り》としたものでないだけに、なおさら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いてでも近づかねばならぬような力に唆《そそ》られました。そうして間もなく、貴方の嵌口令《かんこうれい》が生んだ、産物であるのを知ると同時に、強《し》いて覆い隠そうとした運命的な一人を、その身長まで測ることが出来たのです」
「身長を?」真斎はさすがに驚いて眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、ここで三人は、かつて覚えたことのない亢奮にせり上げられてしまった。
「そうです。あの兜《かぶと》の前立星《まえたてぼし》が、|此の人を見よ《エッケ・ホモ》――と云っているのです」と法水は椅子を深く引いて、静かに云った。「たぶん貴方もお聴きになったでしょうが、拱廊《そでろうか》の古式具足のうちで、円廊側の扉際にある緋縅錣《ひおどししころ》の上に、猛悪な黒毛三枚|鹿角立《しかつのだて》の兜が載っていました。また、その前列で吊具足になっている洗革胴《あらいかわどう》の一つが、これは美々しい獅子噛座のついた、星前立細鍬形の兜を頂いていて、その二つの取り合わせから判断すると、歴然たる置き換えの跡が残っているのです。そればかりでなく、その置き換えの行われたのが、昨夜の七時以後であることも、召使の証言によって確かめることが出来ました。しかし、その置き換えには、すこぶる繊細《デリケート》な心像が映っているのですよ。そして、それが円廊の対岸にある二つの壁画と俟《ま》って、始めてこの本体を明らかにするのでした。御承知のとおり、右手のものは『処女受胎の図』で、聖母《マリア》が左端に立ち、左手の『カルバリ山の朝』は、右端に耶蘇《イエス》を釘付けにした十字架が立っているのです。つまりその二つの兜を置き換えないでは、聖母《マリア》が十字架に釘付けされるという、世にも不可思議な現象が現われるからでした。しかし、その原因は容易《たやす》く突き究めることが出来たのです。ねえ田郷さん、円廊の扉際には、外面|艶消《つやけ》しの硝子で平面の弁と凸面の弁を交互にして作った、六弁形の壁灯がありましたっけね。実は、緋縅錣《ひおどししころ》の方に向いている平面の弁に、一つの気泡があるのを発見したのです。ところで、眼科に使うコクチウス検眼鏡の装置を御存じでしょうか。平面反射鏡の中央に微孔を穿《うが》って、その反対の軸に凹面鏡を置き、そこに集った光線を、平面鏡の細孔から眼底に送ろうとするのですが、この場合は、天井のシャンデリアの光が凹面の弁に集って、それが前方の平面弁にある気泡を通ってから、向う側にある前立星に照射されたからでした。つまりそれが判ると、前立星の激しい反射光をうけねばならない位置を基礎にして、眼の高さが測定されるのでしょう」
「しかし、その反射光が何を?」
「ほかでもない、複視が起されるのですよ。催眠中でさえも眼球を横から押すと、視軸が混乱して複視を生ずるのですが、横から来る強烈な光線でも、同様の効果を生みます。つまりその結果、前方にある聖母《マリア》が十字架と重なるので、ちょうど聖母《マリア》が磔刑《はりつけ》になったような仮像が起る訳でしょう。云うまでもなく、その置き換えた人物と云うのは、婦人なのです。何故なら、そうして幻のように現われる聖母《マリア》磔刑の仮像は、第一、女性として最も悲惨な帰結を意味しています。また一面には、天来の瞰視《かんし》をうけているような意識に駆られて、審判とか刑罰とか云うような、妙に原人ぽい恐怖がもたらされてくるのですよ。だいたいそう云った宗教的感情などというしろものは、一種の本能的潜在物なんですからね。どんな偉大な知力をもってしても、容易に克服できるものではありません。直観的ではあるが、けっして思弁的ではないのです。もともと刑罰神一神説《ヤーヴィズム》は……公教精神《カトリシズム》は、聖《セント》アウグスチヌスが永劫《えいごう》刑罰説を唱えたとき、すでに超個人的な、抜くべからざる力に達していたのですからね。