ifig1317_28.png)、269−7])の六|稜形《ひしがた》が、クリヴォフの胸飾では、テュードル薔薇《ローズ》に六弁の形となって現われているのだ」
「だが、君の論旨はすこぶる曖昧だな」と検事は不承げな顔で異議を唱えた。「なるほど、珍しい昆虫の標本を見ているような気はするが、しかし、クリヴォフ個人の実体的要素には少しも触れていない。僕は君の口から、あの女の心動を聴き呼吸の香りを嗅ぎたいのだよ」
「それが、|樺の森《ダス・ビルケンヴェルドヘン》([#ここから割り注]グスタフ・ファルケの詩[#ここで割り注終わり])さ」と法水は無雑作に云い放って、いつか三人の異国人の前で吐いた奇言を、ここでもまた軽業的《アクロバテック》に弄《もてあそ》ぼうとする。「ところで、最初にあの黙示図を憶い出してもらいたいのだ。知ってのとおりクリヴォフ夫人は、布片《きれ》で両眼を覆われている。そこで、あの図を僕の主張どおりに、特異体質の図解だと解釈すれば、結局あれに描かれている屍様が、クリヴォフ夫人の最も陥りやすいものであるに相違ないのだ。ところが支倉君、眼を覆われて斃《たお》される――それが脊髄癆《せきずいろう》なんだよ。しかも、第一期の比較的目立たない徴候が、十数年にわたって継続する場合がある。けれども、そういう中でも、一番顕著なものと云うのは、ほかでもないロムベルグ徴候じゃないか。両眼を覆われるか、不意に四辺《あたり》が闇になるかすると、全身に重点が失われて、蹌踉《そうろう》とよろめくのだ。それがあの夜、夜半の廊下に起ったのだよ。つまりクリヴォフ夫人は、ダンネベルグ夫人がいる室《へや》へ赴くために、区劃扉《くぎりドア》を開いて、あの前の廊下の中に入ったのだ。知ってのとおり両側の壁には、長方形をした龕形《がんけい》に刳《えぐ》り込まれた壁灯が点されている。そこで、自分の姿を認められないために、まず区劃扉の側《かたわら》にある開閉器《スイッチ》を捻《ひね》る。勿論、その闇になった瞬間に、それまで不慮にも注意を欠いていた、ロムベルグ徴候が起ることは云うまでもない。ところが、そうして何度か蹌《よろ》めくにつれて、長方形をした壁灯の残像が幾つとなく網膜の上に重なってゆくのだ。ねえ支倉君、ここまで云えば、これ以上を重ねる必要はあるまい。クリヴォフ夫人がようやく身体の位置を立て直したときに、彼女の眼前一帯に拡がっている闇の中で、何が見えたのだろうか。その無数に林立している壁灯の残像と云うのが、ほかでもない、ファルケの歌ったあの薄気味悪い樺の森なんだよ。しかも、クリヴォフ夫人は、それを自ら告白しているのだ」
「冗談じゃない。あの女の腹話術を、君が観破したとは思わなかったよ」と熊城は力なく莨《たばこ》を捨てて、心中の幻滅を露わに見せた。それに、法水は静かに微笑んで云った。
「ところが熊城君、あるいはあの時、僕には何も聴えなかったかもしれない。ただ一心に、クリヴォフ夫人の両手を瞶《みつ》めていただけだったからね」
「なに、あの女の手を」今度は検事が驚いてしまった。「だが、仏像に関する三十二相や密教の儀軌《ぎき》についての話なら、いつか寂光庵《じゃっこうあん》([#ここから割り注]作者の前作、「夢殿殺人事件」[#ここで割り注終わり])で聴かせられたと思ったがね」
「いや、同じ彫刻の手でも、僕はロダンの『寺院《カテドラル》』のことを云っているのだよ」と相変らず法水はさも芝居気たっぷりな態度で、奇矯に絶した言《ことば》を曲毬《きょくまり》のように抛り上げる。「あの時、僕が樺の森を云いだすと、クリヴォフ夫人は、両手を柔《やん》わり合掌したように合せて、それを卓上に置いたのだ。勿論密教で云う印呪《いんじゅ》の浄三葉印ほどでなくとも、少なくもロダンの寺院《カテドラル》には近いのだ。ことに、右掌《みぎて》の無名指を折り曲げていた、非常に不安定な形だったので、絶えずクリヴォフ夫人の心理からなんらかの表出を見出そうとしていた僕は、それを見て思わず凱歌を挙げたものだ。