だけを、ちょうどジーグフリードの木の葉のように残しておくのだ。何故なら、失神中は皮膚の触覚を欠いていても、内部の筋覚や関節感覚、それに、擽痒《かゆみ》の感覚には一番刺戟されやすいのだからね。すると、当然その場所に、劇烈な擽痒《かゆみ》が起る。そうしてそれが電気刺戟のように、頸椎神経の目的とする部分を刺戟して、指に無意識運動を起させるに違いないのだ。つまりこの一つで、伸子がいかにして鎧通しを握ったか――という点に、根本の公式を掴んだような気がしたのだ。乙骨君、君は故意か内発かと云ったけれども、僕は、故意かエーテルに代る何物かと云いたいんだ。どうして、その本体を突き詰めるまでには、まだまだ繊細微妙な分析的神経が必要なんだよ」と彼の表情に、みるみる惨苦の影が現われてゆき、打って変って沈んだ声音で呟《つぶや》いた。
「ああ、いかにも僕は喋《しゃべ》ったよ。しかし、結局廻転椅子の位置は……あの倍音演奏はどうなってしまうんだ?」
 そうしてから、しばらく法水は煙の行方を眺めていて、発揚状態を鎮めているかに見えたが、やがて乙骨医師に向って、話題を転じた。
「ところで、君に依頼しておいたはずだが、伸子の自署をとってくれただろうか」
「だがしかしだ。これには充分質問例題とする価値があるぜ。何故《どうして》君は、伸子が覚醒した瞬間に、自分の名前を書かせたのだったね」と云って、乙骨医師が取り出した紙片に、俄然三人の視聴が集められてしまった。それには、紙谷《かみたに》ではなく、降矢木《ふりやぎ》伸子と書かれてあったからだ。法水はちょっと瞬《またた》いたのみで、彼が投じた波紋を解説した。
「いかにも乙骨君、僕は伸子の自署が欲しかったのだ。と云って、なにも僕はロムブローゾじゃないのだからね。水精《ウンディネ》や風精《ジルフェ》を知ろうとして、クレビエの『筆蹟学《グラフォロジイ》』までも剽竊《ひょうせつ》する必要はないのだよ。実を云うと、往々失神によって、記憶の喪失を来す場合がある。それなので、もし伸子が犯人でない場合に、このまま忘却のうちに葬られてしまうものがありゃしないかと、実は内々でそれを懼《おそ》れていたからなんだよ。ところで、僕の試みは、『マリア・ブルネルの記憶』に由来しているんだ」

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(註)ハンス・グロスの「予審判事要覧」の中に、潜在意識に関する一例が挙げられている。すなわち一八九三年三月、低バイエルン、ディートキルヘンの教師ブルネルの宅において、二児が殺害され、夫人と下女は重傷を負い、主人ブルネルが嫌疑者として引致されたという事件である。ところが、夫人は覚醒して、訊問調書に署名を求められると、マリア・ブルネルとは記さずに、マリア・グッテンベルガーと書いたのであった。しかし、グッテンベルガーと云うのは、夫人の実家の姓でもなく、しかもそれなりで、夫人は記憶の喚起を求められても、その名については知るところがなかった。つまりその時以来、意識の水準下に没し去ったのである。ところが、調査が進むと、下女の情夫にその名が発見されて、ただちに犯人として捕縛さるるに至った。すなわち、マリア・グッテンベルガーと書いた時は、兇行の際識別した犯人の顔が、頭部の負傷と失神によって喪失されたが、偶然覚醒後の朦朧状態において、それが潜在意識となって現われたのである。
[#ここで字下げ終わり]

「マリア・ブルネル……」だけで喚起したものがあったと見え、三人の表情には一致したものが現われた。法水は、新しい莨《たばこ》に口をつけて続けた。
「だから乙骨君、僕が伸子の、開目の際を条件としたのも、つまるところは、マリア・ブルネル夫人と同じ朦朧《もうろう》状態を狙《ねら》い、あわよくば、まさに飛び去ろうとする潜在意識を記録させようとしたからなんだよ。ところが、やはりあの女も、法心理学者の類例集《カズイステイク》から洩れることは出来なかったのだ。ねえ、伸子の先例は、オフィリアに求められるのだろうね。しかしオフィリアの方は、単に狂人《きちがい》になってから、幼い頃乳母から聴いた――(あすはヴァレンタインさまの日)の猥歌《ざれうた》を憶い出したにすぎない。ところが、伸子の方は、降矢木というすこぶる劇的《ドラマチック》な姓を冠せて、物凄い皮肉を演じてしまったのだよ」
