ようとは思われませんな。ですから、日常生活では、たいしてお互いが親密だと云うほどでもなく、若い頃にも密接した生活にかかわらず、いっこう恋愛沙汰など起らなかったのでしたよ。もっとも、お互いに接近しようとする意識のないせいもあるでしょうが、感情の衝突などということは、あの一団にも、また異人種の吾々《われわれ》に対しても、かつて見たことがないというほどですのじゃ。とにかく、やはり算哲様でしょうかな――あの四人の方々が、一番親愛の情を感じていた人物と云えば」
「そうですか、博士に……」といったん法水は意外らしい面持をしたが、烟《けむり》をリボンのように吐いて、ボードレールを引用した。
「では、さしずめその関係と云うのが、|吾が懐かしき魔王よ《オー・モン・シェル・ベルゼビュット》なんでしょうか」
「そうです。まさに|吾なんじを称えん《ジュ・タドール》――じゃ」真斎は微かに動揺したが、劣らず対句で相槌《あいづち》を打った。
「しかし、ある場合は」と法水はちょっと思案気な顔になり、「|洒落者や阿諛者はひしめき合って《ゼ・ボー・エンド・ウイットリング・ペリシュト・イン・ゼ・スロング》――」と云いかけたが、急にポープの『|髪盗み《レープ・オヴ・ゼ・ロック》』を止めて『ゴンザーゴ殺し』([#ここから割り注]ハムレット中の劇中劇[#ここで割り注終わり])の独白《せりふ》を引き出した。
「どのみち、|汝真夜中の暗きに摘みし草の臭き液よ《ザウ・ミクスチュア・ランク・オヴ・ミッドナイト・ウイーズ・コレクテッド》――でしょうからね」
「いや、どうして」と真斎は頸《くび》を振って、「|三たび魔神の呪詛に萎れ、毒気に染みぬる《ウイズ・ヘキッツ・バン・スライス・プラステッド・スライス・インフェクテッド》――とは、けっして」と次句で答えたが、異様な抑揚で、ほとんど韻律を失っていた。のみならず、何故か周章《あわてふため》いて復誦したが、かえってそれが、真斎を蒼白なものにしてしまった。法水は続けて、
「ところで田郷さん、事によると、僕は幻覚を見ているのかもしれませんが、この事件に――|しかるに上天の門は閉され《バット・ジ・イシリアル・ゲート・クローズト》――と思われる節があるのですが」と法水は、門《ゲート》という一字をミルトンの『失楽園』の中で、ルシファの追放を描いている一句に挾んだ。
「ところが、このとおり」真斎は平然としながらも、妙に硬苦《かたくる》しい態度で答えた。「隠扉《かくしど》もなければ、揚蓋《あげぶた》も秘密階段もありません。ですから、確実に、|再び開く事なし《ナット・ロング・ディヴィジブル》――なのです」
「ワッハハハハ、いやかえって、|異常に空想が働き、男自ら妊れるものと信ずるならん《メン・プルーヴ・ウイズ・チャイルド・アズ・パワーフル・ファンシイ・ウォークス》――かもしれませんよ」と法水が爆笑を揚げたので、それまで、陰性のものがあるように思われて、妙に緊迫していた空気が、偶然そこで解《ほぐ》れてしまった。真斎もホッとした顔になって、
「それより法水さん、この方を儂《わし》は、|処女は壺になったと思い三たび声を上げて栓を探す《エンド・メイド・ターンド・ボットルス・コール・アラウド・フォア・コークス・スライス》――だと思うのですが」
この奇様な詩文の応答に、側の二人は唖然《あぜん》となっていたが、熊城は苦々しく法水に流眄《ながしめ》をくれて、事務的な質問を挾んだ。
「ところで、お訊ねしたいのは、遺産相続の実状なんです」
「それが、不幸にして明らかではないのですよ」真斎は沈鬱な顔になって答えた。「勿論その点が、この館に暗影を投げていると云えましょう。算哲様はお歿《なくな》りになる二週間ほど前に、遺言状を作成して、それを館の大金庫の中に保管させました。そして、鍵も文字合わせの符表もともに、津多子様の御夫君|押鐘《おしがね》童吉博士にお預けになったのですが、何か条件があるとみえて、未だもって開封されてはおりません。儂《わし》は相続管理人に指定されているとは云い条、本質的には全然無力な人間にすぎんのですよ」
「では、遺産の配分に預かる人達は?」
「それが奇怪な事には、旗太郎様以外に、四人の帰化入籍をされた方々が加わっております。しかし、人員はその五人だけですが、その内容となると、知ってか知らずか、誰しも一言半句さえ洩らそうとはせんのです」
「まったく驚いた」と検事は、要点を書き留めていた鉛筆を抛り出して、
「旗太郎以外にたった一人の血縁を除外しているなんて。だが、そこには何か不和とでも云うような原因が……」
「それがないのですから。算哲様は津多子様を一番愛しておられました。また、その意外な権利が、四人の方々には恐らく寝耳に水だったでしょう。ことにレヴェズ様のごときは、夢ではないかと申されたほどでした」
「それでは田郷さん、さっそく押鐘博士に御足労願うことにしましょう」と法水は静かに云った。「そうしたら、幾分算哲博士の精神鑑定が出来るでしょうからな。では、どうぞこれでお引き取り下さい。それから、今度は旗太郎さんに来て頂きますかな」
真斎が去ると、法水は検事の方へ向き直って、
「これで、二つ君の仕事が出来た訳だよ。押鐘博士に召喚状を出す事と、もう一つは、予審判事に家宅捜査令状を発行してもらう事なんだ。だって、僕等の偏見を溶かしてしまうものは、この場合、遺言状の開封以外にはないじゃないか。どのみち、押鐘博士もおいそれとは承諾しまいからね」
「時に、君と真斎がやった、いまの詩文の問答だが」と熊城は率直に突っ込んだ。「あれは、何か物奇主義《ディレッタンティズム》の産物かね」
「いやどうして、そんな循環論的なしろものなもんか。僕がとんだ思い違いをしているか、それとも、ユングやミュンスターベルヒが大|莫迦《ばか》野郎になってしまうかなんだ」
法水は曖昧な言葉で濁してしまったが、その時、廊下の方から口笛の音が聞えてきた。それが止むと、扉が開いて旗太郎が現われた。彼はまだ十七にすぎないのだが、態度がひどく大人びていて、誰しも成年期を前に幾分残っていなければならぬ、童心などは微塵も見られない。ことに、媚麗《うつく》しい容色の階調を破壊しているのが、落着きのない眼と狭い額だった。法水は丁寧に椅子を薦めて、
「僕はその『ペトルーシュカ』が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓《はかあな》が待っているのですからね」
冒頭に旗太郎は、全然予期してもいなかった言葉を聴いたので、その蒼白くすんなり伸びた身体が、急に硬ばったように思われ、神経的に唾《つば》を嚥《の》みはじめた。法水は続けて、
「と云って、貴方が口笛で『乳母の踊り』の個所《ところ》を吹くと、それにつれて、テレーズの自動弾条人形《ペトルーシュカ》が動き出すというのではないのです。それに、また昨夜《ゆうべ》十一時頃に、貴方が紙谷伸子と二人でダンネベルグ夫人を訪れ、それからすぐ寝室に入られたという事も判っているのですからね」
「それでは、何をお訊ねになりたいのです?」と旗太郎は十分声音変化のきている声で、反抗気味に問い返した。
「つまり、貴方がたに課せられている、算哲博士の意志をですがね」
「ああ、それでしたら」と旗太郎は、微かに自嘲めいた亢奮《こうふん》を泛《うか》べて、「確かに、音楽教育をしてくれた事だけは、感謝してますがね。でなかった日には、既《とう》に気狂いになっていますよ。そうでしょう。倦怠《けんたい》、不安、懐疑、廃頽《はいたい》――と明け暮れそればかりです。誰だって、こんな圧し殺《つぶ》されそうな憂鬱の中で、古びた能衣裳みたいな人達といっしょに暮してゆけるもんですか。実際父は、僕に人間惨苦の記録を残させる――それだけのために、細々と生を保ってゆく術《すべ》を教えてくれたのです」
「そうすると、それ以外のすべてを、四人の帰化入籍が奪ってしまったという訳ですか?」
「たぶんそうともなりましょうね」と旗太郎は妙に臆したような云い方をして、「いや、事実未だに、その理由が判然《はっきり》としておりません。なにしろ、グレーテさんはじめ四人の人達の意志が、それには少しも加わっていないのですからね。ところで、こういう女王《クイーン》アン時代の警句を御存じですか。陪審人が僧正《ビショップ》の夕餐に与《あずか》るためには、罪人が一人|絞《くび》り殺される――って。だいたい、父という人物が、そういった僧正《ビショップ》みたいな男なんです。魂の底までも、秘密と画策に包まれているんですから、たまりませんよ」
「ところが旗太郎さん、そこに、この館の病弊があるのですよ。いずれ除かれることでしょうが、だが貴方にしたところで、なにも博士の精神解剖図を、持っているという訳じゃありますまい」と相手の妄信を窘《たしな》めるように云ってから、法水は再び事務的な質問を放った。
「ところで、入籍の事を、博士から聴かれたのは何日頃です?」
「それが、自殺する二週間ほど前でした。その時遺言状が作成されて、僕は、自分自身に関する部分だけを父から読み聴かされたのです」と云いかけたが、旗太郎は急に落着かない態度になって、「ですけれど法水さん、僕には、その部分をお聴かせする自由がないのですよ。口に出したら最後[#「口に出したら最後」に傍点]、それは持分の喪失を意味するのですからね[#「それは持分の喪失を意味するのですからね」に傍点]。それに、他の四人も同様で、やはり自分自身に関する事実よりほかに知らないのです」
「いやけっして」と法水は、諭すような和やかな声音《こわね》で、「だいたい日本の民法では、そういう点がすこぶる寛大なんですから」
「ところが駄目です」と旗太郎は蒼ざめた顔で、キッパリ云い切った。「何より、僕は父の眼が怖ろしくてならないのです。あのメフィストのような人物が、どうして後々にも、何かの形で陰険な制裁方法を残しとかずにはおくものですか。きっとグレーテさんが殺されたのだって、そういう点で、何か誤ちを冒したからに違いありません」
「では、酬いだと云われるのですか」と熊城は鋭く切り込んだ。
「そうです。ですから、僕が云えないという理由は、十分お解りになったでしょう。そればかりでなく、第一、財産がなければ、僕には生活というものがないのですからね」と平然と云い放って、旗太郎は立ち上った。そして、提琴奏者《ヴァイオリニスト》特有の細く光った指を、十本|卓子《テーブル》の端に並べて、最後に彼はひどく激越な調子で云った。
「もうこれで、お訊ねになる事はないと思いますが、僕の方でも、これ以上お答えすることは不可能なのです。しかし、この事だけは、はっきり御記憶になって下さい。よく館の者は、テレーズ人形のことを悪霊だと申すようですが、僕には、父がそうではないかと思われるのです。いいえ、確かに父は、この館の中にまだ生きているはずです」
旗太郎は、遺言書の内容にはきわめて浅く触れたのみで、再度鎮子に続いて、黒死館人特有の病的心理を強調するのだった。そうして陳述を終ると、淋しそうに会釈してから、戸口の方へ歩んで行った。ところが、彼の行手に当って、異様なものが待ち構えていたのである。と云うのは、扉の際まで[#「際まで」は底本では「際まる」]来ると、何故かその場で釘付けされたように立ち竦《すく》んでしまい、そこから先へは一歩も進めなくなってしまった。それは、単純な恐怖とも異なって、ひどく複雑な感情が動作の上に現われていた。左手を把手《ノッブ》にかけたままで、片腕をダラリと垂らし、両眼を不気味に据えて前方を凝視しているのだった。明らかに彼は、何事か扉の彼方に、忌怖《きふ》すべきことを意識しているらしい。がやがて、旗太郎は、顔面をビリリと怒張させて、醜い憎悪の相を現わした。そして、痙《ひっ》つれたような声を前方に投げた。
「ク、クリヴォフ夫人……貴女は」
そう云った途端に、扉《
前へ
次へ
全70ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング