「よ。外側に向いている角が[#「外側に向いている角が」に傍点]、見るとおりに少し開いている[#「見るとおりに少し開いている」に傍点]」
「ああなるほど、毛髪《かみのけ》と鍵の角度に水! これは、博学なる先生に御挨拶申し上げます。すこぶる汗をかかされたものですわい」
 と同じく洒落《しゃれ》た口調で、検事もメフィストの科白《せりふ》で相槌《あいづち》を打ったけれども、それには、犯人と法水と、両様の意味で圧倒されてしまった。……あの夜ダンネベルグ夫人が死体となった室《へや》の扉《ドア》には、鍵孔に注ぎ込んだ水の湿度によって毛髪が伸縮し、自働的に開閉されるデイ博士の隠顕扉装置が秘められてあった。ところが、それに必要な水と毛髪とが、カルデア古呪文の中に隠されていたのは未だしもの事で、より以上の驚きと云うのは、ほかにあったのだ。それは、その装置を力学的に奏効させるところの落し金の角度が、物もあろうに機械図のような精密さで、五芒星の封鎖を破ったメフィストの科白《せりふ》の中に示されていた事である。そうなると、勿論その方程式は、事件中最大の疑問と云われる次の風精《ジルフス》に向って追及されねばならなかった。が、その解答を求めた検事の顔には、痛々しいまでの失意が現われた。
「すると、鐘鳴器《カリリヨン》室の風精《ジルフス》が、あの倍音演奏とどんな関係があるのだね。そのλ《ラムダ》は、θ《シータ》は?」と検事が喘《あえ》ぐように訊ねると、法水はにわかに態度を変えて、悲劇的に首を振った。
「冗談じゃない。どうしてあれが、そんな遊戯的衝動の産物なもんか。あれには、悪魔の一番厳粛な顔が現われているんだよ。ねえ、そうじゃないか支倉君、没頭と酷使とからは、きまって恐ろしいユーモアが放出されるんだぜ。だから、あの風精《ジルフス》のユーモアは、今のような論理追求だけで潰《ひしゃ》げてしまうようなしろものじゃない。きっと水精《ウンディヌス》などとは似ても似つかぬほど、狂暴的な幻想的《ファンタスチック》なものに違いないのだ。それに、元来あの風精《ジルフス》と云うのが、|眼には見えぬ気体の精《インヴィジブル・フェアリー》なんだからね。したがって、どこぞという特徴もないのだ」とむしろ冷酷に突き放してから、熊城の方を向くと、彼は満面に殺気を泛《うか》べて云い放った。
「つまり、きっと犯人の冷笑癖《シニシズム》が、結局自分の墓穴を掘ってしまったのだよ。試しに水精《ウンディヌス》と、性別転換の行われてない火精《ザラマンダー》とを比較して見給え。必ずその解答が、前例の二つとはてんで転倒した犯行形式に違いないのだ。犯人は隠微な手段を藉《か》らずに、堂々と姿を現わして、ブラッケンベルグ火術の精華を打ち放すだろう。勿論標尺と引金を糸で結び付けて、反対の方向へ自働発射を試みるようなことはやらんだろうし、汁で縮むレットリンゲル紙を指に巻いて、引金に偽造指紋を残すような陋劣《ろうれつ》な手段にも出まい。云わば、いっさいの陰険策を排除した騎士道精神なんだよ。しかし、僕等にもしこの用意がなかった日には、前例の二つに現われている、複雑微妙な技巧に慣れた眼で、必ずや錯覚を起すに違いないのだ。つまり、そこに犯人が目論《もくろ》んだ、反対暗示があると云う訳だが、……今度こそは嗤《わら》い返してやるぞ」
 勿論その一言は、今後の護衛方法に決定的な指針を与えるものに相違なかった。けれども、こうして法水の知脳が、次回の犯罪において全く犯人の機先を制したかのように見え、ことに火精《ザラマンダー》の一句が、結局犯人の破滅を引き出すかの観を呈したのだったけれども、従来《これまで》彼対犯人の間に繰り返されていった権謀術策の跡を顧《かえり》みると、法水の推断を底とするのが、まだまだ早計のようにも思われるではないか。しかし、五芒星呪文に対する彼の追及は、けっしてそれのみには尽きなかったのである。
