、クリヴォフ夫人の方を向いて、
「時に、その詩文が誰の作品だか御存じですか?」
「いいえ存じません」クリヴォフ夫人はやや生硬な態度で答えたが、セレナ夫人は、法水の不気味な暗示に無関心のような静けさで、
「たしか、グスタフ・ファルケの『|樺の森《ダス・ビルケンヴェルドヘン》』では」
法水は満足そうに頷《うなず》き、やたらに煙の輪を吐いていたが、そのうち、妙に意地悪げな片笑が泛《うか》び上がってきた。
「そうです。まさに『|樺の森《ダス・ビルケンヴェルドヘン》』です。昨夜この室《へや》の前の廊下で、確かに犯人は、その樺の森を見たはずです。しかし、|かれ夢みぬ、されど、そを云う能わざりき《イーム・トラウムテ・エル・コンテス・ニヒト・ザーゲン》――なんですよ」
「では、その男は死人の室を、親しきものが行き通うがごとくに、戻っていったと仰言《おっしゃ》るのですね」とクリヴォフ夫人は、急に燥《はしゃ》ぎ出したような陽気な調子になって、レナウの「|秋の心《ヘルプストゲフュール》」を口にした。
「いえ、滑り行く[#「滑り行く」に傍点]――なんてどうして、彼奴は蹌踉き行ったのですよ[#「彼奴は蹌踉き行ったのですよ」に傍点]。ハハハハハ」と法水は爆笑を上げながら、レヴェズ氏を顧《かえり》みて、
「ところでレヴェズさん、勿論それまでには、|その悲しめる旅人は伴侶を見出せり《アイン・トリュベル・ワンドラー・フィンデット・ヒエル・ゲノッセン》――なんでしたからな」
「そ、それを御承知のくせに」とクリヴォフ夫人はたまらなくなったように立ち上り、杖《ケーン》を荒々しく振って叫んだ。「だからこそ私達は、その伴侶を焼き捨てて欲しいと御願いするのです」
ところが、法水はさも不同意を仄《ほの》めかすように、莨《たばこ》の紅い尖端を瞶《みつ》めていて答えなかった。が、側にいる検事と熊城には、いつ上昇がやむか涯しのない法水の思念が、ここでようやく頂点に達したかの感を与えた。けれども、法水の努力は、いっかな止もうとはせず、この精神劇《ゼーレン・ドラマ》において、あくまでも悲劇的開展を求めようとした。彼は沈黙を破って、挑《いど》むような鋭い語気で云った。
「ですがクリヴォフ夫人、僕はこの気狂い芝居が、とうてい人形の焼却だけで終ろうとは思えんのですよ。実を云うと、もっと陰険朦朧とした手段で、別に踊らされている人形があるのです。だいたいプラーグの万国操人形聯盟《インターナショナル・リーダ・オヴ・マリオネット》にだって、最近『ファウスト』が演ぜられたという記録はないでしょうからな」
「ファウスト※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ああ、あのグレーテさんが断末魔に書かれたと云う紙片の文字のことですか」レヴェズ氏は力を籠《こ》めて、乗り出した。
「そうです。最初の幕に水精《ウンディネ》、二幕目が風精《ジルフェ》でした。いまもあの可憐な|空気の精《ジルフェ》が、驚くべき奇蹟を演じて遁《のが》れ去ってしまったところなんですよ。それにレヴェズさん、犯人は Sylphus《ジルフス》 と男性に変えているのですが、貴方は、その風精《ジルフス》が誰であるか御存じありませんか」
「なに、儂《わし》が知らんかって※[#感嘆符疑問符、1−8−78] いや、お互いに洒落《しゃれ》は止めにしましょう」レヴェズ氏は反撃を喰ったように狼狽《うろた》えたが、その時、不遜をきわめていたクリヴォフ夫人の態度に、突如《いきなり》竦《すく》んだような影が差した。そして、たぶん衝動的に起ったらしい、どこか彼女のものでないような声が発せられた。
「法水さん、私は見ました。その男というのを確かに見ましたわ。昨夜私の室に入って来たのが、たぶんその風精《ジルフス》ではないかと思うんです」
「なに、風精《ジルフス》を」熊城の仏頂面が不意に硬くなった。「しかし、その時|扉《ドア》には、鍵が下りていたのでしょうな」
