には、御申し付けどおりに渡しておきましたが」と復命すると、それに法水は、尖塔にある十二宮の円華窓《えんげまど》を撮影するように命じてから、その私服を去らしめた。熊城は当惑げな顔で、微かに嘆息した。
「ああまた扉《ドア》と鍵か、犯人は呪《まじな》い屋か錠前屋か、いったいどっちなんだい。まさかにジョン・デイ博士の隠顕扉が、そうザラにあるという訳じゃあるまい」
「驚いたね」法水は皮肉な微笑を投げた。「あんなもののどこに、創作的な技巧があってたまるもんか。そりゃ、この館から一歩でも外へ出れば、無論驚くべき疑問に違いないさ。けれども、先刻《さっき》君は書庫の中で、犯罪現象学の素晴らしい書目《ビブリオグラフィー》を見たはずだっけね。つまり、その扉を鎖させなかった技巧というのが、この館の精神生活の一部をなすものなんだ。庁へ帰ってからグロース(註)でも見れば、それで何もかも判ってしまうのだよ」
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(註)法水がグロースと云ったのは、「予審判事要覧」中の犯人職業的習性の章で、アッペルトの「犯罪の秘密」から引いた一例だと思う。以前召使だった靴型工の一犯人が、ある銀行家の一室に忍び入り、その室と寝室との間の扉を鎖さしめないために、あらかじめ閂《かんぬき》穴の中に巧妙に細工した三稜柱形の木片を插入して置く。それがために銀行家は、就寝前に鍵を下そうとしても閂が動かないので、すでに閉じたものと錯覚を起し、犯人の計画はまんまと成功せしと云う。
[#ここで字下げ終わり]
法水があえて再言しようとはせず、そのまま不可避的なものとして放棄してしまったことは、平生検討的な彼を知る二人によると、異常な驚愕《きょうがく》に違いないのだった。が畢竟《ひっきょう》するところ、この事件の深さと神秘を、彼が書庫において測り得た結果であると云えよう。検事は再び法水の粋人的な訊問態度をなじりかかった。
「僕はレヴェズじゃないがね。君にやってもらいたいのは、もう動作劇《ハンドルングスドラマ》だけなんだ。ああいう恋愛詩人《ツルヴェール》趣味の唱《うた》合戦はいい加減にして、そろそろクリヴォフ夫人がそれとなしに仄《ほの》めかした、旗太郎の幽霊を吟味しようじゃないか」
「冗談じゃない」法水は道化《おどけ》たようななにげない身振をしたが、その顔にはいつもの幻滅的な憂鬱が一掃されていた。
「どうして、僕の心理表出摸索劇は終ったけれども、あれは歴史的な葛藤さ。ところが、僕が引っ組んだのは、あの三人じゃないのだ。ミュンスターベルヒなんだ。やはり、あいつは大|莫迦《ばか》野郎だったよ」
そこへ、警視庁鑑識医師の乙骨耕安《おとぼねこうあん》が入って来た。
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第四篇 詩と甲胄と幻影造型
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一、古代時計室へ
伸子の診察を終って入って来た乙骨《おとぼね》医師は、五十をよほど越えた老人で、ヒョロリと瘠せこけて蟷螂《かまきり》のような顔をしているが、ギロギロ光る眼と、一種気骨めいた禿《は》げ方とが印象的である。が、庁内きっての老練家だったし、ことに毒物鑑識にかけては、その方面の著述を五、六種持っているというほどで、無論|法水《のりみず》とも充分熟知の間柄だった。彼は座につくと無遠慮に莨《たばこ》を要求して、一口|甘《うま》そうに吸い込むと云った。
「さて法水君、僕の心像鏡的証明法は、遺憾ながら知覚喪失《オーンマハト》だ。だいたい廻転椅子がどうだろうがこうだろうが、結局あの蒼白く透き通った歯齦《はぐき》を見ただけで、僕は辞表を賭《か》けてもいいと思う。まさしく単純失神《トランス》と断言して差支えないのだ。ところで、ここで特に、熊城君に一言したいのだが、あの女が兇器の鎧通しを握っていたと聴いて、僕は|数当て骨牌《チックタッキング・カード》の裏を見たような気がしたのだよ。あの失神は、実に陰険|朦朧《もうろう》たるものなんだ。あまりに揃い過ぎているじゃないか」
「なるほど」法水は失望したように頷《うなず》いたが、「とにかく細目を承《うけたまわ》ろうじゃないか。あるいはその中から、君の耄碌《もうろく》さ加減が飛び出して来んとも限らんからね。ところで、君の検出法は?」
乙骨医師はところどころ術語を交えながら、きわめて事務的に彼の知見を述べた。
「無論吸収の早い毒物はあるにゃあるがね。それに、特異性のある人間だと、中毒量はるか以下のストリキニーネでも、屈筋震顫症《アテトージス》や間歇強直症《テタニイ》に類似した症状を起す場合がある。しかし、中毒としては末梢的所見はないのだし、胃中の内容物はほとんど胃液ばかりなんだ。――これはちょっと不審に思われるだろう。けれども、あの女が消化のよい食物を摂ってから二時間ぐらいで斃《たお》れたのだとしたら、胃の空虚には毫《ごう》も怪しむところはない。それから、尿にも反応的変化はないし、定量的に証明するものもない。ただ徒《いたず》らに、燐酸塩が充ち溢れているばかりなんだ。あの増量を、僕は心身疲労の結果と判断するが、どうだい」
「明察だ。あの猛烈な疲労さえなければ、僕は伸子の観察を放棄してしまっただろう」法水は何事かを仄《ほの》めかして、相手の説を肯定したが、「ところで、君が投じた試薬《リアクティヴ》は、たったそれだけかね」
「冗談じゃない。結局徒労には帰したけれども、僕は伸子の疲労状態を条件にして、ある婦人科的観察を試みたんだ。法水君、今夜の法医学的意義は、Pennyroyal《ペニイロイヤル》([#ここから割り注]毒性を有する薬草[#ここで割り注終わり])一つに尽きるんだよ。あの×・××ぐらいを健康未妊娠子宮に作用させると、ちょうど服用後一時間ほどで、激烈な子宮痳痺[#「痳痺」はママ]が起る。そして、ほとんど瞬間的に失神類似の症状が現われるんだ。ところが、その成分である Oleum Hedeomae Apiol さえ検出されない。勿論あの女には、既往において婦人科的手術をうけた形跡がないばかりでなく、中毒に対する臓器特異性を思わせる節《ふし》もないのだ。そこで法水君、僕の毒物類例集は結局これだけなんだけども、しかし結論として一言云わせてもらえるなら、あの失神の刑法的意義は、むしろ道徳的感情にあると云うに尽きるだろう。つまり、故意か内発か――なんだ」と乙骨医師は卓子《テーブル》をゴツンと叩いて、彼の知見を強調するのだった。
「いや、純粋の心理病理学《プシヒョバトロギイ》さ」法水は暗い顔をして云い返した。「ところで、頸椎《けいつい》は調べたろうね。僕はクインケじゃないが、恐怖と失神は頸椎の痛覚なり――と云うのは至言だと思うよ」
乙骨医師は莨《たばこ》の端をグイと噛み締めたが、むしろ驚いたような表情を泛《うか》べて、
「うん僕だって、ヤンレッグの『|病的衝動行為について《ユーベル・クランクハフテ・トリープハンドルンゲン》』や、ジャネーの『験触野《シヤン・エステジオメトリック》』ぐらいは読んでいるからね。いかにも、第四頸椎に圧迫がある場合に衝動的吸気《インスピラチヨン》を喰うと、横隔膜に痙攣《けいれん》的な収縮が起る。だがしかしだ。その肝腎《かんじん》な傴僂《せむし》というのは、あの女じゃない。それ以前に、一人|亀背《ポット》病患者が殺されているという話じゃないか」
「ところがねえ」と法水は喘《あえ》ぎ気味に云った。「無論確実な結論ではない。恐らく廻転椅子の位置や不思議な倍音演奏を考えたら、一顧する価値もあるまいよ。けれども一説として、僕はヒステリー性反覆睡眠に思い当ったのだ。あれを失神の道程に当ててみたいのだよ」
「もっとも法水君、元来僕は非幻想的な動物なんだがね」と乙骨医師は眩惑を払い退けるような表情をして、皮肉に云い返した。「だいたいヒステリーの発作中には、モルヒネに対する抗毒性が亢進するものだよ。しかし、どうあっても皮膚の湿潤だけは免れんことなんだがね」
