ころを、sech《ゼッヒ》 と Stempel《シュテムペル》([#ここから割り注]刻印[#ここで割り注終わり])の間に不必要な休止《ポーズ》を置いたのですから、それ以下の韻律を混乱に陥《おとしい》れてしまったことは云うまでもありません、何故セレナ夫人は、そういう莫迦《ばか》げた朗誦法を行ったのでしょうか。それはとりもなおさず、Sechs《ゼックス》 Tempel《テムペル》([#ここから割り注]六つの宮[#ここで割り注終わり])と響くのを懼《おそ》れたからです。その伝説詩の後半に現われて、『|神の砦《デイフォデュルム》』([#ここから割り注]現在のメッツ附近[#ここで割り注終わり])の領主の魔法でヴァルプルギス・ナハトの森林中に出現すると云う――その六つ目の神殿に入ると、入った人間の姿は再び見られないと云うのですからね。ですから、セレナ夫人が問わず語らずのうちに暗示した、その六番目の人物と云うのは……。いや、昨夜この館から、突然消え去った六人目があったという事は、僕の神経に映った貴方がた二人の心像だけででも、もはや否定する余地がなくなりました。こうして、僕の盲人造型は完成されたのです」
 真斎は、たまりかねたらしく、肱掛《ひじかけ》を握った両手が怪しくも慄《ふる》え出した。
「すると、あんたの心中にあるその人物というのは、いったい誰を指して云うことですかな?」
「押鐘津多子です」法水はすかさず凜然《りんぜん》と云い放った。「かつてあの人は、日本のモード・アダムスと云われた大女優でした。五フイート四インチという数字は、あの人の身長以外にはないのですよ。田郷さん、貴方はダンネベルグ夫人の変死を発見すると同時に、昨夜から姿の見えない津多子夫人に、当然疑惑の眼を向けました。しかし、光栄ある一族の中から犯人を出すまいとすると、そこになんらかの措置《そち》で、覆わねばならぬ必要に迫られたのです。ですから、全員に嵌口令《かんこうれい》を敷き、夫人の身廻り品を、どこか眼につかない場所に隠したのでしょう。無論そういう、支配的な処置に出ることの出来る人物と云えば、まず貴方以外にはありません。この館の実権者をさておいて、他にそれらしい人を求められよう道理がないじゃありませんか」
 押鐘津多子《おしがねつたこ》――その名は事件の圏内に全然なかっただけに、この場合青天の霹靂《へきれき》に等しかったであろう。法水の神経運動《ナアヴァシズム》が微妙な放出を続けて、上りつめた絶頂がこれだったのか。しかし、検事も熊城も痺《しび》れたような顔になっていて、容易に言葉も出なかった。と云うのは、これがはたして法水の神技であるにしても、とうていそのままを真実として鵜呑《うの》みに出来なかったほど、むしろ怖れに近い仮説だったからである。真斎は手働四輪車を倒れんばかりに揺って、激しく哄笑《こうしょう》を始めた。
「ハハハハハ法水さん、下らん妖言浮説は止めにしてもらいましょう。貴方が云われる津多子夫人は、昨朝早々にこの館を去ったのですじゃ。だいたい、どこに隠れていると云われるのです。人間|業《わざ》で入れる個処《ところ》なら、今までに残らず捜し尽されておりましょう。もし、どこかに潜んで居るのでしたら、儂《わし》から進んで犯人として引き出して見せますわい」
「どうして、犯人どころか……」法水は冷笑を湛えて云い返した。「その代り鉛筆と解剖刀《メス》が必要なんですよ。そりゃ僕も、一度は津多子夫人を、風精《ジルフェ》の自画像として眺めたことはありましたがね。ところが田郷さん、これがまた、悲痛きわまる傍説《エピソード》なんですよ。あの人は、死体となってからも、喝采《かっさい》をうける時機を失ってしまったのですからね。それが、昨夜の八時以前だったのです。その頃には既《とう》に津多子夫人は、遠く精霊界《フェアリー・ランド》に連れ去られていたのです。ですから、あの人こそ、ダンネベルグ夫人以前の……、つまり、この事件では最初の犠牲者だったのですよ」
