伏せておくところを見ると、案外あの著述にも、僕が考えたような本質的な記述はないのかもしれない。とにかく、易介の殺害も、最初から計画表《スケジュール》の中に組まれてあったのだよ。どうして、あの死因に現われた矛盾が、偶然なもんか」
法水は、彼がレッサーの著述を目した理由を明らかにしなかったけれども、ともかくそこに至るまでの彼等の進路が、腑甲斐《ふがい》ないことに、犯人の神経繊維の上を歩いていたものであることは確かだった。のみならず、ここで明らかに、犯人が手袋を投げたということも、また、想像を絶しているその超人性も、この一つで十分裏書されたと云えよう。やがて、旧《もと》の書庫に戻ると、法水は未整理庫の出来事をあからさまには云わず、鎮子に訊ねた。
「遂々《とうとう》、事件の波動がこの図書室にも及んできましたよ。最近この潜り戸を通った人物を御記憶でしょうか」
「マア、そんな事ですか。では、この一週間ほどのあいだダンネベルグ様ばかりと申し上げたら」と鎮子《しずこ》の答弁は、この場合|詐弁《さべん》としか思われなかったほどに意外なものだった。「あの方は何かお知りになりたいものがあったと見えて、この未整理庫の中を頻《しき》りと捜してお出でのようでございましたが」
「昨夜はどうなんです?」と熊城は、たまりかねたような声で云った。
「それが、生憎《あいにく》とダンネベルグ様のお附添で、図書室に鍵を下すのを迂闊《うっかり》してしまいました」と無雑作に答えて、それから鎮子は、法水に皮肉な微笑を送った。「つきましては貴方に、|賢者の石《シュタイン・デル・ヴァイゼン》をお贈りしたいと思うのですが、クニッパーの『生理的筆蹟学《フィジカル・グラフォロジイ》』ではいかがでございましょう?」
「いや、かえって欲しいのはマーローの『|ファウスト博士の悲史《トラジカル・ヒストリー・オヴ・ドクター・フォースタス》』なんですよ」と法水が挙げたその一冊の名は、呪文の本質を知らない相手の冷笑を弾き返すに十分だったが、なおそれ以外に、ロスコフの「|Volksbuch の研究《ディ・シュトゥディエ・フォン・フォルクスブッフ》」([#ここから割り注]ファウスト伝説の原本と称されている[#ここで割り注終わり])、バルトの「|ヒステリー性睡眠状態に就いて《ユーベルヒステリッシェ・シュラフツステンデ》」、ウッズの「|王家の遺伝《メンタル・エンド・モラル・ヒディリティ・イン・ロヤリティ》」をも借用したい旨を述べて、図書室を出た。そして、鍵が手に入ったのを機《しお》に、続いて薬物室を調べることになった。
次の薬物室は階上の裏庭側にあって、かつては算哲の実験室に当てられるはずだった、空室《くうしつ》を間に挾み、右手に、神意審問会が行われた室《へや》と続いていた。しかし、そこには薬室特有の浸透的な異臭が漂っているのみで、そこの床には、証明しようのないスリッパの跡が縦横に印され、それ以外には、袖摺れ一つ残されていなかった。したがって、彼等に残された仕事というのは、十にあまる薬品棚の列と薬|筐《ばこ》とを調べて、薬瓶《くすりびん》の動かされた跡と、内部の減量を見究めるにすぎなかった。けれども、一方五分あまりも積み重なっている埃の層が、かえって、その調査を容易に進行させてくれた。最初眼に止ったのは、壜栓《びんせん》の外れた青酸加里《シヤンニック・ポッタシウム》であった。
「うんよし、では、その次……」と法水は一々書き止めていったが、続けて挙げられた三つの薬名を聴くと、彼は異様に眼を瞬《またた》き、懐疑的な色を泛《うか》べた。何故なら、硫酸マグネシウムに沃度《ヨード》フォルムと抱水クロラールは[#「抱水クロラールは」は底本では「泡水クロラールは」]、それぞれに、きわめてありふれた普通薬ではないか。検事も怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げて、呟《つぶや》いた。
「下剤([#ここから割り注]瀉痢塩が精製硫酸マグネシウムなればなり[#ここで割り注終わり])、殺菌剤、睡眠薬だ。犯人は、この三つで何をしようとするんだろう?」
