んぷ》な残余法で解釈すると、水が人形の体内にある発音装置を無効にした――という結論になる。けれども、事実はけっしてそうじゃないんだ。まして、全体がすこぶる多元的に構成されている――。何も手掛りはない。曖昧朦朧《あいまいもうろう》とした中に薄気味悪い謎がウジャウジャと充満している。それに、死人が埋《うず》もれている地底の世界からも、絶えず紙礫《かみつぶて》のようなものが、ヒューヒューと打衝《ぶつか》って来るんだ。しかし、その中に、四つの要素が含まれていることだけは判るんだ。一つは、黙示図に現われている自然界の薄気味悪い姿で、その次は、未だに知られていない半葉を中心とする、死者の世界なんだ。それから三つ目が、既往の三度にわたる変死事件。そして最後が、ファウストの呪文を軸に発展しようとする、犯人の現実行動なんだよ」と、そこでしばらく言《ことば》を切っていたが、やがて法水の暗い調子に明るい色が差して、「そうだ支倉君、君にこの事件の覚書を作ってもらいたいのだが。だいたいグリーン殺人事件がそうじゃないか。終り頃になってヴァンスが覚書を作ると、さしもの難事件が、それと同時に奇蹟的な解決を遂げてしまっている。しかし、あれはけっして、作者の窮策じゃない。ヴァン・ダインは、いかに因数《ファクター》を決定することが、切実な問題であるかを教えているんだ。だからさ。何より差し当っての急務というのが、それだ。因数《ファクター》だ――さしずめその幾つかを、このモヤモヤした疑問の中から摘出するにあるんだよ」
それから検事が覚書を作っている間に、法水は十五分ばかり室《へや》を出ていたが、間もなく、一人の私服と前後して戻って来た。その刑事は、館内の隅々までも捜索したにかかわらず、易介の発見がついに徒労に帰したという旨を報告した。法水は眉のあたりをビリビリ動かしながら、
「では、古代時計室と拱廊《そでろうか》を調べたかね」
「ところが、彼処《あすこ》は」と私服は頸《くび》を振って、「昨夜の八時に、執事が鍵を下したままなんですから。しかし、その鍵は紛失しておりません。それから拱廊《そでろうか》では、円廊の方の扉が、左側一枚開いているだけのことでした」
「フムそうか」といったん法水は頷《うなず》いたが、「ではもう打ち切ってもらおう。けっしてこの建物から外へは出てやしないのだから」と異様に矛盾した、二様の観察をしているかのような、口吻《こうふん》を洩らすと、熊城は驚いて、
「冗談じゃない。君はこの事件にけばけばしい装幀をしたいんだろうが、なんといっても、易介の口以外に解答があるもんか」と今にも館外からもたらせられるらしい、侏儒《こびと》の傴僂《せむし》の発見を期待するのだった。こうして、ついに易介の失踪は、熊城の思う壺どおりに確定されてしまったが、続いて法水は、問題の硝子の破片があるという附近《あたり》の調査と、さらに次の喚問者として、執事の田郷真斎《たごうしんさい》を呼ぶように命じた。
「法水君、君はまた拱廊《そでろうか》へ行ったのかね」私服が去ると、熊城はなかば揶揄《やゆ》気味に訊ねた。
「いや、この事件の幾何学量を確かめたんだよ。算哲博士が黙示図を描いたり、その知られてない半葉を暗示したについては、そこに何か、方向がなけりゃならん訳だろう」と法水はムスッとして答えたが、続いて驚くべき事実が彼の口を突いて出た。「それで、ダンネベルグ夫人を狂人《きちがい》みたいにさせた、怖ろしい暗流が判ったのだ。実は、電話でこの村の役場を調べたんだが、驚くじゃないか、あの四人の外人は去年の三月四日に帰化していて、降矢木《ふりやぎ》の籍に、算哲の養子養女となって入籍しているんだ。それにまだ遺産相続の手続がされていない。つまり、この館は未だもって、正統の継承者旗太郎の手中には落ちていないのだよ」
「こりゃ驚いた」検事はペンを抛り出して唖然となってしまったが、すぐに指を繰ってみて、「たぶん手続が遅れているのは、算哲の遺言書でもあるからだろうが、剰《あま》すところもう、法定期限は二ヶ月しかない。それが切れると、遺産は国庫の中に落ちてしまうんだ」