「勿論そうでした。それが不思議にも開かれたのですわ。そして、背の高い痩せぎすな男が、薄暗い扉《ドア》の前に立っているのを見たのです」クリヴォフ夫人は異様に舌のもつれたような声だったが語り続けた。「私は十一時頃でしたが、寝室へ入る際に確かに鍵を下しました。それから、しばらく仮睡《まどろ》んでから眼が覚めて、さて枕元の時計を見ようとすると、どうした事か、胸の所が寝衣《ねまき》の両端をとめられているようで、また、頭髪《かみのけ》が引っ痙《つ》れたような感じがして、どうしても頭が動かないのです。平生髪を解いて寝る習慣がございますので、これは縛りつけられたのではないかと思うと、背筋から頭の芯までズウンと痺《しび》れてしまって、声も出ず身動《みじろ》ぎさえ出来なくなりました。すると、背後《うしろ》にそよそよ冷たい風が起って、滑るような微かな跫音《あしおと》が裾の方へ遠ざかって行きます。そして、その跫音の主は、扉の前で私の視野の中に入ってまいりました。その男は振り返ったのです」
「それは誰でした?」そう云って、検事は思わず息を窒《つ》めたが、
「いいえ、判りませんでした」とクリヴォフ夫人は切なそうな溜息を吐いて、「卓上灯《スタンド》の光が、あの辺までは届かないのですから。でも、輪廓だけは判りましたわ。身長が五|呎《フィート》四、五|吋《インチ》ぐらいで、スンナリした、痩せぎすのように思われました。そして、眼だけが……」と述べられる肢体は、様子こそ異にすれ、何とはなしに旗太郎を髣髴《ほうふつ》とさせるのだった。
「眼に※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城はほとんど慣性で一言挾んだ。すると、クリヴォフ夫人は俄然|傲岸《ごうがん》な態度に返って、
「たしかバセドー氏病患者の眼を暗がりで見て、小さな眼鏡に間違えたとか云う話がございましたわね」と皮肉に打ち返したが、しばらく記憶を摸索するような態度を続けてから云った。
「とにかく、そういう言葉は、感覚外の神経で聴いて頂きたいのです。強《し》いて申せば、その眼が真珠のような光だったと云うほかにございません。それから、その姿が扉《ドア》の向うに消えると、把手《ノッブ》がスウッと動いて、跫音《あしおと》が微かに左手の方へ遠ざかって行きました。それで、ようやく人心地がつきましたけども、いつの間にか髪が解かれたと見えて、私は始めて首を自由にすることが出来たのです。時刻はちょうど十二時半でございましたが、それからもう一度鍵を掛け直して、把手《ノッブ》を衣裳戸棚に結び付けました。けれども、そうなると、もう一睡どころではございませんでした。ところが、朝になって調べても、室内にはこれぞという異状らしい所がないのです。して見ると、てっきりあの人形使いに違いございませんわ。あの狡猾《こうかつ》な臆病者は、眼を醒ました私には、指一本さえ触れることが出来なかったのです」
結論として大きな疑問を一つ残したけれども、クリヴォフ夫人の口誦《くちずさ》むような静かな声は、側《かたわら》の二人に悪夢のようなものを掴ませてしまった。セレナ夫人もレヴェズ氏も両手を神経的に絡ませて、言葉を発する気力さえ失せたらしい。法水は眠りから醒めたような形で、慌《あわ》てて莨《たばこ》の灰を落したが、その顔はセレナ夫人の方へ向けられていた。
「ところでセレナ夫人、その風来坊はいずれ詮議するとして、時にこういうゴットフリートを御存じですか。|吾れ直ちに悪魔と一つになるを誰が妨ぎ得べきや《ヴァス・ヒエルテ・ミッヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホイテ・トイフェル》――」
「ですけど、その短剣《ゼッヒ》……」と次句を云いかけると、セレナ夫人はたちまち混乱したようになってしまって、冒頭の音節から詩特有の旋律を失ってしまった、「その|短剣の刻印に吾が身は慄え戦きぬ《ゼッヒ・シュテムペル・シュレッケン・ゲエト・ドゥルヒ・マイン・ゲバイン》――が、どうして。ああ、また何故に、貴方はそんなことをお訊きになるのです?」としだいに亢奮《こうふん》していって、ワナワナ身を慄《ふる》わせながら叫ぶのだった。「ねえ、貴方がたは捜していらっしゃるのでしょう。ですけど、あの男がどうして判るもんですか。いいえ、けっしてけっして、判りっこございませんわ」
