だ、呪法経典の信条は何でしたろうか([#ここから割り注]宇宙にはあらゆる象徴瀰漫す。しかして、その神秘的な法則と配列の妙義は、隠れたる事象を人に告げ、あるいは予め告げ知らしむ。[#ここで割り注終わり])」
「しかし、それが」
「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方法を知ると同時に、初めて、占星術《アストロロジイ》や錬金術《アルケミイ》の妙味を知ることが出来ました。確か博士は、室《へや》の中央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣の束《つか》を固く握り締めて倒れていたのでしたね。しかし、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺のあらゆる証跡が消えてしまうのです」と法水は室の見取図に、別図のような二重の半円を描いてから、
[#室の見取図に二重の半円を描いた図(fig1317_06.png)入る]
「ところで、その前にぜひ知っておかねばならないのは、惑星の記号が或る化学記号に相当するという事なんです。Venus《ヴィナス》 が金星であることは御承知でしょうが、その傍ら銅を表わしています。また、Mercury《マーキュリー》 は、水星であると同時に、水銀の名にもなっているのです。しかし、古代の鏡は、青銅《ヴィナス》の薄膜の裏に水銀《マーキュリー》を塗って作られていたのですよ。そうすると、その鏡面に――つまり、この図では金星の後方に当るのですが、それには当然、帷幕《とばり》の後方から進んで来る犯人の顔が映ることになりましょう。何故なら、金星の半径を水星の位置にまで縮めるということは、素晴らしい殺人技巧であったと同時に、犯行が行われてゆく方向も、また博士と犯人の動きさえも同時に表わしているからなんです。そして、しだいに犯人は、それを中央の太陽の位置にまで縮めてゆきました。太陽は、当時算哲博士が終焉《しゅうえん》を遂げた位置だったのです。しかし、背面の水銀《マーキュリー》が太陽と交わった際にいったい何が起ったと思いますか?」
ああ、内惑星軌道半径縮小を比喩にして、法水は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学《スパルジリー》特有の類似律の原理とともに、現われ出ようとは思わなかった。
「ところで田郷さん、S一字でどういうものが表わされているでしょうか」と法水は、調子を弛《ゆる》めずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄《いおう》ですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血の色です。つまり、扉の際《きわ》で算哲の心臓が綻《ほころ》びたのです」
「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、「貴方《あんた》は夢を見ておる。まさに実状を顛倒した話じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にしか流れておらなかったのです」
「それは、いったん縮めた半径を、犯人がすぐ旧《もと》どおりの位置に戻したからですよ。それから、もう一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。悪魔会議日《サバスデー》、立法者《スクライブ》……。そうです、まさしく立法者なんです。犯人はあの像のように……」と法水は、そこでいったん唇を閉じ、じいっと真斎を瞶《みつ》めながら、次に吐く言葉との間の時間を、胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。ところが、突然《いきなり》頃合を計って、
「あのように、立って歩くことの出来ない人間――それが犯人なんです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、それとともに――解《げ》し難い異状が、真斎に起った。
それが、始め上体に衝動が起ったと見る間に、両眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き口を喇叭《ラッパ》形に開いて、ちょうどムンクの老婆に見るような無残な形となった。そして、絶えず唾を嚥《の》み下そうとするもののような苦悶の状を続けていたが、そのうちようやく、
「おお、儂《わし》の身体を見るがいい。こんな不具者がどうして……」と辛《から》くも嗄《しゃが》れ声を絞り出した。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起ったとみえて、その後も引き続き呼吸の困難に悩み、異様な吃音《きつおん》とともに激しい苦悶が現われるのだった。その有様を、法水は異常な冷やかさで見やりながら云い続けたが、その態度には、相変らず計測的なものが現われていて、彼は自分の言《ことば》の速度《テンポ》に、周到な注意を払っているらしい。
「いや、その不具な部分を俟《ま》ってこそ、殺人を犯すことが出来たのですよ。僕は貴方の肉体でなく、その手働四輪車と敷物《カーペット》だけを見ているのです。たぶんヴェンヴェヌート・チェリニ([#ここから割り注]文芸復興期の大金工で驚くべき殺人者[#ここで割り注終わり])が、カルドナツォ家のパルミエリ([#ここから割り注]ロムバルジヤ第一の大剣客[#ここで割り注終わり])を斃《たお》したという事蹟を御存じでしょうが、腕で劣ったチェリニは、最初|敷物《カーペット》を弛ませて置いて、中途でそれをピインと張らせ、パルミエリが足許を奪われて蹌踉《よろめ》くところを刺殺したのでした。しかし、算哲を斃すためには、その敷物を応用した文芸復興期《ルネサンス》の剣技が、けっして一場の伝奇《ロマーン》ではなかったのです。つまり、内惑星軌道半径の縮伸というのは、要するに貴方が行《おこな》った、敷物《カーペット》のそれにすぎなかったのですよ。さて、犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、法水は検事と熊城に詰責《きっせき》気味な視線を向けた。「だいたい何故扉の浮彫を見ても、君達は、傴僂《せむし》の眼が窪んでいるのに気がつかなかったのだね」
「なるほど、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立って行って扉を調べたが、はたして法水の云うとおりだった。法水はそれを聴くと、会心の笑《えみ》を真斎に向けて、
「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、ちょうど博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、楕円形をしているのですから、護符刀の束頭《つかがしら》であることは一目瞭然たるものです。そうなると、当然天寿を楽しむよりほかに自殺の動機など何一つなく、おまけにその日は、愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出に耽《ふけ》ろうとしたほどの博士が、何故|扉際《とぎわ》に押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう」
真斎は声を発することはおろか、依然たる症状を続けて、気力がまさに尽きなんとしていた。蝋白色に変った顔面からは膏《あぶら》のような汗が滴り落ち、とうてい正視に耐えぬ惨めさだった。ところが、それにもかかわらず法水は、この残忍な追求をいっかな止めようとはしなかった。
「ところで、ここに奇妙な逆説《パラドックス》があるのです。その殺人が、かえって五体の完全な人間には不可能なんですよ。何故なら、ほとんど音の立たない、手働四輪車の機械力が必要だったからで、それがまず、敷物《カーペット》に波を作って縮め重ねてゆき、終いには、博士を扉に激突させたからでした。何分にも、当時|室《へや》は闇に近い薄明りで、右側の帷幕《とばり》の蔭に貴方が隠れていたのも知らずに、博士は帷幕の左側を排して、召使が運び入れて置いた人形を寝台の上で見、それから、鍵を下しに扉の方へ向ったのでしょう。ところが、それを追うて、貴方の犯行が始まったのでしたね。まずそれ以前に、敷物の向う端を鋲《びょう》で止め、人形の着衣から護符刀《タリズマン》を抜いておく――そしていよいよ博士が背後を見せると、敷物《カーペット》の端をもたげて、縦にした部分を足台で押して速力を加えたので、敷物《カーペット》には皺《しわ》が作られ、勿論その波はしだいに高さを加えたのです。そして、背後から足台を、博士の膝膕窩《ひかがみ》に衝突させる。と、波が横から潰されて、ほとんど腋下に及ぶほどの高さになってしまう。と同時に、いわゆるイエンドラシック反射が起って、その部分に加えられた衝撃が、上膊筋に伝導して反射運動を起すのですから、当然博士は、無意識裡に両腕を水平に上げる。その両脇から博士を後様《うしろざま》に抱えて、右手に持った護符刀《タリズマン》を心臓の上に軽く突き立て、すぐにその手を離してしまう。と、博士は思わず反射的に短剣を握ろうとするので、間髪の間《あいだ》に二つの手が入れ代って、今度は博士が束《つか》を握ってしまう。そして、その瞬後扉に衝突して、自分が束を握った刃が心臓を貫く。つまり、高齢で歩行の遅《のろ》い博士に、敷物《カーペット》に波を作りながら音響を立てずして追い付ける速力と、その機械的な圧進力――。それから、束を握らせるために、両腕を自由にしておかねばならないので、何よりまず膝膕窩《ひかがみ》を刺戟して、イエンドラシック反射を起さねばならない――。そういうすべての要素を具備しているのが、この手働四輪車でして、その犯行は寸秒の間に、声を立てる間《ま》がなかったほど恐ろしい速度で行われたのでした。ですから、貴方の不具な部分をもってせずには、誰一人博士に、自殺の証跡を残して、息の根を止めることは不可能だったのですよ」
「すると、敷物《カーペット》の波は何のためだい」熊城が横合から訊ねた。
「それが、内惑星軌道半径の縮伸じゃないか。いったん点《ピリオド》にまで縮んだものを、今度は波の頂点に博士の頸《くび》を合わせて、敷物《カーペット》を旧《もと》どおりに伸ばしていったのだ。だから、束《つか》を握り締めたままで、博士の死体は室《へや》の中央に来てしまったのだよ。勿論、空室《あきべや》でも、鎖されていたのではないから、ほとんど跡は残らぬし、死後はけっして固く握れるものじゃない。けれども、だいたい検屍官なんてものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠いているからなんだよ」
その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気を揺《ゆす》ぶって、古風な経文歌《モテット》を奏でる、侘《わび》しい鐘鳴器《カリリヨン》の音が響いてきた。法水は先刻《さっき》尖塔の中に錘舌鐘《ピール》([#ここから割り注]錘舌のある振り鐘[#ここで割り注終わり])は見たけれども、鐘鳴器《カリリヨン》([#ここから割り注]鍵盤を押して音調の異なる鐘を叩きピアノ様の作用をするもの[#ここで割り注終わり])の所在には気がつかなかった。しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏《うつぶ》していた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶《とぎ》れがちながらも、微かな声を絞り出した。
「嘘だ……算哲様はやはり室《へや》の中央で死んでいたのだ……。しかし、この光栄ある一族のために……儂《わし》は世間の耳目を怖れて、その現場から取り除いたものがあった……」
「何をです?」
「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした……背後から負《おぶ》さったような形で死体の下になり、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重ねていたので……それで、衣服を通した出血が少なかったことから……儂《わし》は易介に命じて」
検事も熊城も、もう竦《すく》み上るような驚愕の色は現わさなかったけれども、すでに生存の世界にはないはずの不思議な力の所在が、一事象ごとに濃くなってゆくのを覚えた。しかし、法水は冷然と云い放った。
「これ以上はやむを得ません。僕もこの上進むことは不可能なんですから。博士の死体は既《とう》に泥のような無機物ですし、もう起訴を決定する理由と云えば、貴方の自白以外にないのですからね」
そう法水が云い終った時だった。その時|経文歌《モテット》の音《ね》が止んだかと思うと、突然思いもよらぬ美しい絃《いと》の音《ね》が耳膜を揺りはじめた。遠く幾つかの壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、あるいは荘厳な全絃合奏《コーダ》となり、時としては囁《ささや》く小川のように、第一提琴《ファースト・ヴァイオリン》がサマリアの平和を唱ってゆくのだった。それを聴くと、熊城は腹立たしそうに云い放った。
「何だあれは、家族
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