むし》を療《なお》してしまったものがあったのだ。この室《へや》に絶えず忍び入っていた人物は、いつもこの前の台の上に手燭を置いていたのだよ。しかし、その跡なんぞは、どうにか誤魔《ごま》かしてしまうにしても、その時から、一つの|物云う象徴《テルテールシムボル》[#「|物云う象徴《テルテールシムボル》」は底本では「物云《テルテール》う象徴《シムボル》」]が作られていった。焔の揺ぎから起る微妙な気動が、一番不安定な位置にある数珠玉の埃を、ほんの微かずつ落していったのだよ。ねえ支倉君、じいっと耳を澄ましていると、なんだか茶立蟲のような、美しい鑿《たがね》の音が聞えてくるようじゃないか。ときに、こういうヴェルレーヌの詩が……」
「なるほど」と検事は慌《あわ》てて遮って、「けれども、その二年の歳月が、昨夜一夜を証明するものとは云われまい」
 とさっそくに法水は、熊城を振り向いて、「たぶん君は、コプト織の下を調べなかったろう」
「だいたい、何がそんな下に?」熊城は眼を円《まる》くして叫んだ。
「ところが、死点《デッドポイント》と云えるものは、けっして網膜の上や、音響学ばかりにじゃないからね。フリーマンは織目の隙から、特殊な貝殻粉を潜り込ましている」と法水が静かに敷物を巻いてゆくと、そこの床には垂直からは見えないけれども、切嵌《モザイク》の車輪模様の数がふえるにつれて、微かに異様な跡が現われてきた。その色大理石と櫨木《はぜのき》の縞目の上に残されているものは、まさしく水で印した跡だった。全体が長さ二尺ばかりの小判形で、ぼうっとした塊状であるが、仔細に見ると、周囲は無数の点で囲まれていて、その中に、様々な形をした線や点が群集していた。そして、それが、足跡のような形で、交互に帷幕《とばり》の方へ向い、先になるに従い薄らいでゆく。
「どうも原型を回復することは困難らしいね。テレーズの足だってこんなに大きなものじゃない」と熊城はすっかり眩惑されてしまったが、
「要するに、陰画を見ればいいのさ」と法水はアッサリ云い切った。「コプト織は床に密着しているものではないし、それに櫨木《はぜのき》には、パルミチン酸を多量に含んでいるので、弾水性があるからだよ。表面から裏側に滲み込んだ水が、繊毛から滴り落ちて、その下が櫨木《はぜのき》だと、水が水滴になって跳ね飛んでしまう。そして、その反動で、繊毛が順次に位置を変えてゆくのだから、何度か滴り落ちるうちには、終いに櫨木《はぜのき》から大理石の方へ移ってしまうだろう。だから、大理石の上にある中心から一番遠い線を、逆に辿って行って、それが櫨木にかかった点を連ねたものが、ほぼ原型の線に等しいと云う訳さ。つまり、水滴を洋琴《ピアノ》の鍵《キイ》にして、毛が輪旋曲《ロンド》を踊ったのだよ」
「なるほど」と検事は頷《うなず》いたが、「だが、この水はいったい何だろうか?」
「それが、昨夜《ゆうべ》は一滴も」と鎮子が云うと、それを、法水は面白そうに笑って、
「いや、それが紀長谷雄《きのはせお》卿の故事なのさ。鬼の娘が水になって消えてしまったって」
 ところが、法水の諧謔は、けっしてその場限りの戯言《ぎげん》ではなかった。そうして作られた原型を、熊城がテレーズ人形の足型と、歩幅とに対照してみると、そこに驚くべき一致が現われていたのである。幾度か推定の中で、奇体な明滅を繰り返しながらも、得態の知れない水を踏んで現われた人形の存在は、こうなると厳然たる事実と云うのほかにない。そして、鉄壁のような扉《ドア》とあの美しい顫動音《せんどうおん》との間に、より大きな矛盾が横たえられてしまったのであった。こうして、濛々《もうもう》たる莨《たばこ》の煙と謎の続出とで、それでなくても、この緊迫しきった空気に検事はいい加減上気してしまったらしく、窓を明け放って戻って来ると、法水は流れ出る白い煙を眺めながら、再び座についた。
「ところで久我さん、過去の三事件にはこの際論及しないにしてもです。いったいどうしてこの室《へや》が、かような寓意的なもので充ちているのでしょう。あの立法者《スクライブ》の像なども、明白に迷宮の暗示ではありませんか。あれは、たしかマリエットが、埋葬地《ネクロポリス》にある迷宮《ラビリンス》の入口で発見したのですからね」
「その迷宮は、たぶんこれから起る事件の暗示ですわ」と鎮子は静かに云った。「恐らく最後の一人までも殺されてしまうでしょう[#「恐らく最後の一人までも殺されてしまうでしょう」に傍点]」
 法水は驚いて、しばらく相手の顔を瞶《みつ》めていたが、
「いや、少なくとも三つの事件までは[#「少なくとも三つの事件までは」に傍点]……」と鎮子の言《ことば》を譫妄《うわごと》のような調子で云い直してから、「そうすると久我さん、貴女《あなた》
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