 その署名には、恐ろしい力で惹《ひ》きつけるようなものがあった。しばらく釘付けになっているうちに、まず直情的な熊城《くましろ》が気勢を上げた。
「つまり、[#ここから横組み]グッテンベルガー=降矢木旗太郎[#ここで横組み終わり]なんだ。これで、クリヴォフ夫人の陳述が、綺麗《きれい》さっぱり割り切れてしまうぜ。サア法水君、君は旗太郎の不在証明《アリバイ》を打ち破るんだ」
「いや、この評価は困難だよ。依然降矢木Xさ」と検事は容易に首肯した色を見せなかった。そして、暗に算哲の不思議な役割を仄《ほの》めかすと、法水もそれに頷《うなず》いて、劇《はげ》しい皮肉を酬いられたかのように、錯乱した表情を泛《うか》べるのだった。事実、それが幽霊のような潜在意識だとすれば、恐らく法水の勝利であろう。けれども、もし単に、一場の心的錯誤《パラムネジイ》だとしたら、それこそ推理測定を超越した化物に違いないのである。乙骨医師は時計を見て立ち上ったが、この毒舌家は、一言皮肉を吐き捨てるのを忘れるような親爺《おやじ》ではなかった。
「さて、今夜はもう仏様も出まいて。しかし法水君、問題は、空想より論理判断力のいかんにあるよ。その二つの歩調が揃うようなら、君もナポレオンになれるだろうがな」
「いや、トムセン([#ここから割り注]丁抹(デンマーク)の史学者。バイカル湖畔南オルコン河の上流にある突厥人の古碑文を読破せり[#ここで割り注終わり])で結構さ」と法水は劣らず云い返したが、その言葉の下から、俄然ただならぬ風雲を捲き起してしまった。「勿論僕に、たいした史学の造詣《ぞうけい》はないがね。しかし、この事件では、オルコン以上の碑文を読むことが出来たのだ。君はしばらく広間《サロン》にいて、今世紀最大の発掘を待っていてくれ給え」
「発掘※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城は仰天せんばかりに驚いてしまった。しかし、法水が心中何事を企図しているのか知る由はないといっても、その眉宇《びう》の間に泛《うか》んでいる毅然《きぜん》たる決意を見ただけで、まさに彼が、乾坤一擲《けんこんいってき》の大賭博《おおばくち》を打たんとしていることは明らかだった。間もなく、この胸苦しいまでに緊迫した空気の中を、乙骨医師と入れ違いに、喚《よ》ばれた田郷真斎が入って来ると、さっそく法水は短刀直入に切り出した。
「僕は率直にお訊ねしますが、貴方は、昨夜八時から八時二十分までの間に邸内を巡回して、その時古代時計室に鍵を下したそうでしたね。しかし、その頃から姿を消した一人があったはずです。いいえ田郷さん、昨夜神意審問会の当時この館にいた家族の数は、たしか五人ではなく、六人でしたね」
 途端に、真斎の全身が感電したように[#「感電したように」は底本では「感電しように」]戦《おのの》いた。そして、何か縋《すが》りたいものでも探すような恰好で、きょろきょろ四辺《あたり》を見廻していたが、いきなり反噬《はんぜい》的な態度に出て、
「ホホウ、この吹雪の最中に算哲様の遺骸を発掘するとなら、あんた方は令状をお持ちとみえますな」
「いや、必要とあらば、たぶん法律ぐらいは破りかねぬでしょう」と法水は冷然と酬い返した。が、この上真斎との応酬を無用とみて、率直に自説を述べはじめた。
