な水面とは反対に、暗黒の地下流に注ぐ大きな瀑布が始まっていたのだ。そして、その間に鬱積していったものが、突如凄じく吹きしく嵐と化して、聖家族の一人一人に血行を停めてゆこうとした。しかも、その事件には驚くべき深さと神秘とがあって、法水麟太郎《のりみずりんたろう》はそれがために、狡智きわまる犯人以外にも、すでに生存の世界から去っている人々とも闘わねばならなかったのである。ところで、事件の開幕に当って、筆者は法水の手許に集められている、黒死館についての驚くべき調査資料のことを記さねばならない。それは、中世楽器や福音書写本、それに古代時計に関する彼の偏奇な趣味が端緒となったものであるが、その――恐らく外部からは手を尽し得る限りと思われる集成には、検事が思わず嘆声を発し、唖然となったのも無理ではなかった。しかも、その痩身的な努力をみても、すでに法水自身が、水底の轟《とどろき》に耳を傾けていた一人だったことは、明らかであると思う。
その日――一月二十八日の朝。生来あまり健康でない法水は、あの霙《みぞれ》の払暁に起った事件の疲労から、全然|恢復《かいふく》するまでになっていなかった。それなので、訪れた支倉《はぜくら》検事から殺人という話を聴くと、ああまたか――という風な厭《いや》な顔をしたが、
「ところが法水君、それが降矢木家なんだよ。しかも、第一|提琴《ヴァイオリン》奏者のグレーテ・ダンネベルグ夫人が毒殺されたのだ」と云った後の、検事の瞳に映った法水の顔には、にわかにまんざらでもなさそうな輝きが現われていた。しかし、法水はそう聴くと不意に立って書斎に入ったが、間もなく一抱えの書物を運んで来て、どかっと尻を据えた。
「ゆっくりしようよ支倉君、あの日本で一番不思議な一族に殺人事件が起ったのだとしたら、どうせ一、二時間は、予備智識に費《かか》るものと思わなけりゃならんよ。だいたい、いつぞやのケンネル殺人事件――あれでは、支那古代陶器が単なる装飾物にすぎなかった。ところが今度は、算哲博士が死蔵している、カロリング朝以来の工芸品だ。その中に、あるいはボルジアの壺がないとは云われまい。しかし、福音書の写本などは一見して判るものじゃないから……」と云って、「一四一四年|聖《サン》ガル寺発掘記」の他二冊を脇に取り除け、綸子《りんず》と尚武革《しょうぶがわ》を斜めに貼り混ぜた美々しい装幀の一冊を突き出すと、
「紋章学※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は呆れたように叫んだ。
「ウン、寺門義道《てらかどよしみち》の『紋章学秘録』さ。もう稀覯本《きこうぼん》になっているんだがね。ところで君は、こういう奇妙な紋章を今まで見たことがあるだろうか」と法水が指先で突いたのは、FRCO[#「FRCO」は太字]の四字を、二十八葉|橄欖《かんらん》冠で包んである不思議な図案だった。
「これが、天正遣欧使の一人――千々石《ちぢわ》清左衛門|直員《なおかず》から始まっている、降矢木家の紋章なんだよ。何故、豊後《ぶんご》王|普蘭師司怙《フランシスコ》・休庵《シヴァン》(大友宗麟)の花押《かおう》を中にして、それを、フィレンツェ大公国の市表章旗の一部が包んでいるのだろう。とにかく下の註釈を読んで見給え」
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――「クラウディオ・アクワヴィバ(耶蘇《ジェスイット》会会長)回想録」中の、ドン・ミカエル(千々石のこと)よりジェンナロ・コルバルタ(ヴェニスの玻璃《ガラス》工)に送れる文。(前略)その日バタリア僧院の神父ヴェレリオは余を聖餐式《エウカリスチヤ》に招きたれど、姿を現わさざれば不審に思いいたる折柄、扉を排して丈《たけ》高き騎士現われたり、見るに、バロッサ寺領騎士の印章を佩《つ》け、雷の如き眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて云う。フランチェスコ大公妃ビアンカ・カペルロ殿は、ピサ・メディチ家において貴下の胤《たね》を秘かに生めり。その女児に黒奴《ムール》の乳母をつけ、刈込垣の外に待たせ置きたれば受け取られよ――と。余は、駭《おどろ》けるも心中覚えある事なれば、その旨《むね》を承じて騎士を去らしむ。それより悔改《コンチリサン》をなし、贖罪符《しょくざいふ》をうけて僧院を去れるも、帰途船中|黒奴《ムール》はゴアにて死し、嬰児《えいじ》はすぐせ[#「すぐせ」に傍点]と名付けて降矢木の家を創《おこ》しぬ。されど帰国後吾が心には妄想《もうぞう》散乱し、天主《デウス》、吾れを責むる誘惑《テンタサン》の障礙《しょうげ》を滅し給えりとも覚えず。(以下略)
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「つまり、降矢木の血系が、カテリナ・ディ・メディチの隠し子と云われるビアンカ・カペルロから始まっていると云うことなんだが、その母子《おやこ》がそろって、怖ろしい惨虐性犯
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