A右眼の白内障《そこひ》が因で舞台を退いた押鐘津多子が、それに髣髴《ほうふつ》となってくるのだ。しかし、いずれにしても、そういうクリヴォフ夫人の心像を、さらに結論として確実にするものがあった。つまり、ある一点に向って、以上四つの既知数が綜合されていったのだが……それは、ほかでもない夫人固有の病理現象――すなわち脊髄癆なんだよ。あの時クリヴォフ夫人は、眼を醒ました時に、胸のあたりで寝衣《ねまき》の両端が止められていたように感じた――と云った。けれども、あの病特有の輪状感覚([#ここから割り注]胸部に輪形のものが繞っているように覚えるという一徴候[#ここで割り注終わり])を考えると、そういう装飾めいた陳述をした原因が、あるいは、日常経験している感覚から発しているのではないかと疑われてくるだろう。それを僕は、あの虚言を築き上げた根本の恒数《コンスタント》だと信じているのだ」
熊城は凝然《じいっ》と考えに沈みながらしばらく莨《たばこ》を喫《ふ》かしていたが、やがて法水に向けた眼には、濃い非難の色が浮んでいた。しかし、彼は稀《めず》らしく静かに云った。
「なるほど、君の云う理論はよく判った。けれども、なにより僕等が欲しいのは、たった一つでも、完全な刑法的意義なんだよ。つまり、天狼星《シリウス》の最大視差《マキシマム・パララックス》よりも、それを構成している物質の内容なんだ。云い換えれば、それぞれの犯罪現象に、君の闡明《せんめい》を要求したいのだよ」
[#十二宮の円華窓の図(fig1317_29.png)入る]
「それでは」法水は満足そうに頷《うなず》いて、事務机の抽斗《ひきだし》から一葉の写真を取り出した。「いよいよ最後の切札を出すことにするかな。ところでこの写真は、鐘鳴器《カリリヨン》室の頭上に開いている十二宮の円華窓《えんげまど》なんだが、僕は一瞥《いちべつ》すると同時に、気がついた。これもまた、棺龕《カタファルコ》十字架と同様、設計者クロード・ディグスビイが残した秘密記法《クリプトグラフィー》だ――と。何故なら、通例では、春分点のある白羊宮《アリエス》が円の中心になっているのだけれども、これには磨羯宮《カプリコルヌス》が代っている。また、縦横に馳《は》せ違っているジグザグの空隙にも、鐘鳴器《カリルロン》の残響を緩和するという性能以外に、なんらかの意味がなくてはならぬと考えたからだ。ところが熊城君、元来|十二宮《ゾーディアック》なんてものは、古来からありふれている迷信上の産物にすぎない。第一、文字暗号ではないのだから、肝腎《かんじん》の|秘密ABC《キイ・ウァード》を発見するのに必要な資料が、これにはてんで与えられていないのだ。しかし、僕はランジイ([#ここから割り注]マクベス、ジイヴィルジュ等と並ぶ斯道の大家。一九一八年、“Cryptographie”を発表す[#ここで割り注終わり])じゃないがね。仮定す――という慣用語は、まさに解読家にとって金科玉条に等しいと思うのだよ。何故なら※[#「冂+夂」に似た形(fig1317_30.png)、276−17](処女宮《ヴィルゴ》)とか※[#「Ω」に似た形(fig1317_31.png)、276−17](獅子宮《レオ》)とか云うように、十二宮《ゾーディアック》固有の符号はあるけれども、僕は猶太釈義法《カバリズム》をそれに当てて見たのだ。つまり一八八一年の猶太人虐殺《ポグロム》の際に、波蘭《ポーランド》グロジスクの町の猶太人《ジュウ》が十二宮《ゾーディアック》に光を当てて、隣村に危急をしらせたという史実があるほどだし……、それに、ブクストルフ([#ここから割り注]ヨハンまたはヨハネス、一五六四―一六二九。瑞西バーゼルの人。その子とともに大ヘブライ学者[#ここで割り注終わり])の「希伯来略語考《デ・アブレヴィアトゥリス・ヘブライキス》」を見ると、それには、Athbash《アトバシュ》 法・Albam《アルバム》 法・Atbakh《アトバク》 法([#ここから割り注]Athbash 法―ヘブライABCの第一字アレフの代りに、その最後の字タウを当て、また第二位のベートの代りに、最終から二番目のシンを当て、以下それに準ずる記法。