の一人が殺されたと云うのに」
「今日は、この館の設計者クロード・ディグスビイの忌斎日《きさいび》でして……」と真斎は苦し気な呼吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船中|蘭貢《ラングーン》で身を投げた、ディグスビイの追憶が含まれているのです」
「なるほど、声のない鎮魂楽《レキエム》ですね」と法水は恍惚《こうこつ》となって云った。「なんだかジョン・ステーナーの作風に似ているような気がする。支倉君、僕はこの事件であの四重奏団《クワルテット》の演奏が聴けようとは思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよう」
そうして、私服に真斎の手当を命じて、この室《へや》を去らしめると、
「君は何故《なぜ》、最後の一歩というところで追求を弛《ゆる》めたのだ?」と熊城はさっそくに詰《なじ》り掛ったが、意外にも、法水は爆笑を上げて、
「すると、あれを本気にしているのかい」
検事も熊城も、途端に嘲笑されたことは覚ったけれども、あれほど整然たる条理に、とうていそのままを信ずることは出来なかった。法水は可笑《おか》しさを耐えるような顔で、続いて云った。
「実をいうと、あれは僕の一番厭な恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》訊問なんだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあったので、応急に組み上げたのだったけれど、真実の目的と云えば、実はほかにあったのだ。ただ真斎よりも、精神的に優越な地位を占めたい――というそれだけの事なんだよ。この事件を解決するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要があるのだ」
「すると、扉の窪みは」
「二二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を剔抉《てっけつ》している。また、それと同時に水の跡も証明しているんだ」まさしく仰天に価する逆転だった。グワンと脳天をドヤされたかのように茫然となった二人に、法水はさっそく説明を始めた。「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして開くためには、水が欠くべからざるものだったのだ。ところで、最初それと類推させたものを話すことにしよう。マームズベリー卿が著《あら》わした『ジョン・デイ博士鬼説』という古書がある。それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記されているのだが、その中で、マームズベリー卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、それが僕に、水で扉を開《ひら》け――と教えてくれたのだ。勿論一種の信仰療法《クリスチャンサイエンス》なんだが、まずデイは、瘧《おこり》患者を附添いといっしょに一室へ入れ、鍵を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにもかかわらず、扉は化性のものでもあるかのように、スウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する――憑神《つきがみ》の半山羊人《フォーン》は遁《のが》れたり――と。ところが、まさしく扉の附近には山羊の臭気がするので、それで患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊城君、その山羊の臭気というものの中に、デイの詐術が含まれているのだよ。ところで、君はたぶん、ランプレヒト湿度計《ハイグロメーター》にもあるとおりで、毛髪が湿度によって伸縮するばかりでなく、その度が長さに比例する事実も知っているだろう。そこで、試みに、その伸縮の理論を、落し金の微妙な動きに応用して見給え。知ってのとおり、弾条《ぜんまい》で使用する落し金というのは、元来、打附木材住宅《ハーフ・チムバア》([#ここから割り注]漆喰壁の上に規則的な木配りで荒削りの木材を打ち附ける英国十八世紀初頭の建築様式[#ここで割り注終わり])特有のものと云われているのだが、大体が平たい真鍮|桿《かん》の端に遊離しているもので、その桿の上下によって、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する仕掛になっている。そして、支点に近づくほど起倒の内角が小さくなるということは、たぶん簡単な理法だから判っているだろう。そこで、落し金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れた場合水平となるように張っておき、その線の中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘《おもり》を置いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪が伸長して、重錘《おもり》が紐の上に加わってゆき、勿論紐が弓状《ゆみなり》になってしまう。したがって、その力が落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それが羊の尿《いばり》だったろうと思うのだがね。またこの扉では、傴僂《せむし》の眼の裏面が、たぶんその装置に必要な刳穴《こけつ》だったので、その薄い部分が、頻繁《ひんぱん》に繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが算哲で、それを利用して永い間出入りしていた人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どうだね支倉君、これで先刻《さっき》人形の室で、犯人が何故絲と人形の技巧《トリック》を遺して置いたのか判るだろう。外側からの技巧《トリック》ばかりを詮索していた日には、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまうのだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグス呪法の雰囲気が濃くなってゆくような気がするじゃないか」
「すると、人形はその時の溢《こぼ》れた水を踏んだという事になるね」と検事は、引きつれたような声を出した。「もう後は、あの鈴のような音《おと》だけなんだ。これで犯人を伴った人形の存在は[#「犯人を伴った人形の存在は」に傍点]、いよいよ確定されたとみて差支えない。しかし、君の神経が閃《ひらめ》くたびごとに、その結果が、君の意向とは反対の形で現われてしまう。それは、いったいどうしたってことなんだい」
「ウム、僕にもどうも解《げ》せないんだ。まるで、穽《わな》の中を歩いているような気がするよ」と法水にも錯乱した様子が見えると、
「僕はその点が両方に通じてやしないかと思うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれはけっして看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊城が云った。
「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、僕の恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》訊問には、妙な言《ことば》だが、一種の生理|拷問《ごうもん》とでも云うものが伴っている。それがあったので、初めてあんな素晴らしい効果が生れたのだよ。ところで、二世紀アリウス神学派の豪僧フィリレイウスは、こういう談法論を述べている。霊気《ニューマ》([#ここから割り注]呼吸の義[#ここで割り注終わり])は呼気とともに体外に脱出するものなれば、その空虚を打て――と。また、比喩には隔絶したるものを択べ――と。まさに至言だよ。だから、僕が内惑星軌道半径をミリミクロン的な殺人事件に結び付けたというのも、究極のところは、共通した因数《ファクター》を容易に気づかれたくないからなんだ。そうじゃないか、エディントンの『|空間・時・及び引力《スペース・タイム・エンド・グレヴィテイション》』でも読んだ日には、その中の数字に、てんで対称的な観念がなくなってしまう。それから、ビネーのような中期の生理的心理学者でさえも、肺臓が満ちた際の均衡と、その質量的な豊かさを述べている。無論あの場合僕は、まさに吸気《いき》を引こうとする際にのみ、激情的な言葉を符合させていったのだが、またそれと同時に、もしやと思った生理的な衝撃《ショック》も狙っていたのだ。それは、喉頭後筋※[#「てへん+畜」、第3水準1−84−85]搦《ミュールマンちくでき》という持続的な呼吸障害なんだよ。ミュールマンはそれを『老年の原因』の中で、筋質骨化に伴う衝動心理現象と説いている。勿論|間歇《かんけつ》性のものには違いないけれども、老齢者が息を吸い込む中途で調節を失うと、現に真斎で見るとおりの、無残な症状を発する場合があるのだ。だから、心理的にも器質的にも、僕は滅多に当らない、その二つの目を振り出したという訳なんだよ。とにかく、あんな間違いだらけの説なので、いっさい相手の思考を妨害しようとしたのと、もう一つは去勢術なんだ。あの蠣《かき》の殻を開いて、僕はぜひにも聴かねばならないものがあるからだよ。つまり、僕の権謀術策たるや、ある一つの行為の前提にすぎないのだがね」
「驚いたマキアベリーだ。しかし、そう云うのは?」と検事が勢い込んで訊ねると、法水は微かに笑った。
「冗談じゃないよ、君の方でしたくせに。先刻《さっき》僕に訊ねた(一)・(二)・(五)の質問を忘れたのかい。それに、あのリシュリュウみたいな実権者は、不浄役人どもに黒死館の心臓を窺わせまいとしている。だからさ、あの男が鎮静注射から醒めた時が、事によるとこの事件の解決かもしれないのだよ」
法水は相変らず茫漠たるものを仄《ほの》めかしただけで、それから鍵孔に湯を注ぎ込み、実験の準備をしてから、演奏台のある階下の礼拝堂に赴《おもむ》いた。広間《サロン》を横切ると、楽の音《ね》は十字架と楯形《たてがた》[#「楯形」は底本では「循形」]の浮彫のついた大扉《おおど》の彼方に迫っていた。扉の前には一人の召使《バトラー》が立っていて、法水がその扉を細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間を佗《わび》しげに揺れている、寛闊な空気に触れた。それは、重量的な荘厳なもののみが持つ、不思議な魅力だった。礼拝堂の中には、褐《あか》い蒸気の微粒がいっぱいに立ち罩《こ》めていて、その靄《もや》のような暗さの中で、弱い平穏な光線が、どこか鈍い夢のような形で漂うている。その光は聖壇の蝋燭《ろうそく》から来ているのであって、三稜形をした大燭台の前には乳香が燻《た》かれ、その烟《けむり》と光とは、火箭《かせん》のように林立している小円柱を沿上《へのぼ》って行って、頭上はるか扇形《おうぎがた》に集束されている穹窿《きゅうりゅう》の辺にまで達していた。楽の音は柱から柱へと反射していって、異様な和声を湧き起し、今にも、列拱《アルカード》から金色《こんじき》燦然《さんぜん》たる聖服をつけた、司教助祭の一群が現われ出るような気がするのであった。が、法水にとってはこの空気が、問罪的な不気味なものとしか考えられなかった。
聖壇の前には半円形の演奏台が設《しつら》えてあって、そこに、ドミニク僧団の黒と白の服装をした、四人の楽人が無我恍惚の境に入っていた。右端《うたん》の、不細工な巨石としか見えないチェリスト、オットカール・レヴェズは、そこに半月形の髯《ひげ》でも欲しそうなフックラ膨んだ頬をしていて、体躯《たいく》の割合には、小さな瓢箪《ひょうたん》形の頭が載っていた。彼はいかにも楽天家らしく、おまけに、チェロがギターほどにしか見えない。その次席が、ヴィオラ奏者のオリガ・クリヴォフ夫人であって、眉弓が高く眦《まなじり》が鋭く切れ、細い鉤形の鼻をしているところは、いかにも峻厳な相貌であった。聞くところによれば、彼女の技量はかの大独奏者、クルチスをも凌駕《りょうが》すると云われているが、それもあろうか演奏中の態度にも、傲岸《ごうがん》な気魄と妙に気障《きざ》な、誇張したところが窺《うかが》われた。ところが、次のガリバルダ・セレナ夫人は、すべてが前者と対蹠的な観をなしていた。皮膚が蝋色に透き通って見えて、それでなくても、顔の輪廓が小さく、柔和な緩い円ばかりで、小じんまりと作られている。そして、黒味がちのパッチリした眼にも、凝視するような鋭さがない。総じてこの婦人には、憂鬱などこかに、謙譲な性格が隠されているように思われた。以上の三人は、年齢《としごろ》四十四、五と推察された。そして、最後に第一|提琴《ヴァイオリン》を弾いているのが、やっと十七になったばかりの降矢木旗太郎だった。法水は、日本中で一番美しい青年を見たような気がした。が、その美しさもいわゆる俳優的な遊惰な媚色《びしょく》であって、どの線どの陰影の中にも、思索的な深みや数学的な正確なものが現われ出てはいない。と云うのも、そういった叡知《えいち》の表徴をなすものが欠けているからであって、博士の写真において見るとおりの、あの端正な額の威厳がないからであった。
法水は、
前へ
次へ
全70ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング