ォ発作と猶太《ユダヤ》型の犯罪とは、とうてい一致し得べからざるほどに隔絶したものではないか。

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(しかるにワルドシュタインの左翼は、王の右翼よりも遙かに散開しいたれば、王ウイルヘルム侯に命じて戦列を整わしむ。その時、侯は再び過失を演じて、加農砲の使用を遅らしめたり)
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 検事は、相変らず法水を鈍重ウイルヘルム侯に擬して、黙々たる皮肉を続けていたが、熊城はたまらなくなったように口を開いた。
「とにかく、ロスチャイルドでもローゼンフェルトでもいいから、その猶太《ユダヤ》人の顔というのを拝ませてもらおう。それに君は、伸子の発作を偶然の事故に帰してしまうつもりじゃないんだろうね」
「冗談じゃない。それなら伸子は、何故朝の讃詠《アンセム》をあの時繰り返して弾いたのだろう」と法水は語気を強めて反駁《はんばく》した。
「いいかね熊城君、あの女は、非常に体力を要する鐘鳴器《カリリヨン》で、経文歌《モテット》を三回繰り返して弾いたのだ。そうなると、モッソウの『疲労《ディ・エルミュドゥング》』を引き出さなくても、神経病発作や催眠誘示には、すこぶるつきの好条件になってしまう。そこに、あの女を朦朧《もうろう》状態に誘い込んだものがあったのだよ」
「ではなんという化物《ばけもの》だい。だいたい鐘楼の点鬼簿《てんきぼ》には、人間の亡者の名が、一人も記されていないのだからね」
「化物どころか、勿論人間でもない。それが、鐘鳴器《カリリヨン》の鍵盤なんだよ」法水はチカッと装飾音を聴かせて、そこでも二人の意表外に出た。「ところで、これは一つの錯視現象なんだが、例えば一枚の紙に短冊形の縦孔《たてあな》を開けて、その背後で円く切った紙を動かして見給え。その円が激しく動くにつれ、しだいと楕円に化してゆく、ちょうどそれと同じ現象が、上下二段の鍵盤《キイ》に現われたのだ。ところでここに、頻繁《ひんぱん》に使う下段の鍵《キイ》があったとしよう。そうすると、その絶えず上下する鍵《キイ》を、上段の動かない鍵の間から瞶《みつ》めていると、その下段の鍵《キイ》の両端が、上段の鍵の蔭に没していく方の側に歪んでいって、それが、しだいに細くなっていくように見えるのだ。つまり、そういう遠感的な錯視が起ると、それまで疲労によってやや朦朧《もうろう》としかけていた精神が、一途《いちず》に溶け込んでゆく。勿論、それによって固有の発作が起されるのだ。だから熊城君、僕に極言させてもらえるなら、あの時伸子に三回の繰り返しを命じた、その人物が明らかになれば、とりもなおさず犯人に指摘されるのだよ」
「だが、君の理論はけっして深奥じゃない」熊城はここぞと厳しく突っ込んだ。「だいたいその時伸子の瞼を下させたのは? 全身を蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》みたいな、蝋人形のようにしてしまった道程が説明されていない」
[#猫の前肢という結び方の図(fig1317_27.png)入る]
 法水は大風な微笑を泛《うか》べて、相手の独創力の欠乏を憫《あわれ》んでいるかのごとく見えたが、すぐ卓上の紙片に、上図を描いて説明を始めた。
「これが、|猫の前肢《キャッツ・ポー・ノット》と云う、猶太《ユダヤ》人犯罪者特有の結び方なんだよ。そこで熊城君、この結び方一つに、廻転椅子に矛盾を現わした筋識喪失――あの蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》[#ルビの「フレキシビリタス・ツェレア」は底本では「フレキシリビタス・ツェレア」]に似た状態を作り出したものがあったのだ。見たとおり下方の紐を引っ張ると、結び目がしだいに下っていく。けれども、結び目に挾まっている物体が外れると、紐はピインと解《ほど》けて一本になってしまうのだ。