「そうなんだ。だから、そこにもし殺人動機があるものとすれば、ファウスト博士の隠れ蓑《みの》――あの五芒星《ペンタグラムマ》の円が判るよ。しかし、どのみち一つの角度《アングル》には相違ないけれども、なにしろ四人の帰化入籍というような、思いもつかぬものがあるほどだからね。その深さは並大抵のものじゃあるまい。いや、かえって僕は、それを迂闊《うかつ》に首肯してはならないものを握っているんだ」
「いったい何を?」
「先刻《さっき》君が質問した中の、(一)・(二)・(五)の箇条なんだよ。甲冑《かっちゅう》武者が階段廊の上へ飛び上っていて――、召使《バトラー》は聞えない音を聴いているし――、それから拱廊《そでろうか》では、ボードの法則が相変らず、海王星のみを証明出来ないのだがね」
そういう驚くべき独断《ドグマ》を吐き捨てて、法水は検事が書き終った覚書を取り上げた。それには、私見を交えない事象の配列のみが、正確に記述されてあった。
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一、死体現象に関する疑問(略)
二、テレーズ人形が現場に残せる証跡について(略)
三、当日事件発生前の動静
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一、早朝押鐘津多子の離館。
二、午後七時より八時――。甲冑武者の位置が階段廊上に変り、和式具足の二つの兜が取り替えられている。
三、午後七時頃、故算哲の秘書紙谷伸子が、ダンネベルグ夫人と争論せしと云う。
四、午後九時――。神意審問会中にダンネベルグは卒倒し、その時刻と符合せし頃、易介はその隣室の張出縁に異様な人影を目撃せりと云う。
五、午後十一時――。伸子と旗太郎がダンネベルグを見舞う。その折、旗太郎は壁のテレーズの額を取り去り、伸子はレモナーデを毒味せり。なお、青酸を注入せる洋橙《オレンジ》を載せたものと推察さるる果物皿を、易介が持参せるはその時なれども、肝腎の洋橙については、ついに証明されるものなし。
六、午後十一時四十五分頃。易介は最前の人影が落せしものを見て、裏庭の窓際に行き、硝子の破片並びにファウスト中の一章を記せる紙片を拾う。その間室内には被害者と鎮子のみなり。
七、同零時頃。被害者洋橙を喰す。
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なお、鎮子、易介、伸子以外の四人の家族には、記述すべき動静なし。
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四、黒死館既往変死事件について(略)
五、既往一年以来の動向
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一、昨年三月四日 四人の異国人の帰化入籍。
一、同 三月十日 算哲は日課書に不可解なる記述を残し、その日魔法書を焚くと云う。
一、同 四月二十六日 算哲の自殺。
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以来館内の家族は不安に怯《おび》え、ついに被害者は神意審問法により、その根元をなす者を究めんとす。
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六、黙示図の考察(略)
七、動機の所在(略)
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読み終ると法水は云った。
「この箇条書のうちで、第一の死体現象に関する疑問は、第三条の中に尽されていると思う。外見は、いっこう何でもなさそうな時刻の羅列にすぎないよ。しかし、洋橙《オレンジ》が被害者の口の中に飛び込んだ経路だけにでも、きっとフィンスレル幾何の公式ほどのものが、ギュウギュウと詰っているに違いないんだ。それから、算哲の自殺が、四人の帰化入籍と焚書の直後に起っているのにも、注目する価値があると思う」
「いや、君の深奥な解析などはどうでもいいんだ」と熊城は吐き出すような語気で、「そんな事より、動機と人物の行動との間に、大変な矛盾があるぜ。伸子はダンネベルグ夫人と争論をしているし、易介は知ってのとおりだ。それにまた鎮子だっても、易介が室《へや》を出ていた間に、何をしたか判ったものじゃない。ところが、君の云うファウスト博士の円は、まさに残った四人を指摘しているんだ」
「すると、儂《わし》だけは安全圏内ですかな」
その時背後で、異様な嗄《しゃが》れ声が起った。三人が吃驚《びっくり》して後を振り向くと、そこには、執事の田郷真斎がいつの間にか入《はい》り込んでいて、大風《おおふう》な微笑をたたえて見下《みおろ》している。しかし、真斎があたかも風のごとくに、音もなく三人の背後に現われ得たのも、道理であろう。下半身不随のこの老史学者は、ちょうど傷病兵でも使うような、護謨《ゴム》輪で滑かに走る手働四輪車の上に載っているからだった。真斎は相当著名な中世史家で、この館の執事を勤める傍《かたわら》に、数種の著述を発表しているので知られているが、もはや七十に垂《なんな》んとする老人だった。無髯《むぜん》で赭丹《しゃたん》色をした顔には、顴骨《かんこつ》突起と下顎骨が異常に発達している代りに、鼻翼の周囲が陥ち窪み、その相はいかにも醜怪で――と云うよりもむしろ脱俗的な、いわゆる胡面梵相《こめんぼんそう》とでも云いたい、まるで道釈画か十二神将の中にでもあるような、実に異風な顔貌だった。そして、頭に印度帽《テュルバン》を載せたところといい――そのすべてが、一語で魁異《グロテスケリ》と云えよう。しかし、どこか妥協を許さない頑迷固陋《がんめいころう》と云った感じで、全体の印象からは、甲羅のような外観《みかけ》がするけれども、そこには、鎮子のような深い思索や、複雑な性格の匂いは見出されなかった。なお、その手働四輪車は、前部の車輪は小さく、後部のものは自転車の原始時代に見るような素晴らしく大きなもので、それを、起動機と制動機とで操作するようになっていた。
「ところで、遺産の配分ですが」と熊城が、真斎の挨拶にも会釈を返さず、性急に口切り出すと、真斎は不遜《ふそん》な態度で嘯《うそぶ》いた。
「ホウ、四人の入籍を御存じですかな。いかにも事実じゃが、それは個人個人にお訊ねした方がよろしかろう。儂《わし》には、とんとそういう点は……」
「しかし、既《とっ》くに開封されているじゃありませんか。遺言書の内容だけは、話してしまった方がいいでしょう」熊城はさすがに老練な口穽《かま》を掛けたけれども、真斎はいっこうに動ずる気色《けしき》もなく、
「なに、遺言状……ホホウ、これは初耳じゃ」と軽く受け流して、早くも冒頭から、熊城との間に殺気立った黙闘が開始された。法水は最初真斎を一瞥《いちべつ》すると同時に、何やら黙想に耽《ふけ》るかの様子だったが、やがて収斂味《しゅうれんみ》の[#「収斂味《しゅうれんみ》の」は底本では「収歛味《しゅうれんみ》の」]かった瞳を投げて、
「ハハア、貴方は下半身不随《パラプレジア》ですね。なるほど、黒死館のすべてが内科的じゃない。ところで、貴方が算哲博士の死を発見されたそうですが、たぶんその下手人が、誰であるかも御存じのはずですがね」
これには、真斎のみならず、検事も熊城もいっせいに唖然となってしまった。真斎は蟇《がま》みたいに両|肱《ひじ》を立てて半身を乗り出し、哮《た》けるような声を出した。
「莫迦《ばか》な、自殺と決定されたものを……。貴方《あんた》は検屍調書を御覧になられたかな」
「だからこそです」と法水は追求した。「貴方は、その殺害方法までもたぶん御承知のはずだ。だいたい、太陽系の内惑星軌道半径が、どうしてあの老医学者を殺したのでしょう?」
二、鐘鳴器《カリリヨン》の讃詠歌《アンセム》で……
「内惑星軌道半径※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」このあまりに突飛《とっぴ》な一言に眩惑されて、真斎は咄嵯《とっさ》に答える術《すべ》を失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡《ふうび》したバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ([#ここから割り注]九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師[#ここで割り注終わり])の流れを汲《く》ん
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