かんむり/石」、165−16]《ぼこう》を訪れねばならないのだ。何故なら、あの|+《よこじゅうじ》の記号――ディグスビイが楽想を無視してまで、暗示しなければならなかったものが何であるか。それを知るには、あの墓※[#「穴かんむり/石」、165−18]と鐘楼の十二宮以外にはないように思われるからなんだよ」
 それから裏庭へ出るまでに、雪はやや繁くなってきたので、急いで足跡の調査を終らねばならなかった。まず法水は、左右から歩み寄って来た二条の足跡が合致している点に立って、そこから、左方にかけての一つを追いはじめた。そこはちょうど、死霊が動いていたと云われる張出縁の真下に当っているのだが、なおその附近に、もう一つ顕著な状況が残っていた。と云うのは、ごく最近に、その辺一帯の枯芝を焼いたらしい形跡が残っている事だった。その真黒な焦土《こげつち》が、昨夜来の降雨のために、じとじと泥濘《ぬかる》んでいるので、その上には銀色をした鞍《くら》のような形で、中央の張出間《アプス》が倒影していた。のみならず、焼け残りの部分が様々な恰好で、焦土の所々に黄色く残っているところは、ちょうど焼死体の腐爛《ふらん》した皮膚を見るようで、薄気味悪く思われるのだった。
 ところで、その二|条《すじ》の足跡を詳細に云うと、法水が最初|辿《たど》りはじめた左手のものは、全長が二十センチほどの男の靴跡で、はなはだしく体躯《たいく》の矮小《わいしょう》な人物らしく思われるが、全体が平滑で、いぼも連円形もない印像の模様を見ると、それが特種の使途に当てられる、護謨《ゴム》製の長靴らしく推定された。それを順々に追うて行くと、本館の左端と密着して建てられていて、造園倉庫という掛札のしてある、シャレイ式([#ここから割り注]瑞西(スイス)山岳地方、即ちアルペン風の様式[#ここで割り注終わり])の洒落《しゃれ》た積木小屋から始まっている。また、もう一つの方は全長二十六、七センチほどで、この方はまさに常人型と思われる、男用の套靴《オヴァ・シューズ》の跡だった。本館の右端に近い出入扉から始まっていて、張出間《アプス》の外側を弓形に沿い、現場に達しているが、その二つはいずれも、乾板の破片が落ちている場所との間を往復していた。
 法水は衣袋《ポケット》から巻尺を取り出して、一々印像に当て靴跡の計測を始めた。套靴《オヴァ・シューズ》の方は、歩幅にはやや小刻みというのみの事で、これぞと云う特徴はなく、きわめて整然としている。が、印像には不審なものが現われていた。すなわち、爪先と踵《かかと》と、両端だけがグッと窪んでいて、しかも内側へ偏曲した内翻の形を示しているが、さらに異様な事には、その両端のものが、中央へ行くに従い浅くなっているのだった。また、護謨《ゴム》製の長靴らしく思われる方は、形状の大きさに比例すると歩幅が狭く、さらにいちじるしく不揃いであるばかりでなく、後踵部には重心があったと見え、特に力の加わった跡が残っていた。のみならず、印像全体の横幅も、わずかながら一つ一つ異なっていたのである。その上、爪先の部分を中央部に比較すると、均衡上幾分小さいように思われて、それがやや不自然な観を与える。また、その部分の印像が特に不鮮明で、形状の差異も、その辺が最もはなはだしかった。そして、往路の歩線は建物に沿うているが、復路には造園倉庫まで直線に行こうとしたものらしく、七、八歩進んで焼け残りの枯芝の手前まで来ると、幅三尺ほどにすぎない帯状のそれを、跨《また》ぎ越えた形跡を残している。ところが、それから二歩目になると、まるで建物が大きな磁石ででもあるかのように、突然歩行が電光形に屈折していて、そこから、横飛びに建物と擦々《すれすれ》になり、今度は、往路に印された線の上を辿《たど》って、出発点の造園倉庫に戻っていた。なお、復路に掛ろうとする最初の一歩は、右足で身体を廻転させ左足から踏み出しており、枯芝を越えた靴跡は、左足で踏み切って、右足で跨《また》いでいる。のみならず、二様の靴跡のいずれにも、建物に足を掛けたらしい形跡は残されていなかった。([#ここから割り注]以上一六六頁の図参照[#ここで割り注終わり])
[#裏庭の足跡の図(fig1317_11.png)入る]
 以上述べたところの、総体で五十に近い靴跡には、周囲の細隙から滲み込んだ泥水が、底ひたひたに澱《よど》んでいるだけで、印像の角度は依然鮮明に保たれていた。すなわち、雨に叩かれた形跡は、些細《ささい》なものも現われていないのである。してみると、靴跡が印されたのは、昨夜雨が降り止んだ十一時半以後に相違ない。しかも、その二様の靴跡について、前後を証明するものがあった。と云うのは、乾板の破片を中心に、二つの靴跡が合流している附近に、一ヶ所|套靴《オヴァ・シューズ》の方が、片方の上を踏んでいる跡が残っていた。したがって、套靴《オヴァ・シューズ》を付けた人物の来た時刻が、護謨《ゴム》製の長靴と思われる方と同時か、あるいはそれより以後である事は明らかなのである。続いて、法水の調査が造園倉庫にも及んだのは当然であるが、そのシャレイ風の小屋は床のない積木造りで、内部から扉《ドア》一つで本館に通じていた。そして、各種の園芸用具や害虫駆除の噴霧器などが、雑然と置かれてあった。法水は、本館に出入りする扉の側で、一足の長靴を見付けだした。それは先が喇叭《ラッパ》形に開いていて、腿《もも》の半分ぐらいまでも埋まってしまう、純護謨製《ピュアー・ラバー》の園芸靴だった。しかも、底に附着している泥の中で、砂金のように輝いているのが、乾板の微粒だったのである。のみならず、後刻になって、その園芸用の長靴は、川那部易介の所有品である事が判明した。
 そうなってみると読者諸君は、この二様の靴跡に様々な疑問を覚えられるであろうが、ことに、ある一つの驚くべき矛盾に気づかれたことと思う。また、靴跡相互の時間的関係から推しても、夜半陰々たる刻限に、二人の人物によって何事が行われたのか――恐らくその片影すら、窺《うかが》うことは不可能であるに相違ない。云うまでもなく法水でさえも、原型を回復することは勿論のこと、この紛乱錯綜した謎の華《はな》には、疑義を挾む一言半句さえ述べる余地はなかったのである。しかし法水は、心中何事か閃《ひらめ》いたものがあったとみえて、鑑識課員に靴跡の造型を命じた後に、次項どおりの調査を私服に依頼した。
[#ここから1字下げ]
一、附近の枯芝は何時《いつ》頃焼いたか?
一、裏庭側全部の鎧扉に附着している氷柱《つらら》の調査。
一、夜番について、裏庭における昨夜十一時半以後の状況聴取。
[#ここで字下げ終わり]
 それからほどなく、闇の中を点のような赭《あか》い灯が動いていったと云うのは、法水等が網龕灯《あみがんどう》を借りて、野菜園の後方にある墓地に赴《おもむ》いたからだった。その頃は雪が本降りになっていて、烈風は櫓楼を簫《しょう》のように唸《うな》らせ、それが旋風《つむじ》と巻いて吹き下してくると、いったん地面に叩き付けられた雪片が再び舞い上ってきて、たださえ仄《ほの》暗い灯の行手を遮るのだった。やがて、凄愴《せいそう》な自然力に戦《おのの》いている橡《とち》の樹林が現われ、その間に、二本の棺駐門の柱が見えた。そこまで来ると、頭上の格の中から、歯ぎしりのような鐘を吊した鐶《かん》の軋《きし》りが聞え、振動のない鐘を叩く錘舌《クラッパー》の音が、狂った鳥のような陰惨な叫声を発している。墓地はそこから始まっていて、小砂利道の突当りが、ディグスビイの設計した墓※[#「穴かんむり/石」、169−18]《ぼこう》だった。
 墓※[#「穴かんむり/石」、170−1]の周囲は、約翰《ヨハネ》と鷲、路加《ルカ》と有翼|犢《こうし》と云うような、十二師徒の鳥獣を冠彫《かしらぼり》にした鉄柵に囲まれ、その中央には、巨大な石棺としか思われない葬龕《カタファルコ》が横たわっていた。さて、ここで墓柵の内部を詳述しなければならない。だいたいにおいて、聖《サン》ガール寺院([#ここから割り注]瑞西(スイス)コンスタンス湖畔に六世紀頃愛蘭土(アイルランド)僧の建設したる寺院[#ここで割り注終わり])や、南ウエイルズのペンブローク寺《アベイ》などにも現に残存している、露地式|葬龕《カタファルコ》を模したものであったが、それには、いちじるしい異色が現われていた。と云うのは、墓地樹として、典型的な、ななかまど[#「ななかまど」に傍点]や枇杷《びわ》の類《たぐい》がなく、無花果《いちじく》・糸杉・胡桃《くるみ》・合歓樹《ねむのき》・桃葉珊瑚《あおき》・巴旦杏《はたんきょう》・水蝋木犀《いぼたのき》の七本が、別図のような位置で配置されていた。またそれ等の樹木に取り囲まれた中央の葬龕《カタファルコ》は、ウムブリヤの泣儒《なきおとこ》を浮彫《うきぼり》にした薬研石《やげんいし》の台座まではともかくとして、その上に載せられた白大理石の棺蓋《かんおおい》になると、はじめて異様な構想が現われてくるのだった。伝統的な儀習としては、その上が、紋章あるいは人像か単純な十字架が通例だが、それには、音楽を伝統とする降矢木の標章としての三角琴《プサルテリウム》が筋彫《すじぼり》にされ、その上に、鍛鉄製の希臘《ギリシャ》十字架と磔刑耶蘇《はりつけやそ》が載せられてあった。しかも、その耶蘇もまた異形《いぎょう》なもので、首をやや左に傾けて、両手の指を逆に反《そ》らせて上向きに捻《ねじ》り上げ、そろえた足尖《つまさき》を、さも苦痛を耐《こら》えているかのよう、内輪へ極度に反らせているところは……さらに、肋骨《あばら》が透いて見えて、いかにも貧血的な非化体相《ひかたいそう》と云い……そのすべてが、|※[#「穴かんむり/石」、170−15]祭《カタコムブ》時代のものに酷似してはいる、がかえってそれよりも、ヒステリー患者の弓状硬直でも見るようで――いかにもそう云った、精神病理的な感じに圧倒されるのだった。ひととおり観察を終えると、法水は熱病患者のような眼をして検事を顧みた。
[#墓※[#「穴かんむり/石」]の周囲の図(fig1317_12.png)入る]
「ねえ支倉君、キャムベルに云わせると、重症の失語症患者でも、人を呪う言葉は最後まで残っていると云うじゃないか。また、すべて人間が力尽きて、反噬《はんぜい》する気力を失ってしまった時には、その激情を緩解するものは、精霊主義《オクルチスムス》以外にはないと云うがね。明らかに、これは呪詛《じゅそ》だよ。なにより、ディグスビイは威人《ウエルシュ》なんだぜ。未だに、悪魔教バルダスの遺風が残っていて、ミュイヤダッハ十字架《クロッス》風の異教趣味に陶酔する者があると云われる――あのウエイルズ生れなんだ」
「いったい君は、何を云いたいんだ」と検事は、薄気味悪くなったように叫んだ。
「実は支倉君、この葬龕《カタファルコ》は並大抵のものではないのだ。ボズラ([#ここから割り注]死海の南方[#ここで割り注終わり])の荒野にあって、昼は鬣狗《ハイエナ》が守護し、夜になると、魔神降下を喚き出すと伝えられる――死霊集会《シエオール》の標《しるし》なんだよ」と法水は横なぐりに睫毛《まつげ》の雪を払って、云った。「だが僕は猶太《ヤーウェ》教徒でも利未《リビ》族([#ここから割り注]猶太教で祭司となる一族[#ここで割り注終わり])でもないのだからね。眼前に死霊集会《シエオール》の標を眺めていても、それをモーゼみたいに、壊さねばならぬ義務はないと思うよ」
「そうすると」熊城は衝《つ》くように云った。「先刻《さっき》の弱音器記号の解釈は、どうしたんだ?」
「それなんだ熊城君、やはり、僕の推定が正しかったのだよ」と法水は、|+《よこじゅうじ》の記号がもたらした解説を始めた。「僕が予想した三惑星の連結は、まさしく暗示されているのだ。最初に、墓地樹の配置を見給え。アルボナウト以後の占星学《アストロロジイ》では、一番手前の
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