だから犯人は、予《あらかじ》めその鍵《キイ》の使用数と最初結び付ける高さを測定しておいてから、その鍵と鐘を打つ打棒とを繋いでいる紐の上方に、鎧通しの束を結び付けておいたのだ。そうすると、演奏が進行するにつれて、鎧通しを廻転させながら、結び目がしだいに下の方へ降っていく。そして、伸子が朦朧状態で演奏している――ちょうど讃詠《アンセム》の二回目あたりで、彼女の眼前を、まるで水芸《みずげい》の紙撚《こより》水みたいに、刃《やいば》の光が閃《ひらめ》き消えながら、横になり縦になりして、鎧通しが下降していったのだ。つまり、明滅する光で垂直に瞼を撫で下す。それを眩惑操作《モノイデジーレン》と云って、催眠中の婦人に閉目させる、リエジョアの手法なんだよ。だから、瞼が閉じられると同時に、蝋質撓拗性《フレキシビリタス・ツェレア》[#ルビの「フレキシビリタス・ツェレア」は底本では「フレキシリビタス・ツェレア」]そっくりに筋識を喪った身体が、たちまち重心を失って、その場去らず塑像《そぞう》のように背後に倒れたのだ。そして、その機《はず》みに、鍵《キイ》と紐を裏側から蹴ったので、鎧通しが結び目から飛び出して床の上に落ちたのだよ。勿論伸子は、発作が鎮まると同時に、深い昏睡に落ちていったのだがね」と検事の毒々しい軽蔑を見返したが、法水は突然《いきなり》悲痛な表情を泛《うか》べて、
「だがしかしだ。伸子はどうして、あの鎧通しを握ったのだろうか。また、あの奇矯変態の極致ともいう倍音演奏が、何故に起されたものだろうか。ああいう想像の限外には、まだ指一本さえ触れることが出来ないのだ」といったんは弱々しげな嘆息を発したけれども、その困憊《こんぱい》げな表情が三たび変って、終《つい》に彼は颯爽《さっそう》たる凱歌を上げた。「いや、僕は天狼星《シリウス》の視差《パララックス》を計算しているのだっけ。またδ《デルタ》もあればξ《クシイ》もある! それ等を、一点に帰納し綜合し去ることが出来ればいいのだ」
 そこで、空気が異様に熱してきた。もはや解決に近いことは、永らく法水に接している二人にとると、それが感覚的にも触れてくるものらしい。熊城は不気味に眼を据え、顔を迫るように近づけて訊ねた。
「では、率直に黒死館の化物を指摘してもらおう。君が云う猶太人《ジュウ》というのは、いったい誰なんだね?」
「それが、軽騎兵ニコラス・ブラーエなんだ」と法水はまず意外な名を述べたが、「ところで、その男がグスタフス・アドルフスに近づいた端緒というのは、王がランデシュタット市に入城した時で、その際に猶太窟門《ジュイッシュ・ゲート》の側《かたわら》で雷鳴に逢い、乗馬が狂奔したのを取り鎮めたからなんだ。そこで支倉君、何よりブラーエの勇猛果敢な戦績を見てもらいたいんだが」と検事が弄《もてあそ》んでいたハートの「グスタフス・アドルフス」を取り上げて、リュッツェン役の終末に近い頁《ページ》を指し示した。と同時に、二人の顔に颯《さっ》と驚愕の色が閃《ひらめ》いた。検事はウーンと呻《うめ》き声を発して、思わず銜《くわ》えていた莨《たばこ》を取り落してしまった。
 ――戦闘は九時間に亙《わた》って継続し、瑞典《スウェーデン》軍の死傷は三千、聯盟軍《イムペリアリスツ》は七千を残して敗走せしも、夜の闇は追撃を阻み、その夜、傷兵どもは徹宵地に横たわりて眠る。払暁に降霜ありて、遁《のが》れ得ざる者は、ことごとく寒気のために殺されたり。それより先日没後に、ブラーエはオーヘム大佐に従いて、戦闘最も激烈なりし四風車地点を巡察の途中、彼の慓悍《ひょうかん》なる狙撃の的となりし者を指摘す。曰《いわ》く、ベルトルト・ヴァルスタイン伯、フルダ公兼大修院長パッヘンハイム……
 そこまで来ると、熊城は顔でも殴《なぐ》られたかのようにハッと身を引いた。そして、容易に声が出なかった。検事はしばらく凝然と動かなかったが、やがてほとんど聴取れないほど低い声で、次句を読みはじめた。