法水は紙巻を口の中で弄《もてあそ》びながら、むしろ残忍に見える微笑を湛えて相手を眺めていたが、
「なにも僕は、貴女の潜在批判を求めていやしませんよ。あんな風精《ジルフェ》の黙劇《ダム・ショウ》なんざあ、どうでもいいのです。それよりこれを、いずこに住めりや、なんじ暗き音響《ひびきね》――なんですがね」とデーメールの「|沼の上《ユーベル・デン・ジュムフェン》」を引き出したが、相変らずセレナ夫人から視線を放そうとはしなかった。
「ああ、それではあの」とクリヴォフ夫人は、妙に臆したような云い方をして、「でも、よくマア、伸子さんが間違えて、朝の讃詠《アンセム》を二度繰り返したのを御存じですわね。実は、今朝あの方は一度、ダビデの詩篇九十一番のあの讃詠《アンセム》を弾いたのですが、昼の鎮魂楽《レキエム》の後には、火よ霰《あられ》よ雪よ霧よ――を弾くはずだったのです」
「いや、僕は礼拝堂の内部《なか》の事を云っているのですよ」と法水は冷酷に突き放した。「実は、この事を知りたいのです。あの時、|確かそこにあるは薔薇なり、その附近には鳥の声は絶えて響かず《ドッホ・ローゼン・ジンデス・ウォバイ・カイン・リード・メール・フレテット》――でしたからね」
「それでは、薔薇乳香《ローゼン・ヴァイラウフ》を焚《た》いた事ですか」レヴェズ氏も妙にギコちない調子で、探るように相手を見やりながら、
「あれはオリガさんが、後半よほど過ぎてから一時演奏を中止して焚いたのですが、しかし、これでもう、滑稽な腹芸はやめて頂きましょう。儂《わし》どもは貴方から、人形の処置について伺えばよいのですから」
「とにかく明日《あした》まで考えさせて下さい」法水はキッパリ云い切った。「しかし、つまるところ僕等は、人身擁護の機械なんですからね。護衛という点では、あの魔法博士に指一本差させやしませんよ」
法水がそう云い終ると同時に、クリヴォフ夫人は憤懣の遣《や》り場を露骨に動作に現わして、性急《せわ》しく二人を促し立ち上った。そして、法水を憎々しげに見下して悲痛な語気を吐き捨てるのだった。
「やむを得ません。どうせ貴方がたは、この虐殺史を統計的な数字としかお考えにならないのですからね。いいえ、結局私達の運命は、アルビ教徒(註一)か、ウェトリヤンカ郡民(註二)のそれに異ならないかもしれません。ですけど、もし対策が出来るものなら……ああ、それが出来るのでしたら、今後は、私達だけですることにいたしますわ」
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(註)(一)アルビ教徒――南フランス、アルビに起りし新宗教、摩尼《マニ》教の影響をうけて、新約聖書のすべてを否定したるによって、法王インノセント三世の主唱による新十字軍のために、一二〇九年より一二二九年まで約四十七万人の死者を生ずるにいたれり。
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(二)ウェトリヤンカ郡民――一八七八年露領アストラカンの黒死病|猖獗《しょうけつ》期において、ウェトリヤンカ郡を砲兵を有する包囲線にて封鎖し、空砲発射並びに銃殺にて威嚇《いかく》せしめ、郡民は逃れ得ず、ほとんど黒死病のために斃《たお》れたり。
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「いやどうして」と法水はすかさず皮肉に応酬した。「ですがクリヴォフ夫人、たしか聖《セント》アムブロジオだったでしょうか、死は悪人にもまた有利なり――と云いましたからな」
鎖を忘れられた聖《セント》バーナード犬《ドック》が、物悲しげに啼《な》きながら、セレナ夫人の跡を追うて行ったのが最後で、三人が去ってしまうと、入れ違いに一人の私服が先刻命じておいた裏庭の調査を完了して来た。そして、調査書を法水に渡してから、
「鎧通《よろいどお》しは、やはりあの一本だけでした。それから、本庁の乙骨《おとぼね》医師
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