ドア》が外側から引かれた。そして、二人の召使《バトラー》が閾《しきい》の両側に立つと見る間に、その間から、オリガ・クリヴォフ夫人の半身が、傲岸《ごうがん》な威厳に充ちた態度で現われた。彼女は、貂《てん》で高い襟のついた剣術着《フェンシング・ケミセット》のような黄色い短衣《ジャケット》の上に、天鵞絨《びろうど》の袖無外套《クローク》を羽織っていて、右手に盲目のオリオンとオリヴァレス伯([#ここから割り注]一五八七―一六四五。西班牙(スペイン)フィリップ四世朝の宰相[#ここで割り注終わり])の定紋が冠彫《かしらぼり》にされている、豪奢な講典杖《キャノニスチック・ケーン》をついていた。その黒と黄との対照が、彼女の赤毛に強烈な色感を与えて、全身が、焔《ほのお》のような激情的なものに包まれているかの感じがするのだった。頭髪を無雑作に掻き上げて、耳朶《みみたぶ》が頭部と四十五度以上も離れていて、その上端が、まるで峻烈な性格そのもののように尖っている。やや生え際の抜け上った額は眉弓が高く、灰色の眼が異様な底光りを湛えていて、眼底の神経が露出したかと思われるような鋭い凝視だった。そして、顴骨《かんこつ》から下が断崖状をなしている所を見ると、その部分の表出が険しい圭角的なもののように思われ、また真直に垂下した鼻梁にも、それが鼻翼よりも長く垂れている所に、なんとなく画策的な秘密っぽい感じがするのだった。旗太郎は摺れ違いざまに、肩口から見返して、
「オリガさん、御安心下さい。何もかも、お聴きのとおりですから」
「ようく判りました」とクリヴォフ夫人は鷹揚《おうよう》に半眼で頷《うなず》き、気取った身振をして答えた。「ですけど旗太郎さん、仮りにもし私の方が先に呼ばれたのでしたら、その場合の事もお考え遊ばせな。きっと貴方だって、私どもと同様な行動に出られるにきまってますわ」
クリヴォフ夫人が私どもと複数を使ったのに、ちょっと異様な感じがしたけれども、その理由は瞬後に判明するに至った。扉際に立っていたのは彼女一人だけではなく、続いてガリバルダ・セレナ夫人、オットカール・レヴェズ氏が現われたからだった。セレナ夫人は、毛並の優れた聖《セント》バーナード犬《ドッグ》の鎖を握っていて、すべてが身長と云い容貌と云い、クリヴォフ夫人とは全く対蹠《たいせき》的な観をなしていた。暗緑色のスカートに縁紐《バンド》で縁取りされた胸衣《ボディス》をつけ、それに肱《ひじ》まで拡がっている白いリンネルの襟布《カラー》、頭にアウグスチン尼僧が被るような純白の頭布《カーチーフ》を頂いている。誰しもその優雅な姿を見たら、この婦人が、ロムブローゾに激情性犯罪の市《まち》と指摘されたところの、南|伊太利《イタリー》ブリンデッシ市の生れとは気づかぬであろう。レヴェズ氏はフロックに灰色のトラウザー、それに翼形《ウイング》カラーをつけ、一番最後に巨体を揺って現われたが、先刻《さっき》礼拝堂で遠望した時とは異なり、こう近接して眺めたところの感じは、むしろ懊悩的で、一見心のどこかに抑止されているものでもあるかのような、ひどく陰鬱気な相貌をした中老紳士だった。そして、この三人は、まるで聖餐祭の行列みたいに、ノタリノタリと歩み入って来るのだった。恐らくこの光景は、もしこの時、綴織《ツルネー》の下った長管喇叭《トロムパ》の音が起って筒長太鼓《ライディング・ティンパニイ》が打ち鳴らされ、静蹕《せいひつ》を報ずる儀仗《ぎじょう》官の声が聴かれたなら、ちょうどそれが、十八世紀ヴュルッテムベルクかケルンテン辺りの、小ぢんまりした宮廷生活を髣髴《ほうふつ》たらしめるものであろうし、また反面には、従えた召使《バトラー》の数に、彼等の病的な恐怖が窺えるのだった。さらに、いま旗太郎との間に交された醜悪な黙闘を考えると、そこに何やら、犯罪動機でも思わせるような、黝《くろず》んだ水が揺ぎ流れるといった気がしないでもなかった。けれども、なによりこの三人には、最初から採証的にも疑義を差し挾む余地はなかったのである。やがて、クリヴォフ夫人は法水の前に立つと、杖《ケーン》の先で卓子《テーブル》を叩き、命ずるような強《きつ》い声音で云った。
「私どもは、して頂きたい事があってまいったのですが」
「と云うと何でしょうか。とにかくお掛け下さい」法水がちょっと躊躇《たじろ》ぎを見せたのは、彼女の命令的な語調ではなかった。遠見でホルバインの、「マーガレット・ワイヤット([#ここから割り注]ヘンリー八世の伝記者、タマス・ワイヤット卿の[#「タマス・ワイヤット卿の」は底本では「タマスワイヤット卿の」]妹[#ここで割り注終わり])の像」に似ていると思われたクリヴォフ夫人の顔が、近づいてみると、まるで種痘痕《ほうそうあと》のような醜い雀斑《そばかす》だったからである。
「実は、テレーズの人形を焚き捨てて頂きたいのです」とクリヴォフ夫人がキッパリ云い切ると、熊城は吃驚《びっくり》して叫んだ。
「なんですと。たかが人形一つを。それは、また何故にです?」
「そりゃ、人形だけなら死物でしょうがね。とにかく、私どもは防衛手段を講ぜねばなりません。つまり、犯人の偶像を破棄して欲しいのです。時に貴方は、レヴェンスチイムの『|迷信と刑事法典《アーベルグラウベ・ウント・フェルブレヒェリッシュ・ローデル(註)》』――をお読みになったことがございまして?」
「では、ジュゼッペ・アルツォのことを仰言《おっしゃ》るのですね」それまで法水は、しきりになにやら沈思げな表情をしていたが、はじめて言葉を挾んだ。
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(註)キプロスの王ピグマリオンに始めて偶像信仰を記したる犯罪に関する中にあり。羅馬《ローマ》人マクネージオと並称さるるジュゼッペ・アルツオは、史上著名なる半陰陽にして、男女二基の彫像を有し、男となる時には女の像を、女としての際には男の像に礼拝するを常とせり。而して詐偽、窃盗、争闘等を事とせしも、一度男の像を破棄さるるに及び、その不思議な二重人格は身体的にも消失せりと伝えらる。
[#ここで字下げ終わり]
「まさにそうなのです」とクリヴォフ夫人は得たり顔に頷《うなず》いて、他の二人に椅子を薦《すす》めてから、「私はなんとかして、心理的にだけでも犯人の決行力を鈍らしたいと思うのですわ。次々と起る惨劇を防ぐには、もう貴方がたの力を待ってはおられません」
それに次いでセレナ夫人が口を開いたけれども、彼女は両手を怯々《おずおず》と胸に組み、むしろ哀願的な態度で云った。
「いいえ、心理的に崇拝物《トーテム》どころの話ですか。あの人形は犯人にとると、それこそグンテル王の英雄([#ここから割り注]ニーベルンゲン譚中、グンテル王の代りに、ブルンヒルト女王と闘ったジーグフリートの事[#ここで割り注終わり])なんでございますからね。今後も重要な犯罪が行われる場合には、きっと犯人は陰険な策謀の中に隠れていて、あのプロヴィンシア人だけが姿を現わすにきまってますわ。だって、易介や伸子さんとは違って、私達は無防禦ではございませんものね。ですから、たとえば遣《や》り損じたにしても、捕えられるのが人形でしたら、また次の機会がないとも限りませんわ」
「さよう、どのみち三人の血を見ないまでは、この惨劇は終らんでしょうからな」レヴェズ氏は脹れぼったい瞼を戦《おのの》かせて、悲しげに云った。「ところが、儂《わし》どもには課せられている律法《おきて》がありますのでな。それで、この館から災を避けることは不可能なのです」
「その戒律ですが、たぶんお聴かせ願えるでしょうな?」と検事はここぞと突っ込んだが、それをクリヴォフ夫人はやにわに遮って、
「いいえ、私達には、それをお話しする自由はございません。いっそ、そんな無意味な詮索をなさるよりも……」とにわかに激越な調子になり声を慄《ふる》わせて、「ああ、こうして私達は|暗澹たる奈落の中で《プランキング・イン・ジス・ダーク・アビス》、|火焔の海中にあるのです《サファリング・イン・ザ・シー・オブ・ファイア》。それを、貴方は何故そう好奇《ものずき》の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、新しい悲劇を待っておられるのでしょう?」と悲痛な声でヤングの詩句を叫ぶのだった。
法水は三人を交互《かわるがわる》に眺めていたが、やがて乗り出すように足を組換え、薄気味悪い微笑が浮び上ると、
「さよう、まさに、|永続、無終《エヴァラスチング・エンド・エヴァ》なんです」と突然、狂ったのではないかと思われるような、言葉を吐いた。「そういう残酷な永遠刑罰を課したというのも、みんな故人の算哲博士なんですよ。たぶん旗太郎さんが云われたことをお聴きでしたでしょうが、博士こそ、|爾を父と呼びつつあるのを得たり気な歓喜をもって瞰視している《ヒイ・イズ・ルッキング・ダウン・フロム・パーフェクト・ブリス・コーリング・ジイ・ファザー》のです」
「マア、お父様が」セレナ夫人は姿勢《かたち》を改めて、法水を見直した。
「そうです。|罪と災の深さを貫き《スルー・オール・デプス・オヴ・シン・アンド・ロッス》、|吾が十字架の測鉛は垂る《ドロップス・ゼ・プラメット・オヴ・マイ・クロッス》――ですからな」と法水が自讃めいた調子でホイッチアを引用すると、クリヴォフ夫人は冷笑を湛えて、
「いいえ、|されど未来の深淵は、その十字架の測り得ざるほどに深し《イエット・フュチャア・アビス・ウォズ・ファウンド・ディバー・ザン・クロッス・クッド・サウンド》――ですわ」と云い返したが、その冷酷な表情が発作的に痙攣《けいれん》を始めて、「ですが、ああきっと、ほどなくしてその男死にたり[#「ほどなくしてその男死にたり」に傍点]――でしょうよ。貴方がたは、易介と伸子さんの二つの事件で、既《とう》に無力を曝露《ばくろ》しているのですからね」
「なるほど」と簡単に頷《うなず》いたが、法水はいよいよ挑戦的にそして辛辣《しんらつ》になった。「しかし、誰にしろ、最後の時間がもう幾許《いくばく》か測ることは不可能でしょうからね。いや、かえって昨夜などは、|かしこ涼し気なる隠れ家に、不思議なるもの覗けるがごとくに見ゆ《シャイント・ドルト・イン・キューレンシャウエルン・アイン・ゼルトザメス・ツ・ラウエルン》――と思うのですが」
「では、その人物は何を見たのでしょうな。儂《わし》はとんとその詩句を知らんのですよ」レヴェズ氏が暗い怯々《おどおど》した調子で問い掛けると、法水は狡《ずる》そうに微笑《ほほえ》んで、
「ところがレヴェズさん、心も黒く夜も黒し、薬も利きて手も冴えたり――なんです。そして、その場所が、折もよし人も無ければ――でした」
と云い出したのは、一見見え透いた鬼面のようでもあり、また、故意に裏面に潜んでいる棘《いばら》のような計謀を、露わに曝《さら》け出したような気がしたけれども、しかし彼の巧妙な朗誦法《エロキューション》は、妙に筋肉が硬ばり、血が凍りつくような不気味な空気を作ってしまった。クリヴォフ夫人は、それまで胸飾りのテュードル薔薇《ローズ》([#ここから割り注]六弁の薔薇[#ここで割り注終わり])を弄《いじ》っていた手を卓上に合わせて、法水に挑み掛るような凝視を送りはじめた。が、その間のなんとなく一抹《いつまつ》の危機を孕《はら》んでいるような沈黙は、戸外で荒れ狂う吹雪《ふぶき》の唸《うな》りを明瞭《はっきり》と聴かせて、いっそう凄愴なものにしてしまった。法水はようやく口を開いた。
「しかし、原文には、|また真昼を野の火花が散らされるばかりに、日の燃ゆるとき《ウント・ミタハス・ウエン・ディ・ゾンネ・グリュート・ダス・ファスト・ディ・ハイデ・フンケン・スプリュート》――とあるのですが、そこは不思議なことに、真昼や明りの中では見えず、夜も、闇でなくては見ることの出来ぬ世界なのです」
「闇に見える※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」レヴェズ氏は警戒を忘れたように反問した。
法水はそれには答えず
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