Albam 法―ヘブライABCを二つに区分し、アレフの代りに後半の第一字ラメドを当てる方法。Atbakh 法―各文字を、その数位の順に従って置き換える方法[#ここで割り注終わり])をはじめ、天文算数に関する数理義法《カバラ》が記されている。そして、古代|希伯来《ヘブライ》の天文家が、獅子宮《レオ》の大鎌形とか処女宮《ヴィルゴ》のY字形などに、希伯来《ヘブライ》文字の或るものを当てていたという記録が残っているからだ。もちろんその中には、現在のABC《アルファベット》に語源をなすものがある。けれども、十二宮《ゾーディアック》全部となると、そういう形体的な符号の記されてないものが四つあって、そこで僕は、思いがけない障壁に打衝《ぶつか》ってしまったのだよ。しかし、猶太式秘記法を歴史的にたどってゆくと、十六世紀になって、猶太《ユダヤ》労働組合とフリーメーソン結社([#ここから割り注]フリーメーソン結社――。衆知の名称なれども、この結社の本体は秘密会議にあり、それが明白なるが猶太的団体であることは、メーソン教会の床に「ダビデの楯」の図を塗り潰したものを描き、また、それが定規とコムパスのメーソン記象にも母体となり、さらに、死亡広告欄を飾る八星形が、猶太教会の彩色硝子窓に用いられているのを見ても明らかなり[#ここで割り注終わり])暗号法の中に、その欠けた部分を補うものが発見されたのだ。ねえ熊城君、驚くべきことには、この十二宮《ゾーディアック》の中に、猶太《ユダヤ》秘密記法史の全部が叩き込まれている。そうなると、あの不可解な人物クロード・ディグスビイをウエールス生れの猶太《ジュウ》だとするに異議はあるまい。言葉を換えて云うと、この事件には隠顕両様の世界にわたり、二人の猶太人《ジュウ》が現われていることになるのだよ」とそれから法水は、一々星座の形に希伯来《ヘブライ》文字を当てながら、十二宮《ゾーディアック》の解読を始めた。
[#十二宮の解読図(fig1317_32.png)入る]
すなわち、人馬宮《サギッタリウス》の弓には※[#ヘブライ文字「SHIN」(fig1317_33.png)、277−17]《シン》、天蝎宮《スコルピウス》には※[#ヘブライ文字「LAMED」(fig1317_34.png)、277−17]《ラメド》、処女宮《ヴィルゴ》のY字形には※[#ヘブライ文字「AYIN」(fig1317_35.png)、277−17]《アイン》、獅子宮《レオ》の大鎌形には※[#ヘブライ文字「YOD」(fig1317_24.png)、277−18]《ヨッド》、双子宮《ゲミニ》の双児《ふたご》の肩組みには※[#ヘブライ文字「HE」(fig1317_36.png)、277−18]《ヘ》、勿論|金牛宮《タウルス》は、主星アルデバランの希伯来《ヘブライ》称「|神の眼《アレフ》」どおりに、第一位の※[#アレフ、1−3−60]《アレフ》となる。それから双魚宮《ピスケス》は、カルデア象形文字に魚形の語源があって※[#ヘブライ文字「NUN」(fig1317_37.png)、278−2]《ヌン》。そして、最後の宝瓶宮《アクアリウス》の水瓶《みずがめ》形が※[#ヘブライ文字「TAV」(fig1317_38.png)、278−2]《タウ》となって、それで、形体的解読の全部が終るのである。さてそうしてから、その八つの希伯来《ヘブライ》文字を、それぞれに語源をなしている現在のABC《エービーシー》に変えてゆくと([#ここから割り注]以下既記の順序どおり[#ここで割り注終わり])、結局(S. L. Aa. I. H. A. N. T.)となるけれども、まだ、十二宮《ゾーディアック》には、磨羯宮《カプリコルヌス》・天秤宮《リプラ》・巨蟹宮《カンセル》・白羊宮《アリース》と、以上の四座が残されている。それに法水は、上図どおりのフリーメーソンABC《エービーシー》を当てたのだ。
