じゃない」検事が思わず眼を瞠《みは》ると、法水もやや亢奮を交えた声でこう云った。
「とりもなおさず、これが今度の降矢木事件の象徴《シムボル》という訳さ。犯人はこの大旆《たいはい》を掲げて、陰微のうちに殺戮《さつりく》を宣言している。あるいは、僕等に対する、挑戦の意志かもしれないよ。だいたい支倉君、二つの甲冑武者が、右のは右手に、左のは左手に旌旗の柄を握っているだろう。しかし、階段の裾にある時を考えると、右の方は左手に、左の方は右手に持って、構図から均斉を失わないのが定法じゃないか。そうすると、現在の形は、左右を入れ違えて置いたことになるだろう。つまり、左の方から云って、富貴の英町旗《エーカーばた》――信仰の弥撒旗《ミサばた》となっていたのが、逆になったのだから……そこに怖ろしい犯人の意志が現われてくるんだ」
「何が?」
「Mass(弥撒《ミサ》)と acre(英町《エーカー》)だよ。続けて読んで見給え。信仰と富貴が、Massacre《マッサカー》――虐殺に化けてしまうぜ」と法水は検事が唖然としたのを見て、「だが、恐らくそれだけの意味じゃあるまい。いずれこの甲冑武者の位置から、僕はもっと形に現われたものを発見《みつ》け出すつもりだよ」と云ってから、今度は召使《バトラー》に、「ところで、昨夜七時から八時までの間に、この甲冑武者について目撃したものはなかったかね」
「ございません。生憎《あいにく》とその一時間が、私どもの食事に当っておりますので」
 それから法水は、甲冑武者を一基一基解体して、その周囲は、画図と画図との間にある龕形《がんけい》の壁灯から、旌旗の蔭になっている、「腑分図」の上方までも調べたけれど、いっこうに得るところはなかった。画面のその部分も背景のはずれ近くで、様々の色の縞が雑然と配列しているにすぎなかった。それから、階段廊を離れて、上層の階段を上って行ったが、その時何を思いついたのか、法水は突然|奇異《ふしぎ》な動作を始めた。彼は中途まで来たのを再び引き返して、もと来た大階段の頂辺《てっぺん》に立った。そして、衣嚢《かくし》から格子紙《セクション》の手帳を取り出して、階段の階数をかぞえ、それに何やら電光形《ジグザグ》めいた線を書き入れたらしい。さすがこれには、検事も引き返さずにはいられなかった。
「なあに、ちょっとした心理考察をやったまでの話さ」と階上の召使《バトラー》を憚《はばか》りながら、法水は小声で検事の問いに答えた。「いずれ、僕に確信がついたら話すことにするが、とにかく現在《いま》のところでは、それで解釈する材料が何一つないのだからね。単にこれだけのことしか云えないと思うよ。先刻《さっき》階段を上って来る時に、警察自動車らしいエンジンの爆音が玄関の方でしたじゃないか。するとその時、あの召使《バトラー》は、そのけたたましい音響に当然消されねばならない、ある微かな音を聴くことが出来たのだ。いいかね、支倉君、普通の状態ではとうてい聴くことの出来ない音をだよ」
 そういうはなはだしく矛盾した現象を、法水はいかにして知ることが出来たのだろうか? しかし、彼はそれに附け加えて、そうは云うものの、あの召使《バトラー》には毫末《ごうまつ》の嫌疑もない――といって、その姓名さえも聞こうとはしないのだから、当然結論の見当が茫漠となってしまって、この一事は、彼が提出した謎となって残されてしまった。
 階段を上りきった正面には、廊下を置いて、岩乗な防塞を施した一つの室《へや》があった。鉄柵扉の後方に数層の石段があって、その奥には、金庫扉《きんこと》らしい黒漆《こくしつ》がキラキラ光っている。しかし、その室が古代時計室だということを知ると、収蔵品の驚くべき価値を知る法水には、一見|莫迦気《ばかげ》て見える蒐集家の神経を頷《うなず》くことが出来た。廊下はそこを基点に左右へ伸びていた。一劃ごとに扉が附いているので、その間は隧道《トンネル》のような暗さで、昼間でも龕《がん》の電燈が点《とも》っている。左右の壁面には、泥焼《テルラコッタ》の朱線が彩っているのみで、それが唯一の装飾だった。やがて、右手にとった突当りを左折し、それから、今来た廊下の向う側に出ると、法水の横手には短い拱廊《そでろうか》が現われ、その列柱の蔭に並んでいるのが、和式の具足類だった。拱廊の入口は、大階段室の円《まる》天井の下にある円廊に開かれていて、その突当りには、新しい廊下が見えた。入口の左右にある六弁形の壁燈を見やりながら、法水が拱廊の中に入ろうとした時、何を見たのか愕然《ぎょっ》としたように立ち止った。
「ここにもある」と云って、左側の据具足《すえぐそく》(鎧櫃《よろいびつ》の上に据えたもの)の一列のうちで、一番手前にあるものを指差した。その黒毛三枚鹿|角立《つのだち》の兜《かぶと》を頂いた緋縅錣《ひおどししころ》[#ルビの「ひおどししころ」は底本では「ひおどしころ」]の鎧に、何の奇異《ふしぎ》があるのであろうか。検事はなかば呆れ顔に反問した。
「兜が取り換えられているんだ」と法水は事務的な口調で、「向う側にあるのは全部|吊具足《つりぐそく》(宙吊りにしたもの)だが、二番目の鞣革《なめしがわ》胴の安鎧に載っているのは、錣《しころ》を見れば判るだろう。あれは、位置の高い若武者が冠る獅子噛台星前立脇細鍬《ししがみだいほしまえだてわきほそぐわ》という兜なんだ。また、こっちの方は、黒毛の鹿角立という猛悪なものが、優雅な緋縅《ひおどし》の上に載っている。ねえ支倉君、すべて不調和なものには、邪《よこし》まな意志が潜んでいるとか云うぜ」と云ってから召使《バトラー》にこの事を確かめると、さすがに驚嘆の色を泛《うか》べて、
「ハイ、さようでございます。昨夕までは仰言《おっしゃ》ったとおりでございましたが」と躊躇《ちゅうちょ》せずに答えた。
 それから、左右に幾つとなく並んでいる具足の間を通り抜けて、向うの廊下に出ると、そこは袋廊下の行き詰りになっていて、左は、本館の横手にある旋廻階段のテラスに出る扉。右へ数えて五つ目が現場の室《へや》だった。部厚な扉の両面には、古拙な野生的な構図で、耶蘇《イエス》が佝僂《せむし》を癒やしている聖画が浮彫になっていた。その一重の奥に、グレーテ・ダンネベルグが死体となって横たわっているのだった。
 扉が開くと、後向きになった二十三、四がらみの婦人を前に、捜査局長の熊城《くましろ》が苦りきって鉛筆の護謨《ゴム》を噛んでいた。二人の顔を見ると、遅着を咎《とが》めるように、眦《まなじり》を尖らせたが、
「法水君、仏様ならあの帷幕《とばり》の蔭だよ」といかにも無愛想に云い放って、その婦人に対する訊問も止めてしまった。しかし、法水の到着と同時に、早くも熊城が、自分の仕事を放棄してしまったのと云い、時折彼の表情の中に往来する、放心とでも云うような鈍い弛緩の影があるのを見ても、帷幕の蔭にある死体が、彼にどれほどの衝撃を与えたものか――さして想像に困難ではなかったのである。
 法水は、まずそこにいる婦人に注目を向けた。愛くるしい二重|顎《あご》のついた丸顔で、たいして美人と云うほどではないが、円《つぶ》らな瞳と青磁に透いて見える眼隈と、それから張ち切れそうな小麦色の地肌とが、素晴らしく魅力的だった。葡萄色のアフタヌーンを着て、自分の方から故算哲博士の秘書|紙谷伸子《かみたにのぶこ》と名乗って挨拶したが、その美しい声音《こわね》に引きかえ、顔は恐怖に充ち土器色に変っていた。彼女が出て行ってしまうと、法水は黙々と室内を歩きはじめた。その室《へや》は広々とした割合に薄暗く、おまけに調度が少ないので、ガランとして淋しかった。床の中央には、大魚の腹中にある約拿《ヨナ》を図案化したコプト織の敷物が敷かれ、その部分の床は、色大理石と櫨《はぜ》の木片を交互に組んだ車輪模様の切嵌《モザイク》。そこを挾んで、両辺の床から壁にかけ胡桃《くるみ》と樫《かし》の切組みになっていて、その所々に象眼を鏤《ちりば》められ、渋い中世風の色沢が放たれていた。そして、高い天井からは、木質も判らぬほどに時代の汚斑が黒く滲み出ていて、その辺から鬼気とでも云いたい陰惨な空気が、静かに澱《よど》み下ってくるのだった。扉口《とぐち》は今入ったのが一つしかなく、左手には、横庭に開いた二段鎧窓が二つ、右手の壁には、降矢木家の紋章を中央に刻み込んである大きな壁炉《かべろ》が、数十個の石材で畳み上げられてあった。正面には、黒い天鵞絨《びろうど》の帷幕《とばり》が鉛のように重く垂れ、なお扉から煖炉に寄った方の壁側には、三尺ほどの台上に、裸体の傴僂《せむし》と有名な立法者《スクライブ》(埃及《エジプト》彫像)の跏像《かぞう》とが背中合せをしていて、窓際寄りの一劃は高い衝立《ついたて》で仕切られ、その内側に、長椅子と二、三脚の椅子|卓子《テーブル》が置かれてあった。隅の方へ行って人群から遠ざかると、古くさい黴《かび》の匂いがプーンと鼻孔を衝《つ》いてくる。煖炉棚《マントルピース》の上には埃が五|分《ぶ》ほども積っていて、帷幕に触れると、咽《むせ》っぽい微粉が天鵞絨の織目から飛び出してきて、それが銀色に輝き、飛沫《しぶき》のように降り下ってくるのだった。一見して、この室《へや》が永年の間使われていないことが判った。やがて、法水は帷幕を掻き分けて内部を覗き込んだが、その瞬間あらゆる表情が静止してしまって、これも背後から、反射的に彼の肩を掴んだ検事の手があったのも知らず、またそれから波打つような顫動《せんどう》が伝わってくるのも感ぜずに、ひたすら耳が鳴り顔が火のように熾《ほて》って、彼の眼前にある驚くべきもの以外の世界が、すうっとどこかへ飛び去って行くかのように思われた。
 見よ! そこに横たわっているダンネベルグ夫人の死体からは、聖《きよ》らかな栄光が燦然《さんぜん》と放たれているのだ。ちょうど光の霧に包まれたように、表面から一|寸《すん》ばかりの空間に、澄んだ青白い光が流れ、それが全身をしっくりと包んで、陰闇の中から朦朧《もうろう》と浮き出させている。その光には、冷たい清冽な敬虔な気品があって、また、それに暈《ぼっ》とした乳白《ミルク》色の濁りがあるところは、奥底知れない神性の啓示でもあろうか。醜い死面の陰影は、それがために端正な相に軟げられ、実に何とも云えない静穏なムードが、全身を覆うているのだ。その夢幻的な、荘厳なものの中からは、天使の吹く喇叭《らっぱ》の音が聴えてくるかもしれない。今にも、聖鐘の殷々《いんいん》たる響が轟きはじめ、その神々しい光が、今度は金線と化して放射されるのではないかと思われてくると、――ああ、ダンネベルグ夫人はその童貞を讃えられ、最後の恍惚《こうこつ》境において、聖女として迎えられたのであろうか――と、知らず知らず洩れ出てくる嘆声を、果てはどうすることも出来なくなってしまうのだった。しかし、同時にその光は、そこに立ち列《なら》んでいる、阿呆のような三つの顔も照していた。法水もようやく吾《われ》にかえって調査を始めたが、鎧窓を開くと、その光は薄らいでほとんど見えなかった。死体の全身はコチコチに硬直していて、すでに死後十時間は十分経過しているものと思われたが、さすが法水は動ぜずに、あくまで科学的批判を忘れなかった。彼は口腔内にも光があるのを確かめてから、死体を俯《うつ》向けて、背に現われている鮮紅色の屍斑を目がけ、グサリと小刀《ナイフ》の刃を入れた。そして、死体をやや斜めにすると、ドロリと重たげに流れ出した血液で、たちまち屍光に暈《ぼっ》と赤らんだ壁が作られ、それがまるで、割れた霧のように二つに隔てられてゆき、その隙間に、ノタリノタリと血が蜿《のた》くってゆく影が印《しる》されていった。検事も熊城も、とうていこの凄惨な光景を直視することは出来なかった。
「血液には光はない」と法水は死体から手を離すと、憮然《ぶぜん》として呟《つぶや》いた。「今のところでは、なんと云っても奇蹟と云うよりほかに
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