ッい》が潜んでいるのは勿論のことである。ところで、※[#「凵」のような形(fig1317_08.png)、236−2]形に抉らねばならなかった切創の目的と云うのは、ほかでもない。肥大した胸腺を切断して収縮せしめたばかりではなくて、死後動脈収縮([#ここから割り注]死後ただちに静脈を切断しても、出血しはしないが、ややしばらく後には、動脈の収縮によって、喞筒状に血液を静脈に送り、流血せしむる。[#ここで割り注終わり])によって流出した血液を胸腔内に充して、肺臓を圧迫し残気を吐き出さしめたと信ずるのである([#ここから割り注]死後残気の説については、ワグナー、マクドウガル等の実験で、約二十立方インチと計算されている[#ここで割り注終わり])。次に、死後脈動及び高熱については、絞首――廻転――墜落と続く日本刑死記録においても、相当の文献があるのみならず、ハルトマンの名著「生体埋葬《ベリード・アライヴ》」一冊だけでも、有名なテラ・ベルゲンの奇蹟([#ここから割り注]心臓附近のマッサージによって、心音を起し、高熱を発せりと云うファレルスレーベンの婦人[#ここで割り注終わり])や匈牙利《ハンガリー》アスヴァニの絞刑死体([#ここから割り注]十五分間廻転するがままに放置したる後引き下してみると、その後二十分も脈動と高熱が続いたと云う一八一五年ビルバウアー教授の発表[#ここで割り注終わり])が挙げられているように、窒息死後、廻転するかして死体に運動が続けられる場合は[#「廻転するかして死体に運動が続けられる場合は」に傍点]、高熱を発し脈動を起す例が必ずしも皆無ではないのである。まさしく易介においても、絶命後具足の廻転が[#「絶命後具足の廻転が」に傍点]、死体発見の一因として証明されているではないか[#「死体発見の一因として証明されているではないか」に傍点]。よって、上述したところを綜合すれば、易介の死は依然午後一時前後であって、彼がいかにして甲冑を着したかという点にも、北条流吊具足早着之法などの陣中心得は、無論この場合問題ではない。とうてい他人の力を藉《か》りなければ、非力病弱の易介にはなし得ないと推断されるのである。しかし、今回の発表が、ただ単に死因の推定にのみ止まっていて、なんら事件の開展に資するところのないのは、捜査関係者として心から遺憾の意を表したいと思う。
法水の朗読が終ると、詰められていた息が一度に吐かれた。そして、昂奮を投げ交すような声でしばらく騒然となっていたが、やがて熊城が、蹴散らすようにして記者達を追い出してしまうと、再びいつものような三人だけの世界に戻った。法水はしばらく凝然《じっ》と考えていたが、稀《めず》らしく紅潮を泛《うか》べた顔を上げて云った。
「ねえ支倉君、とうとう僕は、ある一つの結論に到達したのだ。勿論外包的だよ。全部の公式はとうてい判っちゃいないがね。しかし、個々の出来事からでも、共通した因数《ファクター》を知ることが出来たとしたら、どうだろう」と二人の顔をサッと掠《かす》めた、驚愕《きょうがく》の色に流眄《ながしめ》をくれて、「ところで君は、この事件の疑問一覧表を作ってくれたはずだったね。では、その一箇条一箇条の上に、僕の説を敷衍《ふえん》させてゆくことにしようじゃないか」
検事が固唾《かたず》を嚥《の》みながら、懐中の覚書を取り出した時だった。扉《ドア》が開いて、召使が一通の速達を法水に手渡しした。法水は、その角封を開いて内容を一瞥《いちべつ》したが、格別の表情も泛《うか》べずに、すぐ無言のまま卓上の前方に投げ出した。ところが、それに眼を触れた検事と熊城はたちまちどうにもならない戦慄《せんりつ》に捉えられてしまった。見よ、ファウスト博士から送られた三回目の矢文ではないか! それには、いつものゴソニック文字で、次の文章が認《したた》められてあった。
[#ここから2字下げ]
Salamander soll gluhen
(火精《ザラマンダー》よ、燃えたけれ)
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#ページの左右中央]
第五篇 第三の惨劇
[#改ページ]
一、犯人の名は、リュッツェン役の戦歿者中に
Salamander soll gluhen(火精《ザラマンダー》よ、燃えたけれ)
黒死館を真黒な翼で覆うている眼に見えない悪鬼が、三|度《たび》ファウスト博士を気取って五芒星呪文の一句を送って来た。それには、なにより熊城《くましろ》が、まず云いようのない侮辱を覚えずにはいられなかった。事実、残された四人の家族は熊城の部下によって、さながらゴート式甲冑のように、身動きも出来ぬほど装甲されているのである。それにもかかわらず、不敵きわまりない偏執狂的《マニアック》な実行を宣言して、ダンネベルグ夫人と易介《えきすけ》に続く、三回目の惨劇を予告しているのではないか。そうなると、熊城の作り上げた人間の塁壁が、第一どうなってしまうのであろう。ほとんど犯罪の続行を不可能に思わせるほどの完璧な砦《とりで》でさえも、犯人にとっては、わずか冷笑の塵にすぎないではないか。のみならず、そういう触れれば破滅を意味している、決定的な危険を冒してまでも敢行しようという、恐らく狂ったのでなければ意志に表わせぬような決慮を示しているのであるから、その不敵さに度胆を抜かれた形になってしまって、三人がしばらくの間声を奪われていたのも無理ではなかった。その日は何日目かの快晴だった。和《なご》やかな陽差が、壁面を飾っている「倫敦《ロンドン》大火之図」の下方――ちょうどブリクストン附近に落ちていて、それがしだいにテムズを越えて、一面に黒煙の漲《みなぎ》る、キングスクロスの方へ這い上って行こうとしている。しかしそれに引き換え室内の空気は、打てば金属《かね》のように響くかと思われるほどに緊張しきっていたが、法水《のりみず》は何か成算のあるらしい面持《おももち》で、ゆったりと眼を瞑《と》じ黙想に耽《ふけ》りながらも、絶えず微笑を泛《うか》べ独算気な頷《うなず》きを続けていた。やがて、熊城が無理に力味《りきみ》出したような声を出した。
「僕は真斎じゃないがね。虚妄《うそ》の烽火《のろし》には驚かんよ。あの無分別者の行動も、いよいよこれで終熄《しゅうそく》さ。だって考えて見給え。現在僕の部下は、あの四人の周囲を盾《たて》のように囲んでいる。けれども、その反面の意味が、同時に犯人の行動記録計の役も勤めていることになるんだぜ。ハハハハ法水君、なんという皮肉だろう。もしかしたら、犯人にも護衛を附けてないとも限らんのだからね」
検事は相変らず憂鬱な顔で、熊城の過信に反対の見解を述べた。
「どうして、あの四人をバラバラに離してみたところで、とうていこの惨劇は終りそうもないよ。人間の力では、どうしても止めることが不可能のような気がする。事実僕には、まだ誰か知られてない人物が、黒死館のどこかに潜んでいるような気がしてならないんだ」
「すると君は、ディグスビイが蘭貢《ラングーン》で死んだのではないと云うのか」熊城は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、身体を乗り出した。
「とにかく、冗談はやめてもらおう。それほど算哲の遺骸が気になるのだったら、その発掘は、この事件の大詰《おおづめ》が済んでからのことにしようじゃないか」
「うん、神経かもしれないが。けっして小説的な空想じゃないよ。結局この神秘的な事件が、そこまで辿《たど》り着いて行きそうな気がするだけだけどもね」とそれなりで検事は、彼の譫妄《うわごと》めいたものを口には出さなかったけれども、それには背後から追い迫って来る、悪夢のような不思議な力が潜んでいた。割合夢想的な法水でさえも、その――ディグスビイの生死いかんにかけた疑問と算哲の遺骸発掘――という二つの提題からは、瞬間ではあったが、疼《うず》き上げてくるようなものを感じたことは事実だった。検事は椅子をグイと後に倒して、なおも嘆息を続けた。
「ああ、今度は火精《ザラマンダー》か※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すると、拳銃《ピストル》か石火矢かい。それとも、古臭いスナイドル銃か四十二|磅《ポンド》砲でも向けようという寸法かね」
法水はその時不意に瞼《まぶた》を開いて、唆《そそ》られたように半身を卓上に乗り出した。
「四十二|磅《ポンド》の加農砲《キャノン》! そうだ支倉《はぜくら》君。しかし、君がそれを意識して云ったのなら、たいしたものだよ。今度の火精《ザラマンダー》には、けっして今までのような陰険|朦朧《もうろう》たるものはないと思うのだ。きっと犯人の古典《クラシック》好みから、ロドマンの円弾《まるだま》が海盤車《ひとで》のような白煙を上げて炸裂《さくれつ》するだろうよ」
「ああ、相変らず豪壮な喜歌劇《オペレッタ》かね。それなら、どうでもいいが」と熊城はいったん忌々《いまいま》しそうに舌打ちしたが、坐り直した。「しかし、論拠のあるものなら、一応は聴かせてもらおう」
「勿論あるともさ」法水は無雑作に頷《うなず》いたが、その顔には制しきれない昂奮の色が現われていた。「と云うのは、今度の火精《ザラマンダー》だけに、水精《ウンディヌス》・風精《ジルフス》――と前例のある、性別転換が行われてないという事なんだ。ところで、あの五芒星呪文に現われている四つの精霊だが、それぞれに水精《ウンディネ》・風精《ジルフェ》・火精《ザラマンダー》・地精《コボルト》――と、物質構造の四大要素を代表している。云うまでもなく、中世の錬金道士《パラツェリスト》が仮想していた、元素精霊《エレメンタリー・スピリット》には違いない。そして今までは、水精《ウンディヌス》と扉を開いた水、風神《ジルフス》と倍音演奏――と云っただけの、云わば要素的な符合しか判ってはいなかったのだ。けれども、いったんそれに性別転換の解釈を加えると、あのいかにも秘密教《エルメチスム》めいていたものが、たちどころに公式化されてしまうのだ。ねえ熊城君、水精《ウンディヌス》と男性に変えなければ、どうしてあの扉《ドア》を開くことが出来なかったのだろうか。そこに、犯罪方程式の一部が精密な形で透し見えていたのを、僕等は、今まで何故に看過していたのだろうか」
「なに犯罪方程式※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」法水の意外な言《ことば》に、熊城は胸を灰だらけにして叫んだ。けれども、だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇《バーレスク》にすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。続いて、法水が曝露したその一側面と云うのが、いかに二人を唖然たらしめたことか……。
「ところで君は、スピルディング湖の水精《ウンディネ》を描いた、ベックリンの装飾画を見たことがあるかね。鬱蒼《うっそう》とした樅《もみ》林の底で、氷蝕湖の水が暗く光っているのだ。それが、群青《ぐんじょう》を生《なま》の陶土に溶かし込んだような色で、粘稠《ねっとり》と澱《よど》んでいる。その水面に、※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《みずち》の背ではないかと思わせているのが、金色を帯びた美しい頭髪で、それが藻草のように靡《たなび》いているのだよ。けれども熊城君。僕はなにも職業的な観賞家じゃないのだからね、猟館や瘤々した自然橋などを持ち出してまで、君達に瞑想を促《うなが》そうとする魂胆はない。そういう水精《ウンディネ》を男性に変えてしまう段になると、真先に変化の起らねばならぬものが、そもそも何であるか――それを問いたいのだよ」
と法水の顔に微かな紅潮が泛《うか》び上って、五芒星《ペンタグラムマ》の不備を指摘する、メフィストの科白《せりふ》([#ここから割り注]その円に一個所誤謬があったためにその間隙を狙い、メフィストがファウストの鎖呪を破って侵入したのである[#ここで割り注終わり])を口にした。「――とくと見給え。あの印呪は完全に引いてな
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