「デイトリヒシュタイン公ダンネベルグ[#「ダンネベルグ」に傍点]、アマルティ公領司令官セレナ[#「セレナ」に傍点]、ああ、フライベルヒの法官《チャンセラー》レヴェズ[#「レヴェズ」に傍点]……」とグッと唾を嚥《の》み込んで、濁った眼を法水に向けた。「とにかく法水君、君が持ち出した、この妖精園の光景を説明してくれ給え。どうも、配役《キャスト》の意味がさっぱり嚥み込めんのだよ――何故リュッツェン役を筋書《プロット》にして、黒死館の虐殺史が起らねばならなかったのだろうか。それに、あるいは杞憂《きゆう》にすぎんかもしれんがね。僕はここに名を載せられていない旗太郎と、クリヴォフとそのどっちかのうちに、犯人の署名《サイン》があるのではないかと思うのだよ」
「うん、それがすこぶる悪魔的な冗談なんだ。考えれば考えるほど、慄然《ぞっ》となってくる。第一、この大芝居を仕組んだ作者というのは、けっして犯人自身ではないのだ。つまりその筋書《プロット》が、あの五芒星呪文の本体なんだよ。リュッツェンの役では、軽騎兵ブラーエとその母体である暗殺者の魔法錬金士オッチリーユとの関係だったものが、この事件に来ると、[#ここから横組み]犯人+X[#ここで横組み終わり]の公式に変ってしまうのだ」と法水は、この妖術めいた符合の解釈を、ぜひなく事件の解決後に移したけれども、続いて凄気を双眼に泛《うか》べて、黒死館の悪魔を指摘した。
「ところで、そのブラーエが、オッチリーユ[#「オッチリーユ」は底本では「オッチリーエ」]からの刺者であることが判ると、そこで、彼の本体を闡明《せんめい》する必要があると思う。それが、|二重の裏切《ダブル・ダブルクロッス》なんだ。旧教徒《カトリック》と対抗して比較的|猶太人《ジュウ》に穏かだったグスタフス王を暗殺したのは、新教徒《プロテスタント》から受けた恩恵と、彼の種族に対するとの両様の意味で、|二重の裏切《ダブル・ダブルクロッス》じゃないか。つまり、ハートの史本にはないけれども、プロシア王フレデリック二世の伝記者ダヴァは、軽騎兵ブラーエを、プロック生れの波蘭猶太人《ポウリッシュ・ジュウ》だと曝《あば》いている。そして、その本名が、ルリエ・クロフマク・クリヴォフ[#「クリヴォフ」に傍点]なんだ!」
 その瞬間、あらゆるものが静止したように思われた。ついに、仮面が剥がれて、この狂気芝居は終ったのだ。常に審美性を忘れない法水の捜査法が、ここにもまた、火術初期の宗教戦争で飾り立てた、華麗きわまりない終局《キャタストロフ》を作り上げたのだった。しかし、検事は未だに半信半疑の面持で、莨《たばこ》を口から放したまま茫然《ぼんやり》と法水の顔を瞶《みつ》めている。それに法水は、皮肉に微笑みながらも、ハートの史本を繰りその頁《ページ》を検事に突き付けた。
(グスタフス王の歿後、ワイマール侯ウイルヘルムの先鋒銃兵《フロント・マスケチーア》ホイエルスヴェルダに現われるに及び、初めて彼が、シレジアに野心ある事明らかとなれり)
「ねえ支倉君、ワイマール侯ウイルヘルムは、その実皮肉な嘲笑的な怪物だったのだよ。しかし、さしもクリヴォフが築き上げた墻壁《しょうへき》すらも、僕の破城槌《バッテリング・ラム》にとれば、けっして難攻不落のものではないのだ」と背後にある大火図の黒煙を、赫《か》っと焔のように染めている、陽の反映を頭上に浴びながら、法水は犯人クリヴォフを俎上《そじょう》に上《のぼ》せて、寸断的な解釈を試みた。
「最初に僕は、クリヴォフを土俗人種学的に観察してみたのだ。勿論イスラエル・コーヘンやチェンバレンの著述を持ち出さなくても、あの赤毛や雀斑《そばかす》、それに鼻梁の形状などが、それぞれアモレアン猶太人《ジュウ》([#ここから割り注]最も欧羅巴(ヨーロッパ)人に近い猶太人の標型[#ここで割り注終わり])の特徴を明白に指摘しているものだと云える。しかしそれを、より以上確実にしているのが、猶太人特有ともいう猶太王国恢復《ザイオニック・シムボリズム》の信条なんだ。猶太人《ジュウ》がよく、その形をカフス釦《ボタン》や|襟布止め《ネクタイ・ピン》に用いているけれども、そのダビデの楯(※[#正三角形と逆正三角形が組み合わさった六芒星
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