「しかし、まだまだ僕は、あの五芒星呪文に、もっと深いところに内在している、核心のものがあると信じていたのだ。つまり、この事件の生因と関聯している、サア、犯罪動機と云うよりも、まだもっと深奥のものかもしれない。いや、もう少し広い意味で云うと、黒死館の地底には、一面に拡がっている幾つかの秘密の根がある。それが盤根錯綜として重なり合っている個所《ところ》の形状を、何かの動機で知ることが出来はしまいかと考えたのだ。それで、試みに様々の角度を使って、一々あの呪文を映してみたのだよ」とそこまで云うと、法水はさすがに疲労の色を泛べて、昨日一日を費やした凄愴な努力を語るのだった。
 それによると、犯人を一種の展覧狂と信じている法水は、最初伝説学に考察の矢を向けたのだった。アナトール・ル・ブラの「ブリトン伝説学」やガウルドの「オールド・ニック」までも渉猟《しょうりょう》して、性別転換の深奥に潜んでいて犯罪動機に符合するもの[#「犯罪動機に符合するもの」に傍点]を、中欧|死神《アンカウ》口碑の中に見出そうとした。また、シェラッハウヘンの「シュワルツブルグ城」その他から、妖精の名称に関する語源学的な変転を知ろうとした。つまり、水精《ウンディヌス》と水魔《ニックス》との間に一致があれば、女神フリーヤー([#ここから割り注]すなわちニケーアあるいはニックスと一体で善悪二様の化身のあるヴォーダン神の妻[#ここで割り注終わり])の化身と云われる白夫人《ホワイト・レディ》伝説のなかに、異様な二重人格的意義[#「異様な二重人格的意義」に傍点]を発見できはしまいかと考えたからである。さらに、「Volksbuch《フォルクスブッフ》」やゴットフリート([#ここから割り注]フォン・シュトラスブルグ[#ここで割り注終わり])の神秘詩や、ハーゲンやハイステルバッハ、それから、ゲーテの「|ファウスト第一稿《ウル・ファウスト》」と第二稿、第三稿との比較も試みたけれども、結局その第一稿《ウル・ファウスト》には、第二稿以下には判然としていない地霊《エルデガイスト》([#ここから割り注]すなわち、ウンディネ・ジルフェ・サラマンダー・コボルトを眷族とする大自然の精霊[#ここで割り注終わり])が、壮大な哲学的な姿を出現させているのみであった。しかし、この五芒星呪文に関する法水の解説は、むしろ講演《レクチュア》に等しかった。それなので、ジリジリ緊迫の度を高めていた空気がしだいに緩んでいって、背中に陽をうけている二人の間には、ぽかぽかした雲のような眠気が流れはじめた。検事は皮肉な嘆息をして云った。
「とにかく、この一事だけは断っておこうよ――この席上が弾薬塔《プルヴェル・トゥルム》だということをね。とにかくそういう話は、いずれ薔薇園《ローゼン・ガルテン》でやってもらうことにしようじゃないか」
 ところが、次の瞬間法水の顔にサッと光耀が閃《ひらめ》いていて、突如鉄鞭のように、凄じい唸《うな》りが惰気を一掃したのである。彼は、甘そうに莨《たばこ》を二、三度吸うと云った。
「冗談じゃないぜ、こんなに素晴らしい|魔王の衣裳《エルケーニッヒ・コスチュウム》が、弾薬塔《プルヴェル・トゥルム》や砲壁《バルバカン》の中にあってたまるもんか。支倉君、僕の魔法史的考察はついに徒労ではなかったのだ。散々《さんざん》ぱら悩まされた五芒星呪文の正体が、ものもあろうに、ルイ十三世朝|機密閣《ブラック・キャビネット》史の中から発見されたのだよ。いや言葉を換えて云おう。当時不即不離の態度だったけれども、新教徒の保護者グスタフス・アドルフス(瑞典《スウェーデン》王)と対峙していたのが、有名な僧正宰相リシュリュウだったのだ。実にこの事件の本体が、あの陰険きわまりない暗躍の中に尽されているのだよ。ところで支倉君、君は、リシュリュウ機密閣《ブラック・キャビネット》の内容を知っているかね。暗号解読家のフランソア・ヴィエトやロッシニョールは? 錬金魔法師兼暗殺者のオッチリーユは? つまり、問題はこの悪党僧正《ブラック・モンク》オッチリーユにあるのだが……ああ、なんという薄気味悪い一致だろうか。被害者の名も[#「被害者の名も」に傍点]、犯人の名も[#「犯人の名も」に傍点]、あの竜騎兵王を斃したリュッツェン役の戦歿者中に現われているのだがね[#「あの竜騎兵王を斃したリュッツェン役の戦歿者中に現われているのだがね」に傍点]」

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(註)一六三一年瑞典王グスタフス・アドルフスは、独逸《ドイツ》新教徒擁護のために、旧教聯盟とプロシァにおいて戦い、ライプチッヒ、レッヒを攻略し、ワルレンシュタイン軍とリュッツェンにて戦う。戦闘の結果は彼の勝利なりしも、戦後の陣中においてオッチリーユが糸を引いた一軽騎兵のために狙撃せられ、その暗殺者は、ザックス・ローエンベルグ侯のためその場去らずに射殺せらる。時に、一六三二年十一月十六日。
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 瞬間検事と熊城は、自分ではどうにもならない眩惑の渦中に捲き込まれてしまった。犯人の名――それはすなわち、この事件の緞帳《カーテン》が下されるのを意味する。しかし、古今東西の犯罪捜査史をあまねく渉猟したところで、とうてい史実によって犯人が指摘され、事件の解決が下されたなどという神話めいた例《ため》しが、従来《これまで》にわずかそれらしい一つでもあったであろうか。それであるからして、二人は駭《おどろ》き呆れ惑い、ことに検事は、猛烈な非難の色を泛《うか》べて、実行不可能の世界に没頭してゆく法水を、厳然と極めつけるのだった。
「ああまた、君の病的精神狂乱かね。とにかく、洒落《しゃれ》はやめにしてもらおう。壺兜や手砲《ハンド・キャノン》で事件の解決がつくと云うのだったら、まず、そういう史上空前の証明法を聴こうじゃないか」
「勿論刑法的価値としては、完全なものじゃないさ」と法水は烟《けむり》を靡《なび》かせて、静かに云った。「しかし、最も疑われてよい顔が、僕等を惑わしていた多くの疑問の中に散在しているんだ。つまり、その一つ一つから共通した因子《ファクター》が発見され、しかも、それ等をある一点に帰納し綜合し去ることが出来たとしたらどうだろう。またそうなったら君達は、強《あなが》ちそれを、偶然の所産だけとは考えないだろうね」と云って、卓子《テーブル》をガンと叩き、強調するものがあった。「ところで僕は、この事件を猶太的犯罪《ジュウイッシュ・クライム》だと断定するが、どうだ!」
「猶太《ジュウ》――ああ君は何を云うんだ?」熊城は眼をショボつかせて、からくも嗄《しゃが》れ声を絞り出した。恐らく彼は、雷鳴のような不協和の絃の唸《うな》りを聴く心持がしたことであろう。
「そうなんだ熊城君、君は猶太《ユダヤ》人が、ヘブライ文字の※[#アレフ、1−3−60]《アレフ》から※[#ヘブライ文字「YOD」(fig1317_24.png)、250−3]《ヨッド》までに数を附けて、時計の文字盤にしているのを見たことがあるかね。それが、猶太人の信条なんだよ。儀式的の法典を厳格に実行することと、失われた王国《ツィオン》の典儀を守ることだ。ああ、僕だってそうじゃないか。どうして今までに、土俗人種学がこの難解きわまる事件を解決しようなどと考えられたろうか。とにかく、支倉君の書いた疑問一覧表を基礎にして、あの薄気味悪い|赤い眼《シリウス》の視差《パララックス》を計算してゆくことにしよう」と法水の眼の光が消えて、卓上のノートを開きそれを読みはじめた。

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一、四人の異国楽人について[#「一、四人の異国楽人について」は太字]
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被害者ダンネベルグ夫人以下四人が、いかなる理由の下に幼少の折渡来したか、また、その不可解きわまる帰化入籍については、いささかの窺視《きし》も許されない。依然鉄扉のごとくに鎖されている。
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二、黒死館既往の三事件[#「二、黒死館既往の三事件」は太字]
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同じ室において三度にわたり、いずれも動機不明の
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