、通性論哲学者であり、かつまた中世著名の物理学者ことに心霊術士としては古今無双ならんと云わる。[#ここで割り注終わり])が携帯用風琴《レガール》で行《おこな》った時も同じ事なんだ。それから近世になって、伊太利《イタリー》の大霊媒ユーザピア・パラルディノが、金網の中に入れた手風琴《アッコーディオン》を動かしたけれども、肝腎《かんじん》の音色については、狂学者フラマリオンすら語るところがないのだ。つまり、心霊現象でさえ、時間空間には君臨することが出来ても、物質構造《マッス》だけにはなんらの力も及ばないことが判るだろう。ところが熊城君、その物質構成の大法則が、小気味よく顛覆《てんぷく》を遂げているんだ。ああ、なんという恐ろしい奴《やつ》だろう。風精《ジルフェ》――空気と音の妖精――やつは鐘を叩いて逃げてしまったのだ」
結局倍音についての法水の推断は、明確《はっきり》と人間思惟創造の限界を劃したに止まっていた。しかし、犯人は、それすらあっけなく踏み越えて、誰しも夢にも信じられなかったところの、超心霊的な奇蹟をなし遂げているのだ。それであるからして、紛乱した網を辛《や》っと跳ね退けたかと思うと、眼前の壁はすでに雲を貫いている。そうなると、伸子の陳述にも、さした期待が持てなくなったことは云うまでもないが、別して法水が顕示した、不思議な倍音に達する二つの道にも、万が一の僥倖《ぎょうこう》を思わせるのみのことで、早くも忘れ去られようとするほどの心細さだった。やがて、鐘鳴器《カリルロン》室を出てダンネベルグ夫人の室《へや》に戻ると、夫人の死体は、既《とう》に解剖のため運び去られていて、その陰気な室の中には、先刻《さっき》家族の動静調査を命じておいた、一人の私服が、ポツネンと待っていた。傭人《やといにん》の口から吐かせた調査の結果は、次のとおりだった。
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降矢木旗太郎。正午昼食後、他の家族三人と広間《サロン》にて会談し、一時五十分|経文歌《モテット》の合図とともに打ちそろって礼拝堂に赴き、鎮魂楽《レキエム》の演奏をなし、二時三十五分、礼拝堂を他の三人とともに出て自室に入る。
オリガ・クリヴォフ(同前)
ガリバルダ・セレナ(同前)
オットカール・レヴェズ(同前)
田郷真斎。一時三十分までは、召使二人とともに過去の葬儀記録中より摘録をなしいたるも、訊問後は自室にて臥床す。
久我鎮子。訊問後は図書室より出でず、その事実は、図書運びの少女によって証明さる。
紙谷伸子。正午に昼食を自室に運ばせた時以外は、廊下にて見掛けたる者もなく、自室に引き籠れるものと推察さる。一時半頃鐘楼階段を上り行く姿を目撃したる者あり。
以上の事実の外いっさい異状なし。
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「法水君、ダマスクスへの道は、たったこの一つだよ」と検事は熊城と視線を合わせて、さも悦に入ったように揉手《もみて》をしながら「見給え。すべてが伸子に集注されてゆくじゃないか」
法水はその調査書を衣袋《ポケット》に突き込んだ手で、先刻|拱廊《そでろうか》で受け取った、硝子の破片とその附近の見取図を取り出した。が、開いてみると、実にこの事件で何度目かの驚愕《きょうがく》が、彼等の眼を射った。二条《にじょう》の足跡が印されている、見取図に包まれているのが何であったろうか、意外にもそれが、写真乾板の破片だったのである。
二、死霊集会《シエオール》の所在
沃化《ようか》銀板――すでに感光している乾板を前にして、法水もさすが二の句が継げなかった。事実この事件とは、異常に隔絶した対照をなしているからであった。それなので、紆余曲折《うよきょくせつ》をたどたどしく辿《たど》って行って、最初からの経過を吟味してみても、だいたい乾板などという感光物質によって、標章形象化される個所《ところ》は勿論のことだが、それに投射し暗喩するような、連字符一つさえ見出されないのである。それがもし、実際に犯罪行動と関係あるものなら、恐らく神業であるかもしれない。こうして、しばらく死んだような沈黙が続いた。その間召使が炉に松薪《まつまき》を投げ入れ、室内が仄《ぽっ》かり暖まってくると、法水は焔の舌を見やりながら、微かに嘆息した。
「ああ、まるで恐竜《ドラゴン》の卵じゃないか」
「だが、いったい何に必要だったのだろう?」と検事は法水の強喩法《カタクレーズ》を平易に述べた。そして、開閉器《スイッチ》を捻《ひね》ると、
「まさか撮影用じゃあるまいが」と熊城は、不意の明るさに眼を瞬《しばたた》きながら、「いや、死霊《おばけ》は事実かもしれん。第一、易介が目撃したそうだが、昨夜神意審問会の最中に、隣室の張出縁で何者かが動いていて、その人影が地上に何か落したと云うそうじゃないか。しかも、その時七人のうちで室《へや》を出たものはなかったのだ。だいたい階下の窓から落されたものなら、こんなに細かく割れる気遣いはないよ」
「うん、その死霊《おばけ》は恐らく事実だろうよ」と法水はプウと煙の輪を吐いて、「しかし、彼奴《あいつ》がその後に死んでいるという事も、また事実だろう」と意外な奇説を吐いた。「だって、ダンネベルグ事件とそれ以後のものを、二つに区分して見給え。僕の持っているあの逆説《パラドックス》が、綺麗《きれい》さっぱりと消えてしまうじゃないか。つまり、風精《ジルフェ》は水神《ウンディネ》のいたのを知って、それを殺したのだ。けっして、あの二つの呪文が連続しているのに、眩《くら》まされちゃならん。ただし、犯人は一人だよ」
「では、易介以外にも」熊城は吃驚《びっくり》して眼を円くしたが、それを検事が抑えて、
「なあに、捨てておき給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」と法水を嗜《たしな》めるように見た。「どうも、君の説は世紀児的《アンファン・デュ・シエクル》だ。自然と平凡を嫌っている。粋人的な技巧には、けっして真性も良識もないのだ。現に、先刻《さっき》も君は夢のような擬音でもって、あの倍音に空想を描いていた。しかし、同じような微かな音でも、伸子の弾奏がそれに重なったとしたらどうするね?」
「これは驚いた! 君はもうそんな年齢《としごろ》になったのかね」と道化《おどけ》した顔をしたが、法水は皮肉に微笑み返して、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互いに聴覚生理の論争はしていても、これだけは、はっきりと認めている。つまり、君の云う場合に当る事だが……たとえば同じような音色で微かな音が二つ重なったにしても、その音階の低い方は、内耳の基礎膜に振動を起さないと云うのだ。ところが、老年変化が来ると、それが反対になってしまうのだよ」と検事をきめつけてから、再び視線を乾板の上に落すと、彼の表情の中に複雑な変化が起っていった。
「だが、この矛盾的産物はどうだ。僕にもさっぱり、この取り合わせの意味が呑《の》み込めんよ。しかし、ピインと響いてくるものがある。それが妙な声で、ツァラツストラはかく語りき――と云うのだ」
「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度は検事が驚いてしまった。
「いや、シュトラウスの交響楽詩《シムフォニック・ポエム》でもないのさ。それが、陰陽教《ゾロアスター》([#ここから割り注]ツァラツストラが創始せる波斯(ペルシヤ)の苦行宗教[#ここで割り注終わり])の呪法綱領なんだよ。神格よりうけたる光は、その源の神をも斃《たお》す事あらん――と云ってね。勿論その呪文の目的は、接神の法悦を狙《ねら》っている。つまり、飢餓入神を行う際に、その論法を続けると、苦行僧に幻覚の統一が起ってくると云うのだ」と法水は彼に似げない神秘説を吐いたが、云うまでもなく、奥底知れない理性の蔭に潜んでいるものを、その場去らずに秤量《しょうりょう》することは不可能だった。しかし、法水の言《ことば》を、神意審問会の異変と対照してみると、あるいは、死体|蝋燭《ろうそく》の燭火《しょくか》をうけた乾板が、ダンネベルグ夫人に算哲の幻像を見せて、意識を奪ったのではないか。――と云うような幽玄きわまる暗示が、しだいに濃厚となってくるけれども、その矢先思いがけなく、それをやや具体的に仄《ほの》めかして、法水は立ち上った。
「しかし、これでいよいよ、神意審問会の再現が切実な問題になってきたよ。さて、裏庭へ行って、この見取図に書いてある二条の足跡を調べることにするかな」
ところが、その途中通りすがりに、階下の図書室の前まで来ると、法水は釘付けされたように立ち止ってしまった。熊城は時計を眺めて、
「四時二十分――もうそろそろ、足許が分らなくなってくるぜ。言語学の蔵書なら後でもいいだろう」
「いや、鎮魂楽《レキエム》の原譜を見るのさ」と法水はキッパリ云い切って、他の二人を面喰《めんくら》わせてしまった。しかしそれで、先刻《さっき》の演奏中終止符近くになって、二つの提琴《ヴァイオリン》が弱音器をつけた――そのいかにも楽想を無視している不可解な点に、法水が強い執着を持っているのが判った。彼は背後で、把手《とって》を廻しながら、続いて云った。
「熊城君、算哲という人物は、実に偉大な象徴派詩人《サムボリスト》じゃないか。この尨大《ぼうだい》な館《やかた》もあの男にとると、たかが『影と記号で出来た倉』にすぎないのだ。まるで天体みたいに、多くの標章を打《ぶ》ち撒《ま》けておいて、その類推と総合とで、ある一つの恐ろしいものを暗示しようとしている。だから、そういう霧を中に置いて事件を眺めたところで、どうして何が判ってくるもんか。あの得体の知れない性格は、あくまでも究明せんけりゃならんよ」
その最終の到達点というのが、黙示図の知られてない半葉を意味していると云うことも……また、その一点に集注されてゆく網流の一つでもと、いかに彼が心中|喘《あえ》ぎ苛立《いらだ》って捜し求めているか、十分想像に難くないのであった。しかし、扉《ドア》を開くと、そこには人影はなかったけれど、法水は眼の眩《くら》むような感覚に打たれた。四方の壁面は、ゴンダルド風の羽目《パネル》で区切られていて、壁面の上層には囲繞《いにょう》式の採光層《クリアストーリー》が作られ、そこに並んでいる、イオニア式の女像柱《カリアテイデ》が、天井の迫持《せりもち》を頭上で支えている。そして、採光層《クリアストーリー》から入る光線は、「ダナエの金雨受胎」を黙示録の二十四人長老で囲んでいる天井画に、なんとも云えぬ神々しい生動を与えているのだった。なお床に、チュイルレー式の組字をつけた書室家具が置かれてあるところと云い、また全体の基調色として、乳白大理石と焦褐色《ヴァンダイクブラウン》の対比を択んだところと云い、そのすべてが、とうてい日本においては片影すら望むことの出来ない、十八世紀維納《クムメルスブリュケル》風の書室造りだったのである。その空《がら》んとした図書室を横切って、突当りの明りが差している扉を開くと、そこは、好事家《こうずか》に垂涎《すいぜん》の思いをさせている、降矢木の書庫になっていた。二十層あまりに区切られている、書架の奥に事務机があって、そこには、久我鎮子の皮肉な舌が待ち構えていた。
「オヤ、この室にお出でになるようじゃ、たいした事もなかったと見えますね」
「事実そのとおりなんです。あれ以後人形が出ない代りに、死霊《おばけ》は連続的に出没していますよ」と法水は先を打たれて、苦笑した。
「そうでしょう。先刻《さっき》はまた妙な倍音が聴えましたわ。でも、まさか伸子さんを犯人になさりゃしないでしょうね」
「ああ、あの倍音を御存じでしたか」と法水は瞼を微かに戦《おのの》かせたが、かえって探るような眼差で相手を見て、
「しかし、この事件全体の構成だけは判りましたよ。それが、貴女《あなた》の云われたミンコフスキーの四次元世界なんです」といっこう動じた色も見せず、続いて本題を切り出した。
「ところで、その過去圏を調べにまいったのですが、たしか、鎮魂楽《レキエム》の原譜はあるでしょ
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