黒死館殺人事件
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)聖《セント》アレキセイ寺院の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当主|旗太郎《はたたろう》以外の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)紋章学※[#感嘆符疑問符、1−8−78]

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(例)〔Ru:be〕
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http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#ページの左右中央]
  序篇 降矢木一族釈義
[#改ページ]


 聖《セント》アレキセイ寺院の殺人事件に法水《のりみず》が解決を公表しなかったので、そろそろ迷宮入りの噂《うわさ》が立ちはじめた十日目のこと、その日から捜査関係の主脳部は、ラザレフ殺害者の追求を放棄しなければならなくなった。と云うのは、四百年の昔から纏綿《てんめん》としていて、臼杵耶蘇会神学林《うすきジェスイットセミナリオ》以来の神聖家族と云われる降矢木《ふりやぎ》の館に、突如真黒い風みたいな毒殺者の彷徨《ほうこう》が始まったからであった。その、通称黒死館と呼ばれる降矢木の館には、いつか必ずこういう不思議な恐怖が起らずにはいまいと噂されていた。勿論そういう臆測を生むについては、ボスフォラス以東にただ一つしかないと云われる降矢木家の建物が、明らかに重大な理由の一つとなっているのだった。その豪壮を極めたケルト・ルネサンス式の城館《シャトウ》を見慣れた今日でさえも、尖塔や櫓楼の量線からくる奇異《ふしぎ》な感覚――まるでマッケイの古めかしい地理本の插画でも見るような感じは、いつになっても変らないのである。けれども、明治十八年建設当初に、河鍋暁斎《かわなべぎょうさい》や落合芳幾《おちあいよしいく》をしてこの館の点睛《てんせい》に竜宮の乙姫を描かせたほどの綺《きら》びやかな眩惑は、その後星の移るとともに薄らいでしまった。今日では、建物も人も、そういう幼稚な空想の断片ではなくなっているのだ。ちょうど天然の変色が、荒れ寂《さ》びれた斑《まだら》を作りながら石面を蝕《むしば》んでゆくように、いつとはなく、この館を包みはじめた狭霧《さぎり》のようなものがあった。そうして、やがては館全体を朧気《おぼろげ》な秘密の塊としか見せなくなったのであるが、その妖気のようなものと云うのは、実を云うと、館の内部に積り重なっていった謎の数々にあったので、勿論あのプロヴァンス城壁を模したと云われる、周囲の壁廓ではなかったのだ。事実、建設以来三度にわたって、怪奇な死の連鎖を思わせる動機不明の変死事件があり、それに加えて、当主|旗太郎《はたたろう》以外の家族の中に、門外不出の弦楽四重奏団《ストリング・カルテット》を形成している四人の異国人がいて、その人達が、揺籃の頃から四十年もの永い間、館から外へは一歩も出ずにいると云ったら……、そういう伝え聞きの尾に鰭《ひれ》が附いて、それが黒死館の本体の前で、鉛色をした蒸気の壁のように立ちはだかってしまうのだった。まったく、人も建物も腐朽しきっていて、それが大きな癌《がん》のような形で覗かれたのかもしれない。それであるからして、そういった史学上珍重すべき家系を、遺伝学の見地から見たとすれば、あるいは奇妙な形をした蕈《きのこ》のように見えもするだろうし、また、故人降矢木|算哲《さんてつ》博士の神秘的な性格から推して、現在の異様な家族関係を考えると、今度は不気味な廃寺のようにも思われてくるのだった。勿論それ等のどの一つも、臆測が生んだ幻視にすぎないのであろうが、その中にただ一つだけ、今にも秘密の調和を破るものがありそうな、妙に不安定な空気のあることだけは確かだった。その悪疫のような空気は、明治三十五年に第二の変死事件が起った折から萌《きざ》しはじめたもので、それが、十月ほど前に算哲博士が奇怪な自殺を遂げてからというものは――後継者旗太郎が十七の年少なのと、また一つには支柱を失ったという観念も手伝ったのであろう――いっそう大きな亀裂になったかのように思われてきた。そして、もし人間の心の中に悪魔が住んでいるものだとしたら、その亀裂の中から、残った人達を犯罪の底に引き摺り込んででもゆきそうな――思いもつかぬ自壊作用が起りそうな怖れを、世の人達はしだいに濃く感じはじめてきた。けれども、予測に反して、降矢木一族の表面には沼気ほどの泡一つ立たなかったのだが、恐らくそれと云うのも、その瘴気《しょうき》のような空気が、未だ飽和点に達しなかったからであろうか。否、その時すでに水底では、静穏
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