何故なら、セレナ夫人が『樺の森』と云っても微動さえしなかったその手が、続いて僕がその次句で、されど彼夢みぬ――と云って、その男[#「その男」に傍点]という意味を洩らすと、不思議な事には、その不安定な無名指に異様な顫動《せんどう》が起って、クリヴォフ夫人は俄然|燥《はしゃ》ぎだしたような態度に変ったからだ。恐らく、そこに現われている幾らかの矛盾撞着は、とうてい法則では律することの出来ぬほど、転倒したものだったに相違ない。だいたい、緊張から解放された後でなくては、どうして、当時の昂奮《こうふん》が心の外へ現われなかったのだろうか」とそこでちょっと言葉を切って窓の掛金をはずし、一杯に罩《こ》もった烟《けむり》が、揺ぎ流れ出てゆくと後を続けた。「ところが、常人と異常神経の所有者とでは、末梢神経に現われる心理表出が、全然転倒している場合がある。例えば、ヒステリーの発作中そのまま放任しておく場合には、患者の手足は、勝手|気儘《きまま》な方向に動いているけれども、いったんそのどこかに注意を向けさせると、その部分の運動がピタリと停止してしまうのだ。つまり、クリヴォフ夫人に現われたものは、その反対の場合であって、たぶんあの女は、心の戦《おのの》きを挙動に現わすまいと努めていたことだろう。ところが、僕が彼夢みぬ[#「彼夢みぬ」に傍点]――と云った一言から、偶然その緊張が解けたので、そこで抑圧されていたものが一時に放出され、注意を自分の掌《てのひら》に向けるだけの余裕が出来たのだ。そうなって始めて、右掌の無名指が不安定を訴えだしたことは云うまでもない。そうして、あの解しきれない顫動《せんどう》が起されたという訳なんだよ。ねえ支倉君、闇でなくては見えぬ樺の森を、あの女は指一本で、問わず語らずのうちに告白してしまったのだ。その、(樺の森――彼夢みぬ)とかけて下降していく曲線の中に、なんと遺憾なく、クリヴォフ夫人の心像が描き尽されていることだろう。支倉君、いつぞや君は、詩文の問答をツルヴェール趣味の唱《うた》合戦と云ったことがあったっけね。ところが、どうしてそれどころか、あれは心理学者ミュンスターベルヒに、いやハーバードの実験心理学教室に対する駁論《ばくろん》なんだよ。ああいう大袈裟《おおげさ》な電気計器や記録計などを持ち出したところで、恐らく冷血性の犯罪者には、些細《ささい》の効果もあるまい。まして、生理学者ウエバーのように自企的に心動を止め、フォンタナのように虹彩を自由自在に収縮できるような人物に打衝《ぶつか》った日には、あの器械的心理試験が、いったいどうなってしまうんだろう。しかし僕は、指一本動かさせただけで、また詩文の字句一つで発掘を行い、それから、詩句で虚妄《うそ》を作らせまでして、犯人の心像を曝《あば》き出したのだ」
「なに、詩文で虚妄《うそ》を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と熊城がグイと唾を嚥《の》んで聴き咎《とが》めると、法水は微かに肩を聳《そび》やかせて、莨《たばこ》の灰を落した。彼の闡明《せんめい》は、もうこの惨劇が終ったのではないかと思われたほどに、十分なものだった。法水はまずその前提として、猶太人《ジュウ》特有のものに、自己防衛的な虚言癖のあるのを指摘した。最初に、ミッシネー・トラー経典([#ここから割り注]十四巻の猶太教基本教典[#ここで割り注終わり])中にある、イスラエル王サウルの娘ミカル(註)の故事――から始めて、しだいに現代に下り、猶太人街《ゲット》内に組織されている長老《カガール》組織([#ここから割り注]同種族犯罪者庇護のために、証拠堙滅相互扶助的虚言をもってする長老組織[#ここで割り注終わり])にまで及んだ。そして、終りに法水は、それを民族的性癖であると断定したのであった。ところが、続いてその虚言癖に、風精《ジルフス》との密接な交渉が曝露されたのである。

[#ここから4字下げ]