ここで乙骨医師が、モルヒネを例に亢進神経の鎮静|云々《うんぬん》を持ち出したのは、勿論法水に対する諷刺ではあるけれども、それは、折ふし人間の思惟限界を越えようとする、彼の空想に向けられていたのだ。と云うのは、そのヒステリー性反覆睡眠という病的精神現象が、実に稀病中の稀病であって、日本でも明治二十九年八月|福来《ふくらい》博士の発表が最初の文献である。現に、好んで寺院や病的心理を扱う小城《こしろ》魚太郎([#ここから割り注]最近出現した探偵小説家[#ここで割り注終わり])の短篇中にも――殺人を犯そうとする一人の病監医員が、もともと一労働者にすぎないその患者に、医学的な術語を聴かせ、それを後刻の発作中に喋《しゃべ》らせて、自分自身の不在証明《アリバイ》に利用する――という作品もあるとおりで、自己催眠的な発作が起ると、自分が行いかつ聴いたうちの最も新しい部分を、それと寸分|違《たが》わぬまでに再演しかつ喋るのであるから、別名としてのヒステリー性無暗示後催眠現象と呼ぶ方が、かえって、この現象の実体に相応するように思われるのである。それであるからして乙骨医師が、内心法水の鋭敏な感覚に亢奮《こうふん》を感じながらも、表面痛烈な皮肉をもって異議を唱えたのも無理ではなかった。それを聴くと、法水はいったん自嘲めいた嘆息をしたが、続いて、彼には稀《めず》らしい噪狂的な亢奮《こうふん》が現われた。
「勿論|稀有《けう》に属する現象さ。しかし、あれを持ち出さなくては、どうして伸子が失神し鎧通しを握っていたか――という点に説明がつくもんか。ねえ乙骨君、アンリ・ピエロンは、疲労にもとづくヒステリー性知覚脱失の数十例を挙げている。また、あの伸子という女は、今朝弾いてその時弾くはずでなかった讃詠《アンセム》を、失神直前に再演したのだったよ。だから、その時何かの機《はず》みで腹を押したとすれば、その操作で無意識状態に陥るという、シャルコーの実験を信じたくなるじゃないか」
「すると、君が頸椎《けいつい》を気にした理由も、そこにあるのかね」と乙骨医師はいつの間にか引き入れられてしまった。
「そうなんだ。事によると、自分がナポレオンになるような幻視《アウロラ》を見ているかもしれないが、先刻《さっき》から僕は、一つの心像的標本を持っているのだ。君はこの事件に、ジーグフリードと頸椎――の関係があるとは思わないかね」
「ジーグフリード※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」これには、さすがの乙骨医師も唖然《あぜん》となってしまった。「もっとも、帰納的に頭の狂っている男は、その標本を一人僕も知っているがね」
「いや、結局は比《レイショ》の問題さ。しかし僕は、知性にも魔法的効果があると信じているよ」と法水は充血した眼に、夢想の影を漂わせて云った。「ところで、強烈な擽痒感覚《かゆみ》に、電気刺戟と同じ効果があるのを知っているかね。また、痳痺[#「痳痺」はママ]した部分の中央に、知覚のある場所が残ると、そこに劇烈な擽痒《かゆみ》が発生するのも、たぶんアルルッツの著述などで承知のことと思うよ。ところが君は、伸子の頸椎に打撲したような形跡はないと云う。けれども乙骨君、ここに僅《た》った一つ、失神した人間に反応運動を起させる手段がある。生理上けっして固く握れる道理のない手指の運動を、不思議な刺戟で喚起する方法があるのだ。そうしてそれが、[#ここから横組み]ジーグフリード+木の葉[#ここで横組み終わり]――の公式で表わされるのだがね」
「なるほど」と熊城は皮肉に頷《うなず》いて、「たぶんその木の葉と云うのが、ドン・キホーテなんだろうよ」
法水はいったんかすかに嘆息したが、なおも気魄を凝《こ》らして、神業《かみわざ》のような伸子の失神に絶望的な抵抗を試みた。
「マア聴き給え。恐ろしく悪魔的なユーモアなんだから。エーテルを噴霧状にして皮膚に吹きつけると、その部分の感覚が滲透的に脱失してしまう。それを失神した人間の全身にわたって行うのだが、手の運動を司る第七第八|頸椎《けいつい》に当る部分
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