「だいたい、貴方がおいそれと最初から口を開こうなどとは、夢にも期待していなかったのですよ。ですから、まず僕の方で、その消え失せた一人を、外包的に証明してゆきましょう。ところで貴方は、盲人の聴触覚標型という言葉を御存じですか。盲人は視覚以外のあらゆる感覚を駆使して、その個々に伝わってくる分裂したものを綜合するのです。そうして、自分に近接している物体の造型を試みようとするのですよ。ねえ田郷さん、勿論僕の眼に、その人物の姿が映ろう道理はありません。しかも、物音も聴かなければ、その一人に関する些細《ささい》な寸語さえ耳にしていないのです。しかし、この事件の開始と同時に、ある一つの遠心力が働いて、そうしてその力が、関係者の圏外はるかへ抛擲《ほうてき》してしまった一人があったのですよ。僕は、最初この館に一歩踏み入れたとき、すでにある一つの前兆とでも云いたいものを感じました。それを、召使《バトラー》の行為から観取することが出来たのでしたよ」
「すると、僕が訊ねた……」検事は異様に亢奮《こうふん》して叫んだ。そして、自分の疑念が氷解してゆく機に、達したのを悟ったのであった。法水は、検事に微笑で答えてから続けた。
「つまり、この神経黙劇にとると、最初|召使《バトラー》に導かれて大階段を上って行った時が、そもそもの開緒《アインライツング》なのでした。その折、喧《けたた》ましい警察自動車の機関《エンジン》の響がしていたのですが、その召使《バトラー》は、僕の靴が偶然|軋《きし》って微かな音を立てると、何故か先に歩んでいるにもかかわらず、竦《すく》んだような形で、身体を横に避けるのです。僕はそれを悟ると、思わず、神経に衝《つ》き上げてくるものがありました。ですから、階段を上り切るまでの間、試みに再三同じ動作を演じてみたのですが、そのつど、召使《バトラー》も同様のものを繰り返してゆくのです。明らかに、この無言の現実は、何事かを語ろうとしています。そこで、僕は推断を下しました。機関《エンジン》の騒音があるにもかかわらず、当然圧せられて消されねばならない、いや、通常の状態では絶対に聴くことの出来ぬ音を聴いたからだ――と。しかし、それは当然奇蹟でもなければ、勿論僕の肝臓に変調を来した結果でもありません。医学上の術語でウィリス徴候と云って、劇甚な響と同時にくる微細な音も、聴き取ることが出来るという――聴覚の病的過敏現象にすぎんのですよ」
 法水は徐《おもむ》ろに莨《たばこ》に火を点けて、一息吸うと続けた。
「云うまでもなくその徴候は、ある種の精神|障礙《しょうがい》には前駆となって来るものです。けれども、チーヘンの『忌怖《きふ》の心理』などを見ると、極度の忌怖感に駆られた際の生理現象として、それに関する数多《あまた》の実験的研究が挙げられています。ことに、最も興味を惹《ひ》かれるのは、ドルムドルフの『|死仮死及び早期の埋葬《トット・シャイントット・ウント・フリューヘ・ベエールディグング》』中の一例でしょうかな。確か一八二六年に、ボルドーの監督僧正《エピスコーポ》ドンネが急死して、医師が彼の死を証明したので、棺に蔵め埋葬式を行うことになりました。ところが、その最中ドンネは棺中で蘇生したのです。しかし、声音の自由を失っているので救いを求めることも出来ず、渾身《こんしん》の力を揮《ふる》って棺の蓋をわずかに隙《すか》しまでしたのでしたが、そのまま彼は力尽きて、再び棺中で動けなくなってしまいました。ところが、その生きながら葬られようとする言語に絶した恐怖の中で、折から荘厳な経文歌の合唱が轟《とどろ》いているにもかかわらず、彼の友人二人が、秘かに私語する声を聴いたと云うのですよ」それから法水は、その現象をこの事件の実体の中に移した。
「そうなると、勿論この場合、一つの疑題《クエスチョネア》です。だいたい召使《バトラー》などというものは、傍観的な亢奮《こうふん》こそあれ、また現場に達しもせぬ捜査官が、何か訊ねようとして近接する気配を現わしたにしても、それになんらの畏怖《いふ》を覚えるべき道理はありません。ですから、その時僕は、ある出来事の前提とでも云うような、薄気味悪い予感に打たれました。云わば、過敏神経の劇的《ドラマチック》な遊戯なんでしょうが、ちょっと口には云えない、一種異様に触れてくる空気を感じたのです。それが明瞭《はっき
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