と仮定しよう。けれども、その廻転の間に、当然遠心力が働くだろうからね。したがって、ああいう正座に等しい形が、とうてい停止した際に求められよう道理はないと思うよ。だから熊城君、椅子の螺旋と伸子の肢態《かたち》を対照してみると、そこに驚くべき矛盾が現われてくるのだ」
「あ、意志の伴った失神……」と検事は惑乱気味に嘆息した。
「それがもし真実ならば、グリーン家のアダさ。だから……」と法水は両手を後に組んで、こつこつ歩き廻りながら、「僕だって故なしに、胃洗滌《いせんでき》や尿の検査なんぞやらせやしないぜ。勿論問題と云うのは、そういう自企的な材料が、発見されなかった場合にあるのだよ」と鍵盤《キイ》の前で立ち止って、それを掌《てのひら》でグイと押し下げて云った。その行為は、異説の所在を暗示しているのであった。
「このとおりだよ。鐘鳴器《カリルロン》の演奏には、女性以上の体力が必要なんだ。簡単な讃詠《アンセム》でも三度も繰り返したら、たいていヘトヘトになるにきまってるよ。だから、あの当時音色がしだいに衰えて行ったけれども、たぶんその原因が、この辺にありゃしないかと思うのだ」
「すると、その疲労に失神の原因が?」と熊城は喘《あえ》ぎ気味に訊ねた。
「ウン疲労時の証言を信ずるな――とシュテルンが云うほどだからね。そこへ何か、予想外の力が働いたとしたら、まさしく絶好な状態には違いないのだ。ただし何もかも、倍音発生の原因が証明された上でだ。あれは確かに、不在証明《アリバイ》中の不在証明《アリバイ》じゃないか」
「では、伸子の弾奏術としてでかい」と検事は驚いて問い返した。「僕はとうてい、あの倍音が鐘だけで証明出来ようとは思わんがね。それより手近な問題は、鎧通しを伸子が握らされたか否《どう》か――にあると思うのだ」
「いや、失神してからは、けっして固く握れるものじゃない」と法水は再び歩きはじめたが、すこぶる気のない声を出した。「勿論それには異説もあるので、僕は専門家の鑑定を求めたのだよ。それに、易介の死とも時間的に包括されている。召使《バトラー》の庄十郎は、当然絶命後一時間と思われる二時に、易介の呼吸を明らかに聴いた――と陳述しているんだが、その時刻には、伸子が経文歌《モテット》を奏でていた。そうすると、最後の讃詠《アンセム》を弾くまでの二十分あまりの間に、易介の咽喉《のど》を切り、そうして失神の原因を作ったと見なけりゃならない。僕は、そこへ反証が挙《あが》りゃしないかと、そればかり懼《おそ》れているところなんだよ。だいたい、包囲形を作って絞り出した結果というのが、[#ここから横組み]|2−1=1《にひくいちはいち》[#ここで横組み終わり]の解答じゃないか。しかし、倍音が……倍音が?」
 無論それ以上は混沌の彼方にあった。法水は必死の精気を凝《こ》らしてすべてを伸子に集注しようとした。かつての「コンスタンス・ケント事件」や「グリーン殺人事件」等の教訓が、この場合、反覆的な観察を使嗾《しそう》してくるからである。けれども、百花千弁の形に分裂している撞着の数々は、法水の分析的な個々の説にも、確固たる信念を築かせない。いかにも、外面は逆説反語を巧みに弄《もてあそ》んでいて、壮大な修辞で覆うている。けれども、説き去るかたわら新しい懐疑が起って、彼は呪われた和蘭《オランダ》人のように、困憊彷徨《こんぱいほうこう》を続けているのだ。そして、ついに問題が倍音に衝《つ》き当ってしまうと、法水は再び異説のために引き戻されねばならなかった。突然彼は、天来の霊感でも受けたかのように、異常な光輝を双眼に泛《うか》べて立ち止った。
「支倉君、君の一言が大変いい暗示を与えてくれたぜ。君が、倍音はこの鐘のみでは証明出来まい――と云ったことは、とどの詰りが、演奏の精霊主義《オクルチスムス》に代る何物かを捜せ――という事だ。つまり、どこか他の場所に、響石か木片楽器めいたものでもあれば、それを音響学的に証明しろ――という意味にもなる。それに気が附いたので、僕は往昔マグデブルグ僧正館の不思議と唱われた、『ゲルベルトの月琴《タムブル》』――の故事を憶い出したよ」
「ゲルベルトの月琴《タムブル》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事は法水の唐突な変説に狼狽《ろうばい》してしまった。「いったい月琴《タムブル》なんてものが、鐘の化物《ばけもの》にどんな関係があるね」
「そのゲルベルトと云うのが、シルヴェスター二世だからさ。あの呪法典を作ったウイチグスの師父に当るんだ」と法水は気魄の罩《こ》もった声で叫んだ。そして、床に映った朧《おぼ》ろな影法師を瞶《みつ》めながら、夢幻的な韻を作って続ける。
「ところでペンクライク([#ここから割り注]十四世紀英蘭の言語学者[#ここで割り注終わり])が編纂した『ツルヴェール史詩集成』の中に、ゲルベルトに関する妖異譚が載っている。勿論当時のサラセン嫌悪の風潮で、ゲルベルトをまるで妖術師扱いにしているのだが、とにかくその一節を抜萃《ぬきだ》してみよう。一種の錬金抒情詩《アルケミー・リリック》なんだよ。

[#ここから1字下げ]
ゲルベルト畢宿七星《アルデパラン》を仰ぎ眺めて
平琴《ダルシメル》を弾ず
はじめ低絃を弾《はじ》きてのち黙す
しかるにその寸後《しばしのち》
側《かたわら》の月琴《タムブル》は人なきに鳴り
ものの怪《け》の声の如く、高き絃音にて応《こた》う
されば
傍人《かたわらのひと》、耳を覆いて遁《のが》れ去りしとぞ
[#ここで字下げ終わり]

 ところが、キイゼヴェッテルの「古代楽器史」を見ると、月琴《タムブル》は腸線楽器だが、平琴《ダルシメル》の十世紀時代のものになると、腸線の代りに金属線が張られていて、その音がちょうど、現在の鉄琴《グロッケンシュピール》に近いと云うのだがね。そこで、僕はその妖異譚の解剖を試みたことがあった。ねえ熊城君、中世非文献的史詩と殺人事件との関係《つながり》を、ここで充分|咀嚼《そしゃく》してもらいたいと思うのだよ」
「フン、まだあるのか」と熊城は、唾《つばき》で濡れた莨《たばこ》とともに、吐き出すように云った。「もう角笛や鎖|帷子《かたびら》は、先刻《さっき》の|人殺し鍛冶屋《ヴェンヴェヌート・チェリニ》で終りかと思ったがね」
「あるともさ。それが、史家ヴィラーレの綴った、『ニコラ・エ・ジャンヌ』なんだ。奇蹟処女《ジャンヌ・ダルク》を前にすると、顧問判官どもがブルブル慄《ふる》えだして、実に奇怪きわまる異常神経を描き出したのだ。その心理を、後世裁判精神病理学の錚々《そうそう》たる連中が何故引用しないのだろうと、僕はすこぶる不審に思っているくらいなんだよ。ところで、この場合は、すこぶる妖術的な共鳴現象を思いついたのだ。つまり、それを洋琴《ピアノ》で喩えて云うと、最初※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−6]の鍵《キイ》を音の出ないように軽く押さえて、それから※[#音名「い」の全音符を表わす楽譜(fig1317_10.png)、145−7]の鍵を強く打ち、その音が止んだ頃に※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−7]の鍵《キイ》を押さえた指を離すと、それからは妙に声音的な音色で、※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−8]の音が明らかに発せられる。無論共鳴現象だ。つまり、※[#音名「い」の全音符を表わす楽譜(fig1317_10.png)、145−8]の音の中には、その倍音すなわち二倍の振動数を持つ※[#音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜(fig1317_09.png)、145−9]の音が含まれているからなんだが、しかしそういう共鳴現象を鐘に求めるということは、理論上全然不可能であるかもしれない。けれども、それからまた要素的な暗示が引き出せる。と云うのが、擬音なんだよ。熊城君、君は木琴《シロフォーン》を知っているだろう。