ゥ殺事件に対して、法水はまったく観察を放棄しているようである。ことに、昨年の算哲事件については、真斎を恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》する具には供しているけれども、はたして彼の見解のごとく、本事件とは全然別個のものであろうか。法水が黒死館の図書目録の中から、ウッズの「王家の遺伝」を抽き出したのは、その古譚めいた連続を、彼は遺伝学的に考察しようとするのではないか。
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三、算哲と黒死館の建設技師クロード・ディグスビイの関係[#「三、算哲と黒死館の建設技師クロード・ディグスビイの関係」は太字]
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算哲は薬物室の中に、ディグスビイより与えらるべくして果されなかった、ある薬物らしいものを待ち設けていた。その意志を、一本の小瓶に残している。また法水は、棺龕《カタファルコ》十字架の解読よりして、ディグスビイに呪詛の意志を証明している。以上の二点を綜合すると、黒死館の建設前すでに、両者の間には、ある異様な関係が生じていたのではないだろうか。
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四、算哲とウイチグス呪法[#「四、算哲とウイチグス呪法」は太字]
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ディグスビイの設計を、算哲は建設後五年目に改修している。その時、デイ博士の隠顕扉や黒鏡魔法の理論を応用した古代時計室の扉が生れたのではないかと思われる。しかしながら、算哲の異様な性格から推しても、とうていそれ等中世異端的弄技物が、上記の二つに尽きるとは信ぜられぬ。そして、歿後直前に呪法書を焚いたことが、今日の紛糾混乱に因を及ぼしているのではないかと、推測するがいかが?
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五、事件発生前の雰囲気[#「五、事件発生前の雰囲気」は太字]
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四人の帰化入籍、遺言書の作成と続いて、算哲の自殺に逢着すると、突如|腥《なまぐさ》い狹霧《さぎり》のような空気が漲りはじめた。そして、年が改まると同時に、その空気にいよいよ険悪の度が加わっていったと云われる。あながちその原因が、遺言書を繞《めぐ》る精神的葛藤のみであるとは思われぬではないか。
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六、神意審問会の前後[#「六、神意審問会の前後」は太字]
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ダンネベルグ夫人は、死体蝋燭が点ぜられると同時に、算哲と叫んで卒倒した。また、その折易介は、隣室の張出縁に異様な人影を目撃したと云う。けれども、列席者中には、誰一人として室を出たものはなかったのである。そして、その直下に当る地上には、人体形成の理法を無視した二条の靴跡が印され、その合流点に、これもいかなる用途に供されたものか皆目見当のつかない、写真乾板の破片が散在していた。以上四つの謎は時間的には近接していても、それぞれ隔絶した性質を持っていて、とうてい集束し得べくもない。
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七、ダンネベルグ事件[#「七、ダンネベルグ事件」は太字]
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屍光と降矢木の紋章を刻んだ創紋――。まさに超絶的眺望である。しかも法水は、創紋の作られた時間が僅々一、二分にすぎぬと云う。さらに彼の説として、その二つの現象を、〇・五の青酸加里(ほとんど毒殺を不可能に思わせる程度の薬量)を含んだ洋橙《オレンジ》が、被害者の口中に入り込むまでの道程に当てている。すなわち、不可能を可能とさせる意味の補強作用であり、その結果の発顕にほかならぬと推断している。しかし、彼の観察誤りなしとしても、それを証明し犯人を指摘することは、要するに神業ではないか。しかも、家族の動静には、一見の特記すべきものもなく、洋橙の出現した経路も全然不明である。