(註)イスラエル王サウルの娘ミカルは、父が夫ダビデを殺そうとしているのを知り、計を用いて遁《のが》れせしめ、その事露顕するや、ミカルは偽り答えて云う。「ダビデが、もし吾を遁さざれば汝を殺さんと云いしによって、吾、恐れて彼を遁したるなり」――と。サウル娘の罪を許せり。
[#ここで字下げ終わり]

「そういう訳で、猶太人《ジュウ》は、それに一種宗教的な許容を認めている。つまり、自己を防衛するに必要な虚言だけは、許されねばならない――とね。しかし、無論僕は、それだけでクリヴォフを律しようとするのじゃない。僕はあくまで、統計上の数字というものを軽蔑する。だがしかしだ。あの女は、一場の架空談を造り上げて、実際見もしなかった人物が、寝室に侵入したと云った。いかにも、それだけは事実なんだよ」
「ああ、あれが虚妄《うそ》だとは」検事は眉を跳ね上げて叫んだ。
「すると君は、その事をどこの宗教会議で知ったのだね」
「どうして、そんな散文的なもんか」と法水は力を罩《こ》めて云い返した。「ところで、法心理学者のシュテルンに、『|供述の心理学《プシヒョロギー・デル・アウスザーゲ》』という著述がある。ところが、その中であのブレスラウ大学の先生が、予審判事にこういう警語を発しているのだ。――訊問中の用語に注意せよ。何故なら、優秀な智能的犯罪者と云えるほどの者は、即座に相手が述べる言葉のうちの、個々の単語を綜合して、一場の虚妄談を作り上げる術《すべ》に巧みなればなり――と。だから、あの時僕は、その分子的な聯想と結合力とを、反対に利用しようとしたのだよ。そして、試みにレヴェズに向って、風精《ジルフス》に関する問いを発したのだ。では何故かと云うに、僕がそれ以前に図書室を調査した時、ポープ、ファルケ、レナウなどの詩集が、最近に繙《ひもと》かれていたのを知ったからだよ。つまり、ポープの『|髪盗み《レイプ・オヴ・ゼ・ロック》』の中には、風精《ジルフス》について、いかにも虚妄《うそ》を構成するに適《ふさ》わしい記述があるからなんだ。勿論、僕が求めているのは、犯人の天稟学《ベガーブングスレーレ》だったのさ。あの中にある風精《ジルフェ》の印象を一つに集めて、それに観照の姿を浮ばしめる――その狂言の世界だ。けっして、あの狂《きちがい》詩人が、単に一個の想い出の画を描くだけで、満足するものではないと思ったからだ。そこで、僕は固唾《かたず》を嚥《の》んだ。そして、あの陰険酷烈をきわめたクリヴォフの陳述の中から、とうとう犯人の姿を掴まえることが出来たのだよ」と法水の顔には、さも当時の昂奮を回想するような疲労の色が浮んだ。けれども、彼は言《ことば》を次いで、いよいよクリヴォフ夫人を犯人に指摘しようとする、「|髪盗み《レイプ・オブ・ゼ・ロック》」の一文に解析の刀《メス》を下した。
「ところが、その解答はすこぶる簡単なんだよ。『|髪盗み《レイプ・オブ・ゼ・ロック》』の第二節には、風精《ジルフス》の部下である四人の小妖精《フェアリー》が現われる。その第一が Crispissa《クリスピッサ》 で、髪を|櫛けずる《クリスプス》妖精だ。それが、クリヴォフ夫人の洗髪《あらいがみ》を怪しい男が縛りつけた――という個所《ところ》に当る。その次は、Zephyretta《ゼフィレッタ》、すなわちそよ吹く風で[#「そよ吹く風で」に傍点]、その男が扉《ドア》の方へ遠ざかって行く――ところの記述の中に出てくる。それから三番目は、Momentilla《モメンティラ》 すなわち刻々に動くもので[#「刻々に動くもので」に傍点]、眼を覚まして夫人が見ようとしたという枕元の時計に相当するのだ。そして、最後が、Brilliante《ブリリアンテ》 すなわち輝くもの[#「輝くもの」に傍点]だが、それをクリヴォフ夫人は、怪しい男の形容に用いて、眼が真珠のように輝いていた――と云っている。けれども、それにはもう一側面の見方もあって、その真珠《パール》という言葉が、古語で白内障《そこひ》を表わしていることが判ると
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