「なに、殺されて※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」真斎は恐らく電撃に等しい衝撃《ショック》をうけたらしい。そして、思わず反射的に問い返した。「す、すると、その死体はどこにあると云うのです?」
「ああ、それを聴いたら、貴方はさぞ殉教的な気持になられるでしょうが」と法水は、いったん芝居がかった嘆息をして、「実を云うと、貴方はその手で、死体の入っている重い鋼鉄|扉《ど》を閉めたのでしたからね」とキッパリ云い放った。
 とたんに三つの顔から、感覚がことごとく失せ去ったのも無理ではない。法水は、あたかもこの事件が彼自身の幻想的《ファンタスチック》な遊戯ででもあるかのように、吐き続ける一説ごとに、奇矯な上昇を重ねてゆく。そして、ちょうどこの超頂点《ウルトラクライマックス》が、はっきりと三人の感覚的限界を示していたからであった。そこで法水は、この北方《ゴート》式悲劇に次幕の緞帳《カーテン》を上げた。
「ところで田郷さん、昨夜の七時前後と云えば、ちょうど傭人達の食事時間に当っていたそうですし、また拱廊《そでろうか》で、兜《かぶと》が置き換えられた頃合にも符合するのですが、とにかくその前後に、大階段の両裾にあった二基の中世|甲冑《かっちゅう》武者が、階段を一足跳びに上ってしまい、『腑分図』の前方に立ち塞がっていたのです。しかし、たったその一事だけで、津多子夫人の死体が古代時計室の中に証明されるのですがね。サァ論より証拠、今度はあの鋼鉄扉を開いて頂きましょうか」
 それから、古代時計室に行くまでの暗い廊下が、どんなに長いことだったか。恐らく、窓を激しく揺する風も雪も、彼等の耳には入らなかったであろう。熱病患者のような充血した眼をしていて、上体のみが徒《いたず》らに前へ出て、体躯《たいく》のあらゆる節度を失いきっている三人にとると、沈着をきわめた法水の歩行が、いかにももどかしかったに違いない。やがて最初の鉄柵扉が左右に押し開かれ、漆《うるし》で澄みわたった黒鏡のように輝いている鋼鉄扉の前に立つと、真斎は身体を跼《かが》めて、取り出した鍵で、右扉の把手《ハンドル》の下にある鉄製の函《はこ》を明け、その中の文字盤を廻しはじめた。右に左に、そうしてまた右に捻《ひね》ると、微かに閂止《かんぬきどめ》の外れる音がした。法水は文字盤の細刻を覗き込んで、
「なるほど、これはヴィクトリア朝に流行《はや》った羅針儀式《マリナース・コムパス》([#ここから割り注]文字盤の周囲は英蘭土(イングランド)近衛竜騎兵聯隊の四王標である。ヘンリー五世、ヘンリー六世、ヘンリー八世 女王エリザベスの袖章で細彫りがされ把手には the Right Hon'ble. JOHN Lord CHURCHIL の胸像が彫られてある[#ここで割り注終わり])ですね」と云ったけれども、それがどことはなしに、失望したような空洞《うつろ》な響を伝えるのだった。鍵の性能に対してほとんど信憑《しんぴょう》をおいていない法水にとると、恐らくこの二重に鎖された鉄壁が、彼の心中に蟠《わだかま》っている、ある一つの観念を顛覆したに違いないのだった。
「サア、名称は存じませんが、合わせ文字を閉めた方向と逆に辿《たど》ってゆくと、三回の操作で扉《ドア》が開く仕掛になっております。つまり、閉める時の最終の文字が、開く時の最初の文字に当るわけですが、しかし、この文字盤の操作法と鉄函《てつばこ》の鍵とは、算哲様の歿後、儂《わし》以外には知る者がないのです」
 次の瞬間、唾《つば》を嚥《の》む隙さえ与えられなかった一同が、息詰るような緊張を覚えたと云うのは、法水が両側の把手《とって》を握って、重い鉄扉を観音開きに開きはじめたからだった。内部《なか》は漆黒《しっこく》の闇で、穴蔵のような湿った空気が、冷やりと触れてくる。ところが、どうしたことか、中途で法水は不意《いきなり》動作を中止して、戦慄《せんりつ》を覚えたように硬くなってしまった。が、その様子は、どうやら耳を凝《こ》らしているように思われた。刻々《チクタク》と刻む物懶《ものう》げな振子の音とともに、地底から轟《とどろ》いて来るような、異様な音響が流れ来たのであった。