テレーズの弾条人形――。断末魔にダンネベルグ夫人は、この邪霊視されている算哲夫人の名を紙片にとどめた。そして、現場の敷物の下には、人形の足型が、扉を開いた水を踏んでまざまざと印されている。しかし、その人形には特種の鳴音装置があって、附添いの一人久我鎮子は、その鈴のような音を耳にしなかったと陳述しているのだ。勿論法水は、人形の置かれてあった室の状況に一抹《いちまつ》の疑念を残しているけれども、それは彼自身においても確実のものではなく、すなわち、否定と肯定との境は、その美しい顫音《せんおん》一筋に置かれてあると云っても過言ではない。
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八、黙示図の考察[#「八、黙示図の考察」は太字]
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法水がそれを特異体質図と推定しているのは、明察である。何故なら、自体の上下両端を挾まれている易介の図が、彼の死体現象にも現われているではないか。しかし、伸子の卒倒している形が、セレナ夫人のそれを髣髴《ほうふつ》とさせるのは、何故であろうか。また法水が、象形文字から推定して、黙示図に知られない半葉があるとするのは、仮令《たとい》論理的であるにしても、すこぶる実在性に乏しく、結局彼の狂気的産物と考えるほかにない。
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九、ファウストの五芒星呪文[#「九、ファウストの五芒星呪文」は太字](略[#「略」は太字])
十、川那部易介事件[#「十、川那部易介事件」は太字]
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法水の死因|闡明《せんめい》は、同時に甲冑を着せしめたところに、犯人の所在を指摘している。それを時間的に追及すると、伸子にのみ不在証明《アリバイ》がない。しかも伸子は、その咽喉《のど》を抉《えぐ》った鎧通《よろいどお》しを握って失神し、なお、奇蹟としか考えられない倍音が、経文歌《モテット》の最後の一節において発せられている。それ以外に疑問の焦点とでも云いたいのは、はたして犯人が、易介を共犯者として殺害したか否かであって、勿論容易な推断を許さぬことは云うまでもないのである。結局、その曲折紛糾奇異を超絶した状況から推しても、しだいに、伸子の失神を犯人の曲芸的演技とする点に綜合されてゆくけれども、しかし、公平な論断を下すなれば、依然として紙谷伸子は、ただ一人の、そして、最も疑われてよい人物であることは勿論である。
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十一、押鐘津多子が古代時計室に幽閉されていた事[#「十一、押鐘津多子が古代時計室に幽閉されていた事」は太字]
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これこそ、まさしく驚愕《きょうがく》中の驚愕である。しかも、法水が死体として推測したものが、解し難い防温を施されて昏睡していた。勿論、彼女が何故に、自宅を離れて実家に起居していたか――という、その点を追及する必要は云うまでもないが、しかし、犯人が津多子を殺害しなかった点に、法水は危惧《きぐ》の念を抱いて陥穽《かんせい》を予期している。けれども、易介が神意審問会の最中隣室の張出縁で目撃した人影と云うのは、絶対に津多子ではない。何故なら、当夜八時二十分に、真斎が古代時計室の文字盤を廻して、鉄扉を鎖したからである。
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十二、当夜零時半クリヴォフ夫人の室に闖入したと云われる人物は[#「十二、当夜零時半クリヴォフ夫人の室に闖入したと云われる人物は」は太字]?