「いや、すぐに捨ててしまったはずだよ。ところが、嚥《の》まされたのは吾々《われわれ》なんだ」と法水はここでもまた、彼が好んで悲劇的準備《トラギッシェ・フォルベライツング》と呼ぶ奇言を弄《もてあそ》ぼうとする。
「なに僕等が」と、熊城は魂消《たまげ》て叫んだ。
「そうさ、匿名《とくめい》批評には、毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、実に意表外な観察を述べた。「で、最初に硫酸マグネシウムだが、勿論内服すれば、下剤に違いない。しかし、それをモルヒネに混ぜて直腸注射をすると、爽快な朦朧《もうろう》睡眠を起すのだ。また、次の沃度《ヨード》フォルムには、嗜眠性の中毒を起す場合がある。それから、抱水クロラールになると、他の薬物ではとうてい睡れないような異常亢進の場合でも、またたく間に昏睡させることが出来るのだよ。だから、新しい犠牲者に必要どころの話じゃない。全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、この三つのものには、僕等の困憊《こんぱい》状態が諷刺されているのだよ」
眼に見えない幽鬼は、この室《へや》にも這い込んでいて、例により黄色い舌を出し横手を指して、嗤《わら》っているのだった。しかし、調査はそのまま続けられたが、結局収穫は次の二つにすぎなかった。その一つは、密陀僧《みつだそう》([#ここから割り注]即ち酸化鉛[#ここで割り注終わり])の大壜に開栓した形跡があるのと、もう一つは、再度死者の秘密が現われた事だった。と云うのは、危く看過《みすご》そうとするところだったが、奥まった空瓶の横腹に、算哲博士の筆蹟で次の一文が認《したた》められている事だった。
[#天から1字下げ]ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり[#「ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり」は太字]――
要するに、算哲が求めていたものと云うのは、何かの薬物であろう。しかし、それが何であるかということよりかも、法水の興味は、むしろこの際、なんらの意義もないと思われる空瓶の方に惹《ひ》かれていって、それに限りない神秘感を覚えるのだった。それは、荒涼たる時間の詩であろう。この内容《なかみ》のない硝子器が、絶えず何ものかを期待しながらも、空しく数十年を過してしまって、しかも未だもって充されようとはしないのだ。つまり、算哲とディグスビイとの間に、なんとなく相闘うようなものがあるかに感ぜられるのだった。また、酸化鉛のような製膏剤に働いていった犯人の意志も、この場合謎とするよりほかにないのだった。いずれにしても以上の二つからは、事件の隠顕両面に触れる重大な暗示をうけたのであったが、法水等三人は、それを将来に残して、薬物室を去らねばならなかった。
続いて、昨夜神意審問会が行われた室《へや》を調べることになったが、そこは、この館には稀《めず》らしい無装飾の室《しつ》で、確かに最初は、算哲の実験室として設計されたものに相違なかった。広さの割合に窓が少なく、室《へや》の周囲は鉛の壁になっていて、床の混凝土《たたき》の上には、昨夜の集会だけに使ったものと見え、安手の絨毯《じゅうたん》が敷かれてあった。なお、庭に面した側には窓が一つしかなく、それ以外には、左隅の壁上に、換気筒の丸い孔が、ポツリと一つ空いているにすぎなかった。そして、周壁を一面に黒幕で張り繞《めぐ》らしてあるので、たださえ陰気な室がいっそう薄暗くなってしまって、そこには、とうてい動かし難い沈鬱な空気が漂っているのだった。涸《か》れ萎《しな》びた|栄光の手《ハンド・オヴ・グローリー》の一本一本の指の上に、死体|蝋燭《ろうそく》を差して、それが、懶気《ものうげ》な音を立てて点《とも》りはじめた時の――あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって、この室のどこかに残っているかのように思われた。その室を一巡してから、法水は左隣りの空室《くうしつ》に行った。