つまり、乾燥した木片なり、ある種類の石を打つと、それが金属性の音響を発するということなんだ。古代支那には、編磬《ピエンチン》のような響石楽器や、方響《ファンシアン》のような扁板打楽器があり、古代インカの乾木鼓《テポナットリ》やアマゾン印度人《インディアン》の刃形響石も知られている。しかし、僕が目指しているのは、そういう単音的なものや音源を露出した形のものじゃないのだ。ところで君達は、こういう驚くべき事実を聴いたらどう思うね――。孔子《こうし》は舜《しゅん》の韻学の中に、七種の音を発する木柱のあるのを知って茫然となったと云う。また、秘露《ペルー》トルクシロの遺跡にも、トロヤ第一層都市遺跡([#ここから割り注]紀元前一五〇〇年時代すなわち落城当時[#ここで割り注終わり])の中にも、同様の記録が残されている……」と該博な引証を挙げた後に、法水はこれら古史文の科学的解釈を、一々殺人事件の現実的な視覚に符合させようと試みた。
「とにかく、魔法博士デイの隠顕|扉《ドア》があるほどだからね。この館にそれ以上、技巧呪術《アート・マジック》の習作が残されていないとは云えまい。きっと、最初の英人建築技師ディグスビイの設計を改修した所に、算哲のウイチグス呪法精神が罩《こ》もっているに違いないのだ。つまり、一本の柱、貫木《たるき》にもだよ。それから蛇腹《じゃばら》、また廊下の壁面を貫いている素焼《テラコッタ》の朱線にも、注意を払っていいと思う」
「すると、君は、この館の設計図が必要なのかね」と熊城が呆れ返って叫ぶと、
「ウン、全館のを要求する。そうすればたぶん、犯人の飛躍的な不在証明《アリバイ》を打破出来やしないかと思うよ」と法水は押し返すように云ったが、続いて二つの軌道を明示した。「とにかく涯《はて》しない旅のようだけども、風精《ジルフェ》を捜す道はこの二つ以外にはない。つまり、結果において、ゲルベルト風の共鳴弾奏術が再現されるとなれば、無論問題なしに、伸子が自企的な失神を計ったと云って差支えあるまい。また、何か擬音的な方法が証明されるようなら、犯人は伸子に、失神を起させるような原因を与えて、しかる後に鐘楼から去った――と云うことが出来るのだ。いずれにしろ、倍音が発せられた当時、ここには伸子のほか誰もいなかったのだ。それだけは明らかなんだよ」
「いや、倍音は附随的なものさ」と熊城は反対の見解を述べた。「要するに、君の難解嗜好癖なんだ。たかが、論理形式の問題にすぎんじゃないか。伸子が失神した原因さえ解れば、なにも君みたいに、最初から石の壁の中に頭を突っ込む必要はないと思うよ」
「ところが熊城君」と法水は皮肉にやり返して、「たぶん伸子の答弁だけを当《あて》にしたら、まずこんな程度にすぎまいと思うがね。気分が悪くなって、その後の事はいっさい判りません――て。いや、そればかりじゃない。あの倍音の中には、失神の原因をはじめとして、鎧通しを握っていた事から、先刻《さっき》僕が指摘した廻転椅子の矛盾に至るまでの、ありとあらゆる疑問が伏さっているに違いないのだ。事によると、易介事件の一部まで、関係してやしないかと思われるくらいだよ」
「ウン、たしかに心霊主義《スピリチュアリズム》だ」と検事が暗然と呟《つぶや》くと、法水はあくまで自説を強調した。
「いやそれ以上さ。だいたい、楽器の心霊演奏は必ずしも例に乏しい事じゃない。シュレーダーの『生体磁気説《レーベンス・マグネチスムス》』一冊にすら、二十に近い引例が挙げられている。しかし、問題は音の変化なのだ。ところがさしもの聖オリゲネスさえ嘆称を惜しまなかったと云う、千古の大魔術師――亜歴山府《アレキサンドリア》のアンティオクスでさえも、水風琴《ヒドラリウム》の遠隔演奏はしたと云うけれど、その音調についてはいっこうに記されていない。また、例のアルベルツス・マグヌス([#ここから割り注]十三世紀の末、エールブルグのドミニク僧団にいた高僧。錬金魔法師の声名高しといえども
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