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ここに易介の目撃談――宵に張出縁へ出現して、あのいかにも妖怪めいた不可視的人物が、夜半クリヴォフ夫人の室《へや》にも姿を現わしたのだった。夫人の言によれば、それはまさしく男性であって、しかもあらゆる特徴が、身長こそ異にすれ旗太郎を指摘している。しかりとすれば、伸子が覚醒の瞬間に認《したた》めた自署に、降矢木という姓を冠せている。それを、グッテンベルガー事件に先例のある潜在意識と解釈すれば、伸子を倒したとする風精《ジルフェ》の正体には、最も旗太郎の姿が濃厚である。そして、その推定が、伸子の露出的な失神姿体と撞着するところに、この事件最大の難点が潜んでいるのではあるまいか。
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十三、動機に関する考察[#「十三、動機に関する考察」は太字]
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すべてが、遺産を繞《めぐ》る事情に尽きている。第一の要点は、四人の異国人の帰化入籍によって、旗太郎の白紙的相続が不可能になった事である。次に、旗太郎以外ただ一人の血縁が、すなわち押鐘津多子を除外している点に注目すべきであろう。したがって、旗太郎対三人の外人の間には、すでに回復し難い程度の疎隔を生じているけれども、何よりこの一つの大きな矛盾だけは、どうすることも出来ない。すなわち、動機を持つ者には、現象的に嫌疑とすべきものがなく、伸子のごとき犯人を髣髴とさせる者には、その反対に動機の寸影すら見出されないのである。
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読み終ると、法水はそれを卓上に拡げて、まずその第七条(屍光と創紋の件《くだり》)の上に指頭を落した。その頃には、欄間の小窓から入って来る陽差が、「倫敦《ロンドン》大火之図」の――ちょうどテムズ河の真上|附近《あたり》にまで上っていて、頭上の黒煙に物々しい生動を起しはじめた。それでなくても検事と熊城は、唇が割れ唾液が涸《かわ》いて、ただひたすらに、法水の持ち出した奇矯転倒の世界が、一つ大きな蜻蛉《とんぼ》がえりを打って、夢想の翼を落してしまう時機を夢見るのだった。そういう異様に殺気立った空気の中で、法水は新しい莨《たばこ》に火を点じ、徐《おもむ》ろに口を開いた。
「ところで、最初にあの不思議な屍光と創紋だが、問題は依然として、その循環論的な形式にあるのだ。あの洋橙《オレンジ》がどういう経路を経て、ダンネベルグ夫人の口の中に飛び込んでいったのか――その道程が判然《はっきり》しない限りは、依然実証的な説明は不可能だと思うね。けれども、その屍光と創紋の発生に似た犯罪上の迷信が、有名な『猶太《ユダヤ》人犯罪の解剖的証拠論(ゴルトフェルト著)』の中に記録されているのだ」とその一冊を書架から引き出したが、それには猶太的犯罪風習が、簡略な例註として記されているのみだった。
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一八一九年十月の或る夜、ボヘミア領ケーニヒグレーツ在の富裕な農夫が、寝台の上で心臓を貫かれ、その後に室内から発火して、死体とともに焼き捨てられたという惨事が起った。そして、それには通行者の証言があって、ちょうどその夜の十一時半に、わずかに隙いた窓掛《カーテン》の間から、被害者が十字を切っているのを目撃したと陳述する者が現われてきた。そうなると、兇行時刻が十一時半以後となって、最も深い動機を持っていると目されていた、猶太《ユダヤ》人の一製粉業者に、計らずも不在証明《アリバイ》が出来てしまった。したがって、事件はそれなり迷霧に鎖されてしまったのである。ところがその半年後になって、ようやくプラーグ市の補助憲兵デーニッケによって犯人の奸計が曝露され、やはり最初の嫌疑者である、猶太人の製粉業者が捕縛されるに至った。しかも、発覚の原因をなしたものは、ハムラビ経典の解釈から発している、猶太固有の犯罪風習にすぎなかった。すなわち、死体もしくは被害の個所を、周囲に蝋燭《ろうそく》を立てて照明すると、それで犯罪が、永久発覚しないという迷信が端緒だったのである。勿論その蝋燭が、火災の原因だったことは云うまでもないであろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#ボヘミア周辺地図の図(fig1317_25.png)入る]
ああ開幕当初の場面に、法水はなんと生彩に乏しい例証を持ち出したことであろうか。けれども、続いて彼が、それに私見を加えて解答を整えると、偶然その独創の中から、さしも循環論の一隅に破られんばかりの光が差しはじめた。
「ところで、あの一文だけでは、憲兵《ゲンダルム》デーニッケの推理経路がいっこうに不明だけれども、僕はそれに解析を試みたのだ。死体を囲んだと云われる蝋燭の数は、その実五本だったのだよ。しかも、死体に十字を切らせるためには、それで死体を囲まずに、削ぎ竹のように片側の蝋を削いだ丈の短い四本を周囲《まわり》に並べて、その中央に、全長の半ばほどの蝋を取り除いて長い芯だけにした一本を置き、それを囲ませなければならなかった。何故なら、風鶏計《かざみ》の四本
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