ですから、不慮であると否とにかかわらず、その大魔力はたちまちに精神の平衡を粉砕してしまいます。ことに、脆《もろ》い、変化をうけ易い、何か異常な企図を決行しようとする際のような心理状態では、その衝撃には恐らくひとたまりもないことでしょう。……つまり田郷さん、そういった動揺を防ぐために、その婦人は二つの兜《かぶと》を置き換えたのですよ。しかし、前立の星と並行する位置で、おおよその身長が測定されるのですが、五フィート四インチ――その高さを有する婦人は、いったい誰でしょうか。云うまでもなく、傭人どもなら大切な装飾品の形を変えるようなことはしないでしょうし、四人の外人は論なしとしても、伸子も久我鎮子も、それぞれに一、二インチほど低いのです。ところが田郷さん、その婦人は、まだこの館の中に潜んでいるのですよ。ああいったい、それは誰なんでしょうかね」と再三真斎の自供を促しても、相手は依然として無言である。法水の声に挑《いど》むような熱情がこもってきた。
「それから僕の脳裡で、その一つの心像が、しだいに大きな逆説《パラドックス》となって育っていったのですが、しかし、先刻《さっき》貴方の口から、ようやくその真相が吐かれました。そして、僕の算定が終ったのです」
「何と云われる。儂《わし》の口からとは?」真斎は驚き呆れるよりも、瞬間変転した相手の口吻《こうふん》に、嘲弄されたような憤りを現わした。「それが、貴方にあるたった一つの障害なのじゃ。歪んだ空想のために、常軌を逸しとるのです。儂《わし》は虚妄《うそ》の烽火《のろし》には驚かんて」
「ハハハハ、虚妄《うそ》の烽火《のろし》ですか」法水はとたんに爆笑を上げたが、静かな洗煉された調子で云った。
「いや、|打たれし牝鹿は泣きて行け《ホワイ・レット・ゼ・ストリクン・ディーア・ゴー・ウイープ》、|無情の牡鹿は戯るる《ゼ・ハート・アンギャラント・プレイ》――の方でしょうよ。しかし、先刻《さっき》貴方は、僕が『ゴンザーゴ殺し』の中の|汝真夜中の暗きに摘みし草の息液よ《ザウ・ミックスチュア・ランク・オヴ・ミッドナイト・ウイーズ・コレクテッド》――と云うと、その次句の|三たび魔女の呪詛に萎れ毒気に染みぬる《ウイズ・ヘキッツ・バン・スライス・プラステッド・スライス・インフェクテッド》――で答えましたっけね。その時どうして、|三たび《スライス》以後の韻律を失ってしまったのでしょう。また、どうした理由かそれを云い直した時に With《ウイズ》 Hecates《ヘキッツ》 を一節にして、Ban と thrice とを合わせ、しかもまた訝《いぶか》しいことには、その Banthrice《バンスライス》 を口にした時に、貴方はいきなり顔色を失ってしまったのです。勿論僕の目的は、文献学上の高等批判をしようとしたのではありません。この事件の発端とそっくりで、実に物々しく白痴嚇《こけおど》し的な、|三たび魔女の《ウイズ・ヘキッツ・バン》……以下を貴方の口から吐かせようとしたからです。つまり、詩語には、特に強烈な聯合作用が現われる――という、ブルードンの仮説《セオリー》を剽竊《ひょうせつ》して、それを、殺人事件の心理試験に異なった形態《かたち》で応用しようとしたのです。云わば、武装を隠した詩の形式でしょうかな。それで、貴方の神経運動を吟味しようと試みたのですが、とうとうその中から、一つの幽霊的な強音《アクセント》を摘み出しましたよ。ところでバーベージ([#ここから割り注]エドマンド・キーン以前の沙翁劇名優[#ここで割り注終わり])は、沙翁《シェークスピア》の作中に律語的な部分、すなわち希臘《ギリシャ》式量的韻律法が多いのを指摘していますね。つまり、一つの長い音節《シラブル》が、量において二つの短い音節《シラブル》に等しいというのが原則で、それに、頭韻《アリテレーション》・尾韻《エンドライム》・強音《アクセント》などを按配した抑揚格《アイアムバス》を作って、詩形に音楽的旋律を生んでいくのです。ですから、一語でもその朗誦法を誤ると、韻律が全部の節にわたって混乱してしまいます。しかし貴方が|三たび《スライス》で逼《つか》えて、それ以後の韻律を失ってしまったのは、けっして偶然の事故ではないのですよ。その一語には、少なくとも匕首《あいくち》くらいの心理的効果があるからなんです。ですから貴方は、それが僕を刺戟するのに気がついたので、すぐに周章《あわ》てふためいて云い直したのでしょう。けれども、その復誦には、今も云った韻律法を無視しなければなりませんでした。それが僕の思う壺だったので、かえって収拾のつかない混乱を招いてしまったのです。と云うのは、thrice《スライス》 を避けて、前節の Ban《バン》 と続けた Banthrice《バンスライス》 が、Banshee《バンシイ》([#ここから割り注]ケルト伝説にある告死婆[#ここで割り注終わり])が変死の門辺に立つとき化けると云う老人――すなわち Banshrice《バンシュライス》 のように響くからなんですよ。ねえ田郷さん、僕が持ち出した|汝真夜中の《ザウ・ミックスチュア・ランク》……の一句には、こういう具合に、二重にも三重にもの陥穽《かんせい》が設けられてあったのです。勿論僕は、貴方がこの事件で、告死老人《バンシュライス》の役割をつとめていたとは思いませんが、しかしその、魔女《ヘカテ》が呪い毒に染んだという|三たび《スライス》は、いったい何事を意味しているでしょうか。ダンネベルグ夫人……易介……そうして三度目は?」
 そう云って法水は、しばらく相手を正視していたが、真斎の顔は、しだいに朦朧《もうろう》とした絶望の色に包まれていった。法水は続けて、
「それから僕は、その『ゴンザーゴ殺し』の|三たび《スライス》を再び俎上《そじょう》に載せて、今度は反対に、下降して行く曲線として観察したのです。そして、いよいよその一語に、供述の心理を徹頭徹尾支配している、恐ろしい力があるのを確かめることが出来ました。そのために、ポープの『|髪盗み《レープ・オヴ・ゼ・ロック》』の中で一番道化ている、|異常に空想が働き、男自ら妊れるものと信ずるならん《メン・プルーヴ・ウイズ・チャイルド・アズ・パワーフル・ファンシイ・ウォークス》――を引き出して、毫《ごう》も心中策謀のないのを、貴方に仄《ほの》めかしたのです。ところが、その次句の、|処女は壺になったと思い《エンド・メイド・ターント・ボトルス》、|三たび声を上げて栓を探す《コール・アラウド・フォア・コークス・スライス》――で答えた貴方は、その中に thrice《スライス》 という字があるのをほとんど意識しないかのように、平然としかも、きわめて本格的な朗誦法で口にしているではありませんか。勿論それは、弛緩した心理状態にありがちな盲点現象です。さらに、前後の二つを対比してみると、同じ thrice《スライス》 一字でも、『ゴンザーゴ殺し』に現われているのと『|髪盗み《レープ・オヴ・ゼ・ロック》』のそれとでは、心理的影響において、いちじるしい差異があるのを測ることが出来たのでした。そこで僕は、結論をよりいっそう確実にするために、今度はセレナ夫人から、昨夜この館にいた家族の数を引き出そうと試みました。ところが、僕の云ったゴットフリートの――|吾今ただちに悪魔と一つになるを誰か妨げ得べき《ウァス・ヒエルテ・ミッヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホイテ・トイフェル》――に対して、セレナ夫人は、その次句の――|短剣の刻印に吾身は慄え戦きぬ《ゼッヒ・シュテムペル・シュレッケン・ゲエト・ドゥルヒ・マイン・ゲバイン》――で答えたのです。しかし、何故か sech《ゼッヒ》([#ここから割り注]短剣[#ここで割り注終わり])と云うと狼狽《ろうばい》の色が現われて、しかも、|短剣の刻印《ゼッヒ・シュテムペル》と、頭韻《アリテレーション》を響かせて一つの音節《シラブル》にして云うと
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