それによると、磨羯宮《カプリコルヌス》のL形がB、天秤宮《リプラ》の※[#「長方形」(fig1317_39.png)、278−8]形がD、巨蟹宮《カンケル》の※[#「□<・」(fig1317_40.png)、278−8]形がR、そして、白羊宮《アリエス》の※[#「Π」に似た形(fig1317_41.png)、278−9]がEとなる。それを、さらに法水は、フリーメーソン暗号のもう一つの法である交錯線《ジグザグ》式([#ここから割り注]ジグザグ記法―。この方法は、アテネの戦術家エーネアスが、自著 Poliorcetes 中の第三十一章に記載せしに始まる。方眼紙にABCを任意に排列し、それを先方に通じて置いて、通信は、それを連らねるジグザグの線のみを以てす[#ここで割り注終わり])を用いて、磨羯宮《カプリコルヌス》のBから始まっている線状の空隙を辿っていった。そうして、ついに混乱を整理して、秘密ABCの排列を整えることが出来た。そこに、検事と熊城は、不意に迷路の彼方で闇黒界の中に差し込んできた一条の光明を認めたのであった。その神々しい光は、この事件に犯罪現実として現われた、十指にあまる非合理性を、必ずや転覆するものに相違ないのである。法水の驚嘆すべき解析によって、黒死館殺人事件は、ついに絶望視されていた終幕に入ったのではあるまいか。何故なら、その解答が Behind stairs《ビハインド・ステイヤス》 すなわち大階段の裏[#「大階段の裏」に傍点]だったからだ。解読を終ると法水は静かに云った。
「そこで、大階段の裏――という意味を詮索してみたが、それには、ほとんど疑惑を差し挾む余地はない。あそこには、テレーズ人形を入れてある室と、それに隣り合っている小部屋しかないからだ。それに、恐らくその解答も、大時代な秘密築城《ボーデルヴィッツ》風景にすぎまいと思うね――隠扉《かくしど》、坑道。ハハハハハ、だいたいどういう意志で、ディグスビイが十二宮《ゾーディアック》に秘密記法を残したろうと、そんなことはこの際問題ではない。サア、さっそくこれから黒死館に行って、クリヴォフの|肉附け《モデリング》をやろうじゃないか」と法水が喫《す》いさしを灰皿の上で揉み潰すと、検事は少女《おとめ》のように顔を紅くして、法水に云った。
「ああ、今日の君はロバチェフスキイ([#ここから割り注]非ユークリッド幾何の創始者[#ここで割り注終わり])だよ。いかにも、天狼星《シリウス》の最大視差《マキシマム・パララックス》が計算されたのだから!」
「いや、その功労なら、シュニッツラーに帰してもらおう」法水はすこぶる芝居がかった身振をして、「不在証明《アリバイ》、採証、検出――もうそんなものは、維納《ウインナ》第四学派以後の捜査法では意味はない。心理分析《プシヒョアナリーゼ》だ。犯人の神経病的天性を探ることと、その狂言の世界を一つの心像鏡として観察する――その二点に尽きる。ねえ支倉君、心像《ゼーレ》は広い一つの国じゃないか。それは混沌《ダス・カーオス》でもあり、|またほんの作りもの《ヌール・キュンストリッヘス》でもあるのだ」とシュニッツラーを即興的に焼直したのを口吟《くちずさ》んでから、彼は一つ大きな伸びをして立ち上った。
「サア熊城君、終幕の緞帳《カーテン》を上げてくれ給え。恐らく今度の幕が、僕の戴冠式になるだろうからね」
ところがその時、喝采が意外な場所から起った。突然電話の鈴《ベル》が鳴って、その一瞬を境に、事態が急転してしまった。クリヴォフ夫人に帰納されていった法水の超人的な解析も、この底知れない恐怖悲劇にとっては、たかが一場の間狂言《ツヴィッシェンシュピール》にすぎなかったのである。法水は、静かに受話器を置いた。そして、血の気の失せきった顔を二人に向けて、なんとも云えぬ悲痛
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