    二、Salamander soll gluhen(火精《ザラマンダー》よ燃え猛《たけ》れ)

 しかし、法水は、いったん止めた動作を再び開始して、両側の扉を一杯に開ききると、なかには左右の壁際に、奇妙な形をした古代時計がズラリと配列されていた。外光が薄くなって、奥の闇と交わっている辺りには、幾つか文字面の硝子らしいものが、薄気味悪げな鱗《うろこ》の光のように見え、その仄《ほの》かな光に生動が刻まれていく。と云うのは、所々に動いている長い短冊振子が、絶えず脈動のような明滅を繰り返しているからであった。この墓窖《はかあな》のような陰々たる空気の中で、時代の埃を浴びた物静けさが、そして、様々な秒刻の音が、未だに破られないのは、恐らく誰一人として、つめきった呼吸《いき》を吐き出さないからであろう。が、その時、中央の大きな象嵌《ぞうがん》柱身の上に置かれた人形時計が、突然|弾条《ぜんまい》の弛《ゆる》む音を響かせたかと思うと、古風なミニュエットを奏ではじめたのであった。廻転琴《オルゴール》([#ここから割り注]反対の方向に動く二つの円筒を廻転せしめ、その上にある無数の棘をもって、梯状に並んでいる音鋼を弾く自動楽器[#ここで割り注終わり])が弾き出した優雅な音色が、この沈鬱な鬼気を破ったとみえて、再び一同の耳に、あの引き摺るように重たげな音響が入ってきた。
「灯を※[#感嘆符二つ、1−8−75]」熊城は吾に返ったかのごとくに呶鳴《どな》った。真斎の手で壁の開閉器《スイッチ》が捻《ひね》られると、はたして法水の神測が適中していた。と云うのは、奥の長櫃《キャビネット》の上で、津多子夫人は生死を四人の賽《さい》の目に賭けて、両手を胸の上で組み、長々と横たわっているのであった。その端正な美しさは、とうてい陶器で作った、ベアトリチェの死像と云うほかにないであろう。しかし、引き摺るような鈍い音響は、まさに、津多子夫人が横たわっている附近から発せられてくる。薄気味悪い地動のような鼾《いびき》声、それも病的な喘鳴《ぜいめい》でも交っているかのような……。ああ、法水が死体と推測した津多子夫人は、未だに生動を続けているではないか。皮膚はまったく活色を失い、体温は死温に近いほどに低下しているけれども、微かに呼吸を続け、微弱ながらも心音が打っている。そして、顔だけを除いて、全身を木乃伊《ミイラ》のように毛布で巻き付けられているのだった。その時、廻転琴《オルゴール》のミニュエットが鳴り終ると、二つの童子人形は、かわるがわる右手の槌《つち》を振り上げて、鐘《チャペル》を叩いた。そして、八時を報じたのであった。
「抱水クロラールだ」法水は呼気を嗅《か》いだ顔を離すと、元気な声で云った。「瞳孔も縮小しているし、臭いもそれに違いない。だが、生きていてくれてなによりだったよ。ねえ熊城君、津多子夫人の恢復《かいふく》で、この事件のどこかに明るみが差すかもしれないぜ」
「なるほど、薬物室の調査は無駄じゃなかったろうがね」と熊城は苦いものに触れたような顔になって、
「だが、おかげさまで、とんだ悲報を聴かされてしまったよ。物凄い幻滅だ。あの銅版刷みたいに鮮かな動機を持った女が、なんという莫迦《ばか》げた大砲を向けてきたんだい。一つ君に、霊媒でも呼んでもらおうかね」
 事実熊城が云ったように、遺産配分からただ一人除かれていて、最も濃厚な動機を持っているはずの押鐘津多子夫人には、どこかに脆《もろ》い、破れ目でも出来そうなところがあるように思われていた。その矢先に、兇悪無惨な夢中の人物となって現われたばかりでなく、しかも、法水の推測を覆《くつがえ》して、今度は不可解な昏睡状態に、微妙な推断を要求しているのだった。その予想を許されない逆転紛糾には、ひとり熊
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