そこは、昨夜易介が神意審問会の最中に人影を見たと云う、張出縁のある室だった。その室は、広さも構造もほとんど前室と同じであったが、ただ窓が四つもあるので、室の中は比較的明るかった。床には粗目《あらめ》のズックようのものが敷いてあって、その上に不用な調度類が、白い埃を冠って堆《うず》高く積まれてあった。法水は扉の横手にある水道栓に眼を止めたが、それからは、昨夜のうちに誰か水を出したと見えて、蛇口から蚯蚓《みみず》のような氷柱《つらら》が三、四本垂れ下っている。云うまでもなく、それは昨夜ダンネベルグ夫人が失神すると、すぐに水を運んで来たとか云う――紙谷伸子の行動を裏書するものにすぎなかった。
「とにかく、問題はこの張出縁だ」と熊城は、右外れの窓際に立って憮然《ぶぜん》と呟いた。その窓の外側には、アカンサスの拳葉《けんよう》で亜剌比亜模様《アラベスク》が作られている、古風な鉄柵縁が張り出されてあった。そこからは、裏庭の花卉《かき》園や野菜園を隔てて、遠く表徴樹《トピアリー》の優雅な刈り籬《まがき》が見渡される。暗く濁って、塔櫓に押し冠さるほど低く垂れ下った空は、その裾に、わずか蝋色の残光を漂わせるのみで、籬の上方にはすでに闇が迫っていた。そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風の軋《きし》る音が虚空ですると、鎧扉が佗《わび》しげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上で潰《ひし》げて行く。
「ところが、死霊《おばけ》は算哲ばかりじゃないさ」と検事が応じた。「もう一人ふえたはずだよ。だがディグスビイという男はたいしたものじゃない。たぶん彼奴《あいつ》は魑魅魍魎《ポルターガイスト》だろうぜ」
「どうして、やつは大魔霊《デモーネン・ガイスト》さ」と法水は意外な言《ことば》を吐いた。「あの弱音器記号には、中世迷信の形相|凄《すさま》じい力が籠《こも》っているのだよ」
楽譜の知識のない二人には、法水が闡明《せんめい》するのを待つよりほかになかった。法水は一息深く煙を吸い込んで云った。
「勿論、Con《コン》 Sordino《ソルディノ》 では意味をなさないのだが、それには、一つだけ例外があるのだ。と云うのは、僕が先刻《さっき》鎮子を面喰《めんくら》わせた、『パルシファル』なんだよ。ワグネルはあの楽劇の中で、フレンチ・ホルンの弱音器記号に|+《よこじゅうじ》という符号を使っている。ところが、それは傍ら棺龕《カタファルコ》十字架の表象《シムボル》でもあり、また数論占星学では、三惑星の星座連結を表わしているのだ」と法水は、指で掌《てのひら》に描いたその記号の三隅に、ちょうど+となるような位置で、点を三つ打った。
「そうすると、いったいその棺龕《カタファルコ》と云うのは、どこにあるのだね?」検事が問い返すと、法水はちょっと凄惨な形相をして、耳を窓外へ傾《かし》げるような所作《しぐさ》をした。
「聞えないかい、あれが。風の絶え間になると、錘舌《クラッパー》が鐘に触れる音が、僕には聞えるのだがね」
「ああなるほど」そうは云ったものの、熊城は背筋に冷たいものを感じて、自分の理性の力を疑わざるを得なかった。葉摺れの噪音《ざわめき》に入り交って、微かに、軽く触れた三角錘《トライアングル》のような澄んだ音が聞えるのだけれども、その音はまさしく、七葉樹《とちのき》で囲まれていて、そこには何ものもないと思われていた、裏庭の遙か右端の方から響いて来るのだった。しかし、それは神経の病的作用でもなく、勿論妖しい瘴気《しょうき》の所業《しわざ》であり得よう道理はない。すでに法水は、墓※[#「穴かんむり/石」、165−12]《ぼこう》の所在を知っていたのである。
「先刻《さっき》窓越しに、太い椈《ぶな》の柱を二本見たので、それが棺駐門であるのを知ったのだよ。いずれ、ダンネベルグ夫人の柩《ひつぎ》がその下で停るとき、頭上の鐘が鳴らされるだろう。けれども、それ以前に僕は、他の意味であの墓※[#「穴
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