とうてい聴くことは出来ぬと思われた、この神秘楽団の演奏に接することは出来たけれども、彼は徒《いたず》らに陶酔のみはしていなかった。と云うのは、楽曲の最後の部分になると、二つの提琴が弱音器を附けたのに気がついたことであって、それがために、低音の絃《げん》のみが高く圧したように響き、その感じが、天国の栄光に終る荘厳な終曲《フィナーレ》と云うよりも、むしろ地獄から響いてくる、恐怖と嘆きの呻《うめ》きとでも云いたいような、実に異様な感を与えたことである。終止符に達する前に、法水は扉を閉じて側の召使《バトラー》に訊ねた。
「君は、いつもこうして立番しているのかね」
「いいえ、今日が初めてでございます」と召使《バトラー》自身も解せぬらしい面持だったが、その原因は何となく判ったような気がした。それから、三人がゆったりと歩んで行くうち、法水が口をきって、
「まさにあの扉が、地獄の門なんだよ」と呟《つぶや》いた。
「すると、その地獄は、扉の内か外かね」と検事が問い返すと、彼は大きく呼吸をしてから、すこぶる芝居がかった身振で云った。
「それが外なのさ。あの四人は、確かに怯《おび》えきっているんだ。もしあれが芝居でさえなければ、僕の想像と符合するところがある」
鎮魂楽《レキエム》の演奏は、階段を上りきった時に終った。そして、しばらくの間は何も聞えなかったけれども、それから三人が区劃扉を開いて、現場の室《へや》の前を通る、廊下の中に出た時だった。再び鐘鳴器《カリリヨン》が鳴りはじめて、今度はラッサスの讃詠《アンセム》を奏ではじめたのであった(ダビデの詩篇第九十一篇)。
[#ここから2字下げ]
夜はおどろくべきことあり
昼はとびきたる矢あり
幽暗《くらき》にはあゆむ疫癘《えやみ》あり
日午《ひる》にはそこなう激しき疾《やまい》あり
されどなんじ畏《おそ》ることあらじ
[#ここで字下げ終わり]
法水はそれを小声で口誦《くちずさ》みながら、讃詠《アンセム》と同じ葬列のような速度で歩んでいたが、しかし、その音色は繰り返す一節ごとに衰えてゆき、それとともに、法水の顔にも憂色が加わっていった。そして、三回目の繰り返しの時、幽暗《くらき》には――の一節はほとんど聞えなかったが、次の、日午《ひる》には――の一節に来ると、不思議な事には、同じ音色ながらも倍音が発せられた。そうして、最後の節はついに聴かれなかったのであった。
「なるほど、君の実験が成功したぜ」と検事は眼を円くしながら、鍵の下りた扉を開いたが、法水のみは正面の壁に背を凭《もた》せたままで、暗然と宙を瞶《みつ》めている。が、やがて呟《つぶや》くような微かな声で云った。
「支倉君、拱廊《そでろうか》へ行かなけりゃならんよ。彼処《あそこ》の吊具足の中で、たしか易介が殺されているんだ」
二人は、それを聴いて思わず飛び上ってしまった。ああ、法水はいかにして、鐘鳴器《カリリヨン》の音から死体の所在を知ったのであろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
三、易介は挾まれて殺さるべし
ところが、法水《のりみず》はすぐ鼻先の拱廊《そでろうか》へは行かずに、円廊を迂回して、礼拝堂の円蓋《ドーム》に接している鐘楼階段の下に立った。そして、課員全部をその場所に召集して、まずそこを始めに、屋上から壁廓上の堡楼《ほろう》にまで見張りを立て、尖塔下の鐘楼を注視させた。こうしてちょうど二時三十分、鐘鳴器《カリリヨン》が鳴り終ってからわずかに五分の後には、蟻も洩らさぬ緊密な包囲形が作られたのであった。そのすべてが神速で集中的であり、もう事件がこれで終りを告げるのではないかと思われたほどに、結論めいた緊張の下に運ばれていったのだった。けれども、勿論法水の脳髄を、截ち割って見ないまでは、はたして彼が何事を企図しているのか――予測を許さぬことは云うまでもないのである。
ところで読者諸君は、法水の言動が意表を超絶している点に気づかれたであろう。それがはたして的中しているや否やは別としても、まさに人間の限界を越さんばかりの飛躍だった。鐘鳴器《カリリヨン》の音を聴いて、易介の死体を拱廊《そでろうか》の中に想像したかと思うと、続いて行動に現われたものは、鐘楼を目している。しかし、その晦迷錯綜としたものを、過去の言動に照し合わせてみると、そこに一縷《いちる》脈絡するものが発見されるのである。と云うのは、最初検事の箇条質問書に答えた内容であって、その後執事の田郷真斎に残酷な生理拷問を課してまでも、なおかつ後刻に至って彼の口から吐かしめんとした、あの大きな逆説《パラドックス》の事であった。勿論その共変法じみた因果関係は、他の二人にも即座に響いていた。そして、その驚くべき内容が、たぶん真斎の陳述を俟《ま》たずとも、この機会に闡明《せんめい》されるのではないかと思われるのだった。が、指令を終った後の法水の態度は、また意外だった。再び旧《もと》の暗い顔色《がんしょく》に帰って、懐疑的な錯乱したような影が往来を始めた。それから拱廊《そでろうか》の方へ歩んで行くうちに、思いがけない彼の嘆声が、二人を驚かせてしまった。
「ああ、すっかり判らなくなってしまったよ。易介が殺されて犯人が鐘楼にいるのだとすると、あれほど的確な証明が全然意味をなさなくなる。実を云うと、僕は現在判っている人物以外の一人を想像していたんだが、それがとんだ場所へ出現してしまった。まさかに別個の殺人ではないだろうがね」
「それじゃ、何のために僕等は引っ張り廻されたんだ?」検事は憤激の色を作《な》して叫んだ。「だいたい最初に君は、易介が拱廊の中で殺されていると云った。ところが、それにもかかわらず、その口の下で見当違いの鐘楼を見張らせる。軌道がない。全然無意味な転換じゃないか」
「さして、驚くには当らないさ」と法水は歪んだ笑を作って云い返した。「それと云うのが、鐘鳴器《カリリヨン》の讃詠《アンセム》なんだよ。演奏者は誰だか知らないが、しだいに音が衰えてきて、最終の一節はついに演奏されなかったのだ。それに最後に聞えた、日午《ひる》は――のところが、不思議にも倍音([#ここから割り注]ド・レミ[#「レミ」はママ]・ファと最終のドを基音にした、一オクターヴ上の音階[#ここで割り注終わり])を発している。ねえ、支倉君、これは、けだし一般的な法則じゃあるまいと思うよ」
「では、とりあえず君の評価を承《うけたまわ》ろうかね」と熊城が割って入ると、法水の眼に異常な光輝が現われた。
「それが、まさに悪夢なんだ。怖ろしい神秘じゃないか。どうして、散文的に解る問題なもんか」と一旦は狂熱的な口調だったのが、しだいに落着いてきて、「ところで、最初易介が、すでにこの世の人でないとしてだ――勿論何秒か後には、その厳然たる事実が判るだろうと思うが、さてそうなると、家族全部の数に一つの負数が剰《あま》ってしまうのだ。で、最初は四人の家族だが、演奏を終ってすぐ礼拝堂を出たにしても、それから鐘楼へ来るまでの時間に余裕がない。また、真斎はあらゆる点で除外されていい。すると、残ったのは伸子と久我鎮子になるけれども、一方、鐘鳴器《カリリヨン》の音がパタリと止んだのではなく、しだいに弱くなっていった点を考えると、あの二人がともに鐘楼にいたという想像は、全然当らないと思う、勿論その演奏者に、何か異常な出来事が起ったには違いないけれども、その矢先、讃詠《アンセム》の最後に聞えた一節が、微かながら倍音を発したのだ。云うまでもなく、鐘鳴器《カリリヨン》の理論上倍音は絶対に不可能なんだよ。すると熊城君、この場合鐘楼には、一人の人間の演奏者以外に、もう一人、奇蹟的な演奏を行える化性のものがいなければならない。ああ、あいつ[#「あいつ」に傍点]はどうして鐘楼へ現われたのだろうか?」
「それなら、何故先に鐘楼を調べないのだね?」と熊城が詰《なじ》り掛ると、法水は、幽に声を慄《ふる》わせて、
「実は、あの倍音に陥穽《かんせい》があるような気がしたからなんだ。なんだか微妙な自己曝露のような気がしたので、あれを僕の神経だけに伝えたのにも、なんとなく奸計《たくらみ》がありそうに思われたからなんだよ。第一犯人が、それほど、犯行を急がねばならぬ理由が判らんじゃないか。それに熊城君、僕等が鐘楼でまごまごしている間、階下の四人はほとんど無防禦なんだぜ。だいたいこんなダダっ広い邸の中なんてものは、どこもかしこも隙だらけなんだ。どうにも防ぎようがない。だから、既往のものは致し方ないにしても、新しい犠牲者だけは何とかして防ぎ止めたいと思ったからなんだ。つまり、僕を苦しめている二つの観念に、各々《それぞれ》対策を講じておいたという訳さ」
「フム、またお化けか」と検事は下唇を噛みしめて呟いた。「すべてが度外れて気違いじみている。まるで犯人は風みたいに、僕等の前を通り過ぎては鼻を明かしているんだ。ねえ法水君、この超自然はいったいどうなるんだい。ああ徐々《だんだん》に、鎮子の説の方へまとまってゆくようじゃないか」
未《いま》だ現実に接していないにもかかわらず、すべての事態が、明白に集束して行く方向を指し示している。やがて、開け放たれた拱廊《そでろうか》の入口が眼前に現われたが、突当りの円廊に開いている片方の扉が、いつの間にか鎖じられたとみえて、内部《なか》は暗黒に近かった。その冷やりと触れてくる空気の中で、微かに血の臭気が匂ってきた。それが、捜査開始後、未《ま》だ四時間にすぎないのである。それにもかかわらず、法水等が暗中摸索を続けているうちに、その間犯人は隠密な跳梁《ちょうりょう》を行い、すでに第二の事件を敢行しているのだ。
[#殺人現場の図(fig1317_07.png)入る]
法水は、すぐ円廊の扉を開いて光線を入れてから、左側に立ち並んでいる吊具足の列を見渡しはじめた。が、すぐに「これだ」と云って、中央の一つを指差した。その一つは、萌黄匂《もえぎにおい》の鎧《よろい》で、それに鍬形《くわがた》五枚立の兜《かぶと》を載せたほか、毘沙門篠《びしゃもんしの》の両|籠罩《こて》、小袴《こばかま》、脛当《すねあて》、鞠沓《まりぐつ》までもつけた本格の武者装束。面部から咽喉にかけての所は、咽輪《のどわ》と黒漆《くろぬり》の猛悪な相をした面当《めんぼう》で隠されてあった。そして、背には、軍配|日月《じつげつ》の中央に南無日輪摩利支天《なむにちりんまりしてん》と認《したた》めた母衣《ほろ》を負い、その脇に竜虎の旗差物《はたさしもの》が挾んであった。しかし、その一列のうちに注目すべき現象が現われていたと云うのは、その萌黄匂を中心にして、左右の全部が等しく斜めに向いているばかりでなく、その横向きになった方向が、交互《かわるがわる》一つ置きに一致していて、つまり、右、左、右という風に、異様な符合が現われている事だった。法水がその面当《めんぼう》を外すと、そこに易介の凄惨な死相が現われた。はたせるかな、法水の非凡な透視は適中していたのだ。のみならず、ダンネベルグ夫人の屍光と代り合って、この侏儒《こびと》の傴僂《せむし》は奇怪千万にも、甲冑を着し宙吊りになって殺されている。ああ、ここにもまた、犯人の絢爛《けんらん》たる装飾癖が現われているのだった。
最初眼についたのは、咽喉につけられている二条の切創《きりきず》だった。それを詳しく云うと、合わせた形がちょうど二の字形をしていて、その位置は、甲状軟骨から胸骨にかけての、いわゆる前頸部であったが、創形が楔形《くさびがた》をしているので、鎧通し様のものと推断された。また、深さを連ねた形状が、※[#「凵」のような形(fig1317_08.png)、119−1]形をしているのも奇様である。上のものは、最初気管の左を、六センチほどの深さに刺してから刀《とう》を浮かし、今度は横に浅い切創《せっそう》を入れて迂廻してゆき、右側にくると、再びそこヘグイと刺し込んで刀を引き抜いている。下の一つもだいたい同じ形だが、その方向だけは斜め下にな
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