん》が敷かれてあって、窓は前室のよりもやや小さく、幾分上方に切られてあるので、内部ははるかに薄暗かった。灰色の壁と床、それに黒い帷幕《とばり》――と云えば、その昔ゴードゥン・クレイグ時代の舞台装置を想い出すけれども、そういう外見生動に乏しい基調色が、なおいっそうこの室を沈鬱なものにしていた。ここもやはり、前室と同様荒れるに任せていたらしく、歩くにつれて、壁の上方から層をなした埃